台湾原住民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾には、17世紀ころ台湾島に漢民族が移民してくる以前から台湾に居住していた先住民族が存在しており、一般的に原住民(yuánzhùmín, 英語 : Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)と呼ばれている。(漢語で「先住民」と表記すると「すでに滅んでしまった民族」という意味が生じるため台湾では用いられていない。)
目次 |
[編集] 台湾原住民の分類
台湾の先住民族は、言語・文化・習俗によって細分化されており、多くの民族集団に分かれているとされる。台湾が西欧人によって支配されていた1603年に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀ころに至って、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民を「平埔蕃」と呼び、特に漢化が進んだ原住民は「熟蕃」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民を「生蕃」または「高山蕃」と呼ぶようになった。1895年から台湾の植民地支配を始めた日本は当初この分類と名称を引き継いだが、のちに「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と呼ぶようになった。やがて日本の学者によって「平埔族」と「高砂族」を言語・文化・習俗によって民族集団に分類する試みが行われるようになった。現在行われている分類は、おおむねこの時代の研究を引き継ぐ。
台湾解放後、台湾を実効支配する中華民国政府は先住民族のうち、日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を漢語名で「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めたが、90年代以降の民主化の流れの中で「台湾原住民族」として承認し、平地人(漢民族)に対して「原住民」籍を与えた。
- サイシャット族(賽夏族)
- タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも)
- タロコ族(太魯閣族、セデック族とも)
- アミ族(阿美族)
- ツオウ族(鄒族)
- サオ族(邵族)
- ブヌン族(布農族)
- プユマ族(卑南族)
- ルカイ族(魯凱族)
- パイワン族(排湾族)
- タオ族(達梧族、雅美族(ヤミ族)とも)
これらの民族は「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれている。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族を除き、台湾島の山地に居住し、人口は40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。
2004年1月に、約10万人いるタイヤル族のうち花蓮県を中心に居住する約3万人がタイヤルと言語・文化を異にすることから新たにタロコ族として公認された。これによりいわゆる高山族のうち台湾政府当局の公認する民族の数は10となったが、言語、文化を指標としてさらに細分化する説もある。
一方、台湾政府に原住民として承認されていない「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
- ケタガラン(凱達格蘭族)
- クーロン(亀崙族)
- バサイ(馬賽族)
- クバラン(葛瑪蘭族)
- トルビアワン(哆囉美遠族)
- タオカス(道卡斯族)
- パゼッヘ(拍宰海族)
- パポラ(拍暴拉族)
- バブザ(巴布薩族)
- ホアニヤ(洪雅族)
- アリクン(阿立昆族)
- ロア(羅亞族)
- シラヤ(西拉雅族)
- マカタオ(馬卡道族)
以上の「平埔族」と総称される諸民族(分類により7とも8とも9とも10とも12とも数えられる)は、台湾島の平地に住み漢民族と雑居してきた結果、同化が進んでいる。(逆に言えば、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。)「平埔族」のうち、サオ族は、「高山族」のツオウ族と文化が類似しているため、同一民族と見なして「高山族」に入れられる場合もある。また、クバラン族には今もクバラン語を話せる者がおり、人口300人弱のサオ族と1000人強のクヴァラン族が「平地山胞」として、民族集団としての認定はないものの、原住民籍を持っていた。2001年10月に至り、サオ族が十番目の台湾原住民族として承認され、2002年12月にはクバラン族の原住民籍保有者が十一番目の台湾原住民族に認定された。さらに上述のように2004年に「高山族」のタイヤル族からタロコ族が別民族として公認された結果、狭義の「台湾の原住民」という語は、「高山族」10民族にサオ族、クバラン族を含めた12民族集団を指す。
[編集] 台湾原住民研究のなりたち
台湾原住民に対する研究は日本の台湾統治時代より始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者達が渡台した。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870 - 1953)、伊能嘉矩(1867 - 1925)、鹿野忠雄(1906 - 1945?)、森丑之助(1877 - 1926?)などである。彼らは平埔族の集落を訪ねたほか山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ貴重な史料となっている。
[編集] 台湾原住民の言語
オーストロネシア語族(マラヨ・ポリネシア語族)のインドネシア語派に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。
なお近年では初等教育の普及により、公用語である北京語を話せる人が多い。また日本統治時代に日本語教育が行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられることが近年まであった。
[編集] 台湾原住民の風習
[編集] 刺青
台湾原住民にとって刺青は通過儀礼の一つである。顔面や体に刺青を彫ることにより大人社会への仲間入りを認められるのである。 現代台湾ではこの風習がなくなり、刺青に対する風潮は肯定的ではない。但し世界的潮流の影響で、一部の台湾の若者にとって刺青はファッションの一種であり、西門町などに行けば若者向けに刺青を彫る店が繁盛している。
[編集] 出草(首狩り)
台湾原住民には殺害した人間の首を狩る風習があり、これを在台の漢人や日本人は「出草」と呼んだ。出草は部族間や異民族(主に台湾へ移住した漢民族や日本民族)との抗争に際して行われる事が多かったが、首狩りそのものを「一人前の男子」への通過儀礼とする例や、同族社会集団の内において存在感を誇示する事を目的とした出草も多くみられた。
出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象を射殺した後に刀で首の切断におよぶ事が多く、対象と格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて飾る。
台湾を日本が領有してからは、台湾総督府による理蕃政策により首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし一方で原住民蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)する事を見返りに他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたタイヤル族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害にかかわった者の首に高額の懸賞金をかけ、出草を煽った。
霧社事件が沈静化して以降、出草は減少する。これは出草に対する取り締まりが厳しくなった事もあるが、皇民化教育・理蕃政策の進展によって「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。
台湾総督府史料などを元にした説によると明治29年(1896年)から昭和5年(1930年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるものを除くと、多くは在台漢人であったようである。
日本統治時代末期になると出草はほとんどみられなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは台湾国民政府時代となる。
[編集] 外部リンク
- 行政院原住民族委員会(中国語)
- 順益台湾原住民博物館(中国語)
- 平埔族群文化資訊網(中国語)
- 原住民10民族紹介(英語)