三浦知良
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三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、日本の現役最年長プロサッカー選手。ポジションはFWでCFとして期待されるが本職は左WG。静岡市葵区出身。
通称は「カズ」「キング・カズ」など。今となっては、彼を指す場合一般人のほとんどや民放はもちろん、NHKですらカズと呼び、基本的に三浦と呼ぶことは皆無である。それほどまでに「カズ」という愛称が定着している。年齢40を目前にしながらもプレーし続ける姿や、日本サッカー界におけるさまざまな先駆けとなる実績から国民的存在と位置づけても差し支えない人物である。
現所属は横浜FC。兄は三浦泰年(通称ヤス)、1993年8月1日タレントの三浦りさ子(旧姓:設楽理佐子)と結婚。伯父の納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督である。また、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっている。
日本サッカー界屈指の「伊達男」として有名である。『ゴッドファーザー』好きで、ファッションはその影響がある。好物は彼の自著の名前にもなっているおはぎだが、食事には気を使い摂生に努めている。
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[編集] 経歴
1967年、もんじゃ焼き店の次男として生まれる。両親の離婚により母に引き取られ、三浦姓を称する。
1973年、静岡市立城内小学校に入学する。小学時代には、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。
1982年、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずして中退、ブラジルに単身渡航。ジュベントスへ留学。
1985年、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に日本人として初出場。SBSユースにキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋。当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行う。
1986年2月、サントスFC(カンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国リーグの古豪)とプロ契約。1部リーグ2試合に出場。5月にはパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップに凱旋出場。10月、パラナ州リーグのソシエダージ・エスポルティーバ・マツバラへレンタル移籍。
1987年2月、マツバラと正式契約。10月アラゴアス州リーグのクルベー・デ・レガッタス・ブラジルに移籍。
1988年、サンパウロ州リーグのキンセ・デ・ジャウーへ移籍。日本人としてリーグ戦初ゴールをコリンチャンス戦で記録。
1990年2月、サンパウロ州リーグのサントスFCへ再移籍。7月に帰国、日本リーグ・読売クラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディ1969の前身)に移籍。ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏らとともに黄金期を築く。
1993年、日本人最高の20得点を記録しヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVP受賞。1994年にはイタリア・セリエAのジェノアに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。しかし、初戦のACミラン戦でフランコ・バレージと激突、鼻骨を骨折し一ヶ月戦線離脱となるという、苦いセリエAデビューとなる。その後、戦線復帰後も頻繁な日本代表への招集などもあり、1シーズンで1ゴールを記録するに留まった。シーズン終了後スポルティング・リスボンなどの欧州クラブからのオファーもあったが、当時ヴェルディの実質的オーナー読売新聞社長渡邉恒雄との「一年限定」という密約もあってか(本人がインタビューで語っている)、ヴェルディに復帰。
1998年末、ヴェルディは親会社の撤退で大幅な経営縮小と、カズを含む高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行。多くのスター選手が引退を余儀なくされる中、カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍。しかし、1ゴールも挙げることのないまま1999年6月には日本に帰国、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた京都パープルサンガに移籍。
