小倉市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
小倉市(こくらし)は、九州の北部、福岡県東部(旧豊前国)に存在した市。現在の北九州市小倉北区と小倉南区に相当する。
企救郡(きくぐん)の一角で、1963年2月10日、門司市・戸畑市・八幡市・若松市と合併して北九州市となった。1963年4月1日、北九州市の政令指定都市移行に伴い、旧小倉市は小倉区となり、1974年には小倉北区と小倉南区に分割された。
目次 |
[編集] 地理
[編集] 隣接していた自治体
※合併前日(1963年2月9日)現在。
[編集] 歴史
律令制下では豊前国企救郡(きくぐん)の一地域となる。関ヶ原の戦いの論功行賞により豊前国の統治を始めた細川忠興が、1602年(慶長7年)から当地に小倉城を築く。これ以後、小倉藩の城下町として栄えることになる。1632年(寛永9年)には細川氏に代わり、小笠原忠真が移封され、以後は小笠原氏による統治が続いた。1866年(慶応2年)の長州征伐において長州藩側の反撃を受けて、小倉藩自らの手により小倉城は火が点けられ焼失した(現在の小倉城は1959年に復元された物)。
明治時代、廃藩置県により小倉県が成立し、小倉はその県庁所在地となったが、1876年に小倉県が福岡県に合併されたため、県庁所在地ではなくなった。その後も、北九州工業地帯の中心地として商業のほか、軍需工業が発展した。特に1933年に建設された小倉造兵廠は、風船爆弾の製造基地ともなった。又、森鴎外は、軍医時代には一時期小倉に赴任していた。
第二次世界大戦の終結直前、1945年8月9日の米軍による原子爆弾の当初の投下目標は小倉であった。長崎に変更された要因は、悪天候と、前日の八幡製鉄所爆撃の余燼のためだったといわれる。小倉のグラウンド・ゼロ「予定地」は小倉造兵廠であり、その最寄りに架かる紫川橋(通称「鉄の橋」)は、戦前は「陸軍橋」とも呼ばれていた。
[編集] 地名の由来
一つは、「企救(きく)の浦」が変化して「こくら」になった説。もう一つは、税としての稲を納める倉庫が設けられた為に「小さな倉」と呼ばれ、これが略かれて「こくら」となった説がある。
[編集] 行政区域の変遷
町村制施行時は企救郡の一町として発足し、その後市制を施行し、企救郡内の町村を次々と編入して拡大した。
- 1889年4月1日:町村制が施行され、企救郡旧小倉城下25町(京町・博労町・船頭町・船町・船場町・古船場町・新魚町・魚町・西魚町・鳥町・大坂町・宝町・米町・鍛治町・西鍛治町・堺町・紺屋町・西紺屋町・馬借町・室町・八百屋町・大門町・堅町・田町・鋳物町)・砂原村の一部(長松浦)・干上村の一部(平松浦)が合併し、小倉町となる。
- 1900年4月1日:市制施行により小倉市となる。
- 1925年4月28日:企救郡板櫃町のうち大字槻田を除く部分を編入(分割し、槻田は八幡市に編入)。
- 1927年4月1日:企救郡足立村を編入。
- 1937年9月1日:企救郡企救町を編入。
- 1941年4月1日:企救郡西谷村・中谷村を編入。
- 1942年5月15日:企救郡曽根町を編入。
- 1948年9月10日:企救郡東谷村を編入。
- 1949年9月1日:大字新道寺の一部を京都郡椿市村に分離・編入。
- 1954年4月1日:大字田代の一部を八幡市に分離・編入。
- 1957年1月1日:八幡市と境界変更。
- 1959年11月1日:戸畑市と境界変更。
- 1963年2月10日:小倉市・八幡市・門司市・若松市・戸畑市が新設合併し、北九州市の一部となり消滅。
- 1963年4月1日:北九州市の政令指定都市に伴い、小倉区となる。
- 1974年4月1日:小倉北区・小倉南区に分割される。
[編集] 観光地・娯楽施設
- 小倉城
- 小倉競輪場(競輪発祥の地)
- リバーウォーク北九州
[編集] 交通
小倉は、九州と本州の接点として発達した交通都市で;江戸時代の小倉城下には、長崎街道の始点に当たる常盤橋が設けられた。
五市合併で北九州市が発足してからも中心駅となっている小倉駅は、山陽本線・鹿児島本線・日豊本線の三本の幹線が集まる。道路網では、順番に国道2号・国道3号・国道10号に相当する。
[編集] 作品
「無法松の一生」の舞台として有名である。7月末に開かれる小倉祇園太鼓は「太鼓祇園」の別名を持ち、坂本冬美の歌「あばれ太鼓」にも歌われている。(しかし、小倉には玄界灘は無い)
[編集] 出身有名人
(※北九州市発足後の誕生者も含める。)
- 政財界・軍事
- 島永太郎(陸軍中将)
- 芸能
- スポーツ
- 平山相太(サッカー選手)
- その他
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 福岡県の市町村 (廃止) | 城下町 | 長崎原爆 | 日本の市町村のスタブ項目