2000年シーズン終了後、16得点を記録したにもかかわらず、「カズを2部チームに在籍させるのは失礼である」という京都の判断により、2001年シーズンからヴィッセル神戸に移籍。
2005年7月、度重なる監督交代により迷走していた神戸の中でカズは出場機会を失っていた為、出場機会を求めてJ2の横浜FCに移籍。
その後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍。
同クラブは、元Jリーガーでもあるピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはゲストプレイヤー枠のリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残す。FIFAクラブ世界選手権では2試合にスタメン出場したが得点には絡まず、シドニーFCは5位で大会を終えた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番をつけた。
ちなみに同大会の前身であるトヨタカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。
この大会では残念ながら日本のJクラブが出場権を得られず、一般的な日本のサッカーファンの関心の薄い大会になるところであったため、カズの出場は興行的には意味があったと評価された。
2006年、横浜FC選手兼任の監督補佐扱いとなる。但し、Jリーグでは監督・コーチと選手を兼任することが出来ない規則となっている上、カズ自身Jリーグの監督に必要な指導者ライセンスを所持していないので、登録上は選手扱いである。
また、2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州一部リーグに所属するウニオン・サンジョアンの球団買収に乗り出していることが明らかになり、現役選手活動を続けつつ後継者育成に尽力することになる。
ブラジル在住の経験から、ポルトガル語、そしてイタリア語も堪能。また、元イタリア代表ロベルト・バッジョを始めとして、世界の有名選手との親交も深い。
偶然にも2006 FIFAワールドカップで日本が予選リーグで対戦した3国(ブラジル・クロアチア・オーストラリア)は、全てカズがプレーした経験のある国であったが、このことも彼の経験の豊富さを物語っている。
[編集] 日本代表
1990年9月のバングラデシュ戦でA代表デビュー。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップ、アジアカップ1992では「魂込めました、足に」の名セリフで知られる後半終了間際のゴールを決めたイラン戦での活躍もあり優勝等に貢献する。
1993年のワールドカップ米国大会予選はカズのハイライトとなった。1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ不動のエースとして活躍。中でも韓国戦での決勝ゴールは本大会出場を引き寄せただけでなく、日本サッカーが40年間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。しかし最後のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、手元にあった本大会出場をあと一歩のところで逃した。
その後パウロ・ロベルト・ファルカン、加茂周と監督が変わる中でも彼はコンスタントにゴールを決め続け、エースの座を保持し続けていた。
だが、1997年のワールドカップフランス大会最終予選、初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後の試合では尾てい骨骨折という怪我を押して出場するものの1ゴールも挙げられず、カズ代表不要論が高まり、国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに監禁される事件もあった。
その後ワールドカップ本大会出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことは現在でも語り草となっている。この時、ピッチ内では中山の交代だと伝え聞いていたのに、交代板には11番が先に出たので、「ゴンなのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったともいうが、一般的には『まさか俺を交代させるのか?』と言うアピールだと受け取られた。
1998年、ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだが、北澤豪、市川大祐と共に本大会出場メンバーから外され帰国(発表会見での岡田武史監督の「外れるのはー、えー市川、えーカズ、えー三浦カズ。それから北澤。三選手です。チーム のために残すのは得策じゃないと判断して、カズと北澤に関しては僕の判断で帰しました。」という一節は有名。外れるのはカズ、三浦カズと間違えて記憶されていることが多いが実際は市川の名前が先)。このことはマスコミで大きく報じられ、世間を二分する大論争になった。日本代表の本大会1次リーグ3戦全敗という結果と、代表に残りながら出場のチャンスが全くなかった選手も何人もいたことから、「こんなことならせめてメンバー入りさせてやれば」という温情論も出た。彼を外した岡田監督はいまだにカズを外した監督として一部のファンから非難されている。
フィリップ・トルシエに監督が変わった後、1999年末から2000年までは代表に召集される事もあったが、2000年6月のハッサン二世国王杯でのジャマイカ戦を最後に代表の試合に出ることはなくなった。トルシエはカズの人間性を高く評価しており、チームの精神的支柱たらしめるべくコーチ格としてチームに加えたい意向を持っており、カズもその打診があったと認めている。しかし「スーツを着てベンチに入るのは……」と、あくまで現役選手としての代表にこだわるカズはこれを固辞した。
2002年・2006年のワールドカップでも代表入りの願望は持ち続けていたが叶わず、W杯出場の夢破れた選手の象徴となった。しかしカズ本人は2006年のW杯の選手変更エントリーが可能な最後の日まで、代表に選ばれる可能性のある限りその準備をして待っていたと語り、なお2010年のワールドカップ出場を目指している。
[編集] 記録
国際Aマッチ通算91試合出場(JFA/FIFA認定歴代3位。井原正巳(123試合)、川口能活(更新中)に次ぐ記録)
国際Aマッチ通算56ゴール(日本代表ではFIFA認定歴代1位、JFA認定歴代2位、釜本邦茂に次ぐ記録(オリンピック予選および本選の得点を除外しない場合もしくはAマッチ以外の全得点も含む場合))
[編集] プレイスタイル
ブラジル時代は細身の体を生かしてキレのあるドリブル突破でウイングとして活躍。事実、ファンの間ではカズのブラジル代表への帰化を望む声もあった。帰国後、フィジカル面で一皮剥け、カズ・フェイント(リベリーノというブラジル代表選手のフェイントをアレンジしたもの)と称された独特のフェイントを駆使したドリブル突破はサポーターを魅了した。日本代表でも、他の追随を許さぬエースとしてアメリカW杯予選で抜群の勝負強さを発揮。現在Jリーグで最年長ながらここぞという場面での得点感覚、ベテランらしい読み、熟練した体の使い方等は若手選手の模範と言える。
日本人に欠けているとされる、「シュートで攻撃を終える」ということができるFW。実際カズのシュート数はJリーグ記録で他のFWと比べてもかなり多い。
また、シュートだけではなく、フリーキック、コーナーキックを左右両方の足で同じ強さで蹴る事のできる世界でも数少ない選手であり、練習量の多さが伺い知れる。普段は辛口評論で有名なセルジオ越後氏も、カズを日本No.1のサッカープレーヤーだと賛辞を惜しまない。
しかし現代サッカーが、ラモス瑠偉に代表されるゲームメーカーが個人技を駆使して局面を打開するブラジル様式から、少ないタッチ数でボールを回し、組織で局面を打開することを基調とするヨーロッパ様式へと変化したことにより、彼の個人技をアピールする場は減ってしまった。
しかしそれでも、常に万全のコンディションを維持し、サッカーに対する真摯で情熱的な姿勢は多くの人物の尊敬を受けて、根強いファンがその功績を称えて「キング・カズ」と呼ぶ。
[編集] 人気
カズ加入後、横浜FCは以前より観客動員数が大幅に増え、アウェイの試合でも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。
このシーズンの横浜FCのレプリカユニフォームはカズ加入後に爆発的に売り上げを伸ばし完売。同チームとしては異例とも言える追加発売を行ったがまたも完売した。
シドニーFCに期限付き移籍した際にも、日本のスターという紹介をされ歓迎された。
また、本人やファン共に日本代表復帰を熱望し、今なお日本代表の背番号11には「KAZU」のネームを入れたユニフォームを注文したり代表Aマッチには着用して応援するファンも多い。
ちなみにデザインは彼がもっとも活躍していた93年の"ドーハモデル"と言われている物や炎を象った96-97モデルにはじまり、代表に選出されなくなった年代の物を含め最新モデルにも11・KAZUのネームナンバーを取り付けたユニフォームなど様々である。通常、ユニフォームを取り扱う店には代表に選ばれていない選手のネーム在庫は置かないが、カズの物だけは特別に製作されており(日本代表以外ではイタリア代表の最新モデルのロベルト・バッジョのネームナンバーを用意しているお店もある)、世代を越えた人気を持つ選手である。
[編集] 所属チーム
- ジュベントス(ブラジル、カンピオナート・ブラジレイロ) 1982年
- キンゼ・デ・ジャウー(ブラジル) 1985年、1988年
- サントスFC(ブラジル) 1986年、1990年
- SEマツバラ(ブラジル) 1987年
- CRB(ブラジル) 1987年-1988年
- コリチーバ(ブラジル) 1989年
- 読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969) 1990年-1994年7月
- ジェノア(セリエA) 1994年7月-1995年7月(1シーズン)
- ヴェルディ川崎 1995年7月-1998年
- クロアチア・ザグレブ(クロアチア) 1999年1月-1999年7月
- 京都パープルサンガ 1999年7月-2000年
- ヴィッセル神戸 2001年-2005年7月
- 横浜FC 2005年7月-10月
- シドニーFC(オーストラリア) 2005年11月-2006年1月
- 横浜FC 2006年2月-
[編集] 戦歴
[編集] Jリーグ通算成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1992年 | ヴ川崎 | J | - | - | - | 2 | 0 | 2 | 1 | ||
1993年 | ヴ川崎 | J | - | 36 | 20 | - | 1 | 0 | 3 | 3 | |
1994年 | ヴ川崎 | J | - | 22 | 16 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1995年 | ヴ川崎 | J | - | 26 | 23 | - | - | 2 | 0 | ||
1996年 | ヴ川崎 | J | - | 27 | 23 | - | 6 | 3 | 5 | 4 | |
1997年 | ヴ川崎 | J | 11 | 14 | 4 | - | 0 | 0 | 2 | 1 | |
1998年 | ヴ川崎 | J | 11 | 28 | 5 | - | |||||
1999年 | 京都 | J1 | 36 | 11 | 4 | - | |||||
2000年 | 京都 | J1 | 11 | 30 | 17 | - | |||||
2001年 | 神戸 | J1 | 11 | 29 | 11 | - | |||||
2002年 | 神戸 | J1 | 11 | 17 | 3 | - | |||||
2003年 | 神戸 | J1 | 11 | 24 | 4 | - | |||||
2004年 | 神戸 | J1 | 11 | 21 | 4 | - | |||||
2005年 | 神戸 | J1 | 11 | 12 | 3 | - | |||||
横浜FC | J2 | 11 | - | 16 | 4 | - | |||||
2006年 | 横浜FC | J2 | 11 | - | 39 | 6 | - | 0 | 0 | ||
通算 | 297 | 136 | 55 | 10 |
[編集] タイトル
- 1990/91年 - コダックオールスター(東西対抗)最優秀選手賞、日本サッカーリーグ報知・年間優秀11人賞(ベストイレブン)
- 1991/92年 - 日本サッカーリーグ最優秀選手賞、同ベストイレブン
- 1992年 - ナビスコカップMVP・得点王、ダイナスティカップMVP、AFCアジアカップ大会最優秀選手(MVP)、アジアベストイレブン賞
- 1993年 - Jリーグ最優秀選手賞、Jリーグベストイレブン、日本プロスポーツ大賞、第1回オールスターMVP、W杯アメリカ大会アジア最終予選得点王、アジアサッカー連盟(AFC)年間最優秀選手
- 1994年 - アシックスカップサッカー優秀選手賞
- 1995年 - Jリーグベストイレブン、JOMOカップMVP
- 1996年 - Jリーグ得点王、Jリーグベストイレブン
- 2000年 - Jリーグ優秀選手賞
[編集] 著書
- 『おはぎ』(2006年、講談社)ISBN 4063077543
- 『三浦知良 伝説の言葉-蹴音-』(2006年、ぴあ)ISBN 4835616189
[編集] 関連書籍
- 『KAZU-十五の旅立ち 三浦知良物語』(綾野まさる 著)
- 『足に魂こめました』(一志治夫 著)
- 『たったひとりのワールドカップ 三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫 著)
- 『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 - カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著)
[編集] カズダンス
近年はあまり見せなくなったが、本人が得点を決めた時にするポーズ。カレカがやっていたポーズを参考に、田原俊彦がアレンジを加えた。なお、これを見たカレカは「あれはサンバじゃないな」と言ったそうである。 また城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした(それ以来城はカズダンスをしていない)。 一説には「踊り方が違う」などの説教だったとも言われている(後に中山雅史がTVで語った)
[編集] 語録
- 「ブラジルでプロ選手になって、いつかW杯に出たい」(高1/1982年地元静岡の新聞インタビューに答えて)
- 「日本代表をW杯に出場させるために帰ってきました」(1990年読売サッカークラブと契約し帰国した時の会見)
- 「魂込めました、足に」(1993年アメリカW杯アジア地区最終予選VS韓国でゴールを決めて)
- 「悲しみはいつか癒えていくのかもしれない。でも、傷って消えることは無いんです」(1997年フランスW杯アジア地区最終予選開始前、「ドーハの悲劇について今どう思いますか?」と質問され)
- 「成功した時にスポーツ紙の一面になるのは普通の選手。失敗した時にスポーツ紙の一面になる選手は限られている。一面で失敗を取り上げられ叩かれることに誇りを持てばいい」(1998年柔道の田村亮子選手が、イチロー選手との対談で「KAZUさんに言われたこの話を思い出すと心強くなる」と語った)
- 「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こう(フランス)に置いてきた」(1998年6月フランスW杯メンバーから漏れての会見で)
- 「僕は自分自身に対して悔しかった…」(1998年フランスW杯での代表落選を振り返って)
- 「嬉しさは一瞬喜べば消える。でも、悔しさは後から胸が痛むんだ」(同上)
- 「日本代表から外されたからといって、サッカーをやめる理由にはなりません」(同上)
- 「点を取ってこそKAZUだから」
- 「ドイツでお会いしましょう」(2006年ドイツW杯への出場が決まった時に)
- 「大好きな神戸、ありがとう!!」(神戸退団の際)
- 「これで皆、オレが引退すると思っているのかな? サッカーは世界中でやっているんだぜ」(神戸在籍時の2005年7月に5戦続けてベンチを外れた時に)
- 「10年後か、まだまだ現役をやっていたいね」(26歳頃に記者から「10年後はどうしたいですか」と聞かれた時の返答)
- 「10年後。そうですね…現役でいれたら、一番良いですね」(38歳。横浜FCに移籍した時のインタビューで。奇しくも、26歳の時と同じ答えをしていた)
- 「勝ち負けに関係なくボールと仲良くなれ」(横浜市内の小学校で訪問授業を行った時に小学生に語った言葉)
- 「30歳は小僧だね」
- 「日本も世界なんですよ」(記者の「日本は世界を相手に戦えますか?」との質問に対して)
- 「ジーコ、一度でいいから(代表に)呼んでくれねぇかな」(2005年12月放送のテレビ番組にて)
- 「次は2010年目指して頑張ります」(2006年ドイツW杯のメンバー発表後)
[編集] エピソード
自身が注目を浴びてきたスター選手の一人、という認識から出た行動が多く、まじめな性格を伺わせる。
クラブ、代表問わず、どんな悔しい惨敗をした後でもまっすぐ前を向き、堂々とした姿勢でインタビューに臨み、決して記者の質問を無視する事が無い。
また、記者会見や挨拶など、マイクを使う時は一礼と共にマイクを頭にぶつけて場を和ませると言うギャグがお気に入りらしく、1995年以降、"ここぞ"と言う場面で使っている。
- 朝、コーヒーを一杯飲みに行く為だけにスーツに着替えて出掛けた(帰宅後にまた着替えて寝た)。
- 外出時は夜中であろうとサングラスはかけるようである。
- ファンを大事にすることで有名だが、以前カズと前園真聖にサインをねだったファンがいたが、サインをせず行こうとした前園を叱ったとされる。
- ブラジルから帰国した頃、ラッシャー板前の家に居候していたことがあると浅草キッドがTVで語っていた。
- 武田修宏と会う約束をしていた時に、武田が待つ場所へ全身白(帽子、スーツ)にサングラスの出で立ちで現れ、武田がうろたえた。
- 城彰二がW杯でフランスから帰国した際空港で水をかけられたのを友人からの口コミ(あるいはテレビを見た)で知ったカズが電話で「水をかけられたという事はお前(城)が日本人全員にエースと認められたという事なんだぞ。俺(カズ)だってブラジルでファンに鉄パイプを投げられたんだゼ」と激励の言葉をかけたという。
- ブラジルの少年たちに200個のサッカーボールを寄贈した際、ひとつひとつに「夢をあきらめるな カズ」と自筆のサインを入れていたおかげで、現地の少年たちはずっと、そのサッカーボールのメーカーが「カズ」であると思い込んでいたというエピソードがある。
- 2002年W杯の日本vsベルギー戦の直前まで、カズは一人黙々とグラウンドで練習を続けてコンディションを整えていた。ある記者がカズにその理由を尋ねると、カズは「試合直前だけど試合が始まるまでは何が起こるかわからないよね。もしかしたら集団食中毒が起こるかもしれないし、代表に選ばれたFWが怪我するかもしれない。そして、もしかしたら誰かの代わりに自分が選ばれるかもしれない。もし、そうなって自分が日本代表に選ばれた時、恥ずかしいコンディションでピッチの上に立つなんてことは、自分には絶対にできない。日本代表というのはそういうものじゃないんだ。後悔だけは絶対に残したくないんだ」と答えた。カズの日本代表に対する誇りや熱意が伝わるエピソードである。
- 週刊サッカーマガジン(ベースボール・マガジン社刊)の「選手評価点」において、日本代表史上初の「10点満点」(通常は「6」が平均で、最低1~最高10までの0.5刻みで評価される)と評価された(他にJリーグでは、ジーコとゴンが満点を出している)。
[編集] エピソード(プライベート編)
りさ子夫人とは10代からの付き合いで、「良いも悪いも互いに全て知っている男女を越えた戦友のような間柄」だという。
- 新婚当初、カズが筋トレを始めると、夫人が自分も負けないと「腹筋対決」「自転車対決」を挑んできて勝負をしていた(しかしお互い手加減しないので大抵ケンカになる)
- 夫人によると、長男はおっとりしており、次男はかなりヤンチャ。
- 2004年頃、長男は映画『NIN×NIN忍者ハットリくん』に夢中になり「大きくなったら忍者になりたい」と言ったという。
- 息子は2人ともサッカーをしているが、カズ自身はほとんどその姿を見たことがない。2005年、初めて長男のサッカー試合・練習を見に行ったカズは、その最中は黙ってみていて何も言わなかったのだが、終わって家に帰る際りさ子夫人に一言「いつもこんな調子なのか?」とだけ聞いたそう。
- 中山雅史・生田智子夫妻のキューピッド役になったのもカズ・りさ子夫妻。カズ主催の食事会で、まだ無名だった中山と、りさ子夫人と親しかった生田を引き合わせたのが縁だったという。この事例からしても、サッカー界・芸能界などでの交友関係は広いと思われる。
- ブラジルの永住権を今でも更新している。
[編集] ヘアスタイル
今でこそ短髪を通しているが、かつては様々なヘアスタイルでも人々を魅了している。
- はじめはごく普通のサラサラヘアだったが、1993年のJリーグ戦開幕直前にパーマを掛け、後部分を刈り込むという奇抜なヘアスタイルに。しかし、開幕当初の不調から『髪型がチャラチャラしているからだ』などと非難され、試合中にPKを外した反省から短髪に。それ以降復調し、Jリーグ初代MVPを獲得する。そのゲンを担いでいるのかは不明だが、この年以降KAZU=短髪と言うイメージが出来上がる。
- 1994年、セリエA(当時)ジェノアへの移籍が決まった頃、髪を伸ばし始めるようになり、一時は耳が完全にかぶさるほどにまで伸びた。
- 1995年、ヴェルディ川崎復帰時はまた元の短髪に戻す。
また、シーズン終了後のJリーグ・アウォーズでは、巨大なアフロで登場。ベストイレブン表彰後にそのアフロを外すと、中からは非常に明るい(白に近い)金髪になっており、場内を二度驚かせた。このエピソード以降、彼にはキングと並ぶ二つ目の称号、『お祭り男』を得ている。
[編集] ファッション
- Jリーグ初代MVPの表彰式で、派手に登場した時着ていた真赤なスーツは、6歳上の大親友田原俊彦のアドバイスによるものである。
[編集] 外部リンク
- BOA SORTE KAZU!:三浦知良公式サイト
- KING-KAZU.COM Go to Germany 2006!!(個人サイト)
- フランスWC直前での三浦知良の会見時の音声(MP3ファイル)
- キングカズ語録&逸話コピペ
- RSSSF - Kazuyoshi "Kazu" Miura - Goals in International Matches
横浜FC - 2007 |
---|
1 小山健二 | 2 早川知伸 | 5 室井市衛 | 6 山口素弘 | 8 アウグスト | 10 内田智也 | 11 カズ | 12 広野耕一 | 13 鄭容臺 | 14 吉野智行 | 15 坂井洋平 | 18 小野智吉 | 21 菅野孝憲 | 23 岩倉一弥 | 24 秋葉陽一 | 25 金澤大将 | 26 太田宏介 | 27 中島崇典 | 28 吉岡聡 | 29 滝澤邦彦 | 30 小村徳男 | 31 難波宏明 | 監督 高木琢也 | クラブ | 編集 |
- アジア年間最優秀選手賞
- 1993
-
- 先代:
- 金鋳城
- 次代:
- アル・オワイラン
- Jリーグ年間最優秀選手
- 1993
-
- 先代:
- 次代:
- ペレイラ
- Jリーグ得点王
- 1996
-
- 先代:
- 福田正博
- 次代:
- パトリック・エムボマ
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