霧社事件
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霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に現在の南投県霧社で起こった台湾原住民による最大にして最後の抗日蜂起事件。
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[編集] 事件の背景
背景としては、日本の警察官(当時2名のタイヤル族警察官がいた他は全て日本人警察官)が、地元のタイヤル族住民に対し固有の文化を無視した生活指導を行った事、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課した事、商取引の利益を中間搾取していた事などが指摘されている。
蜂起の直接の原因といわれているのが1930年10月7日に吉村克己巡査が原住民の若者を殴打した事件である。
その日、吉村巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(タイヤル族の村落の一つマヘボ社のリーダー)の息子、タダオ・モーナが吉村巡査の手を取ったところ、巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握ラレタル手ヲ払ヒタル拍子」にステッキで若者を2度殴打したという。侮辱を受けたと感じた原住民たちは吉村巡査を集団で殴打した。(当時の警察側の公文書より)
この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が先手を打って蜂起したのが霧社事件だと言われている。
[編集] 事件の過程
[編集] 学校運動会襲撃
事件の第1段階は、タイヤル族のリーダーのひとりモーナ・ルダオを中心とした6つの蕃社(村)1200人ほど(非戦闘員を含む)による霧社公学校運動会への襲撃(10月27日)であった。日本人のみが狙われ約140人が殺害された。現地の警察にはタイヤル族出身の警察官が2名いたが、彼らは襲撃には参加せずそれぞれ自決した。
[編集] 日本軍と親日派タイヤル族による鎮圧・掃討
事件の第2段階は、蜂起に参加した村々への日本軍・警察による鎮圧である。山中に立てこもるタイヤル族の戦闘員・非戦闘員に対し火器や航空機などの近代兵器を用いて攻撃、親日派タイヤル族(「味方蕃」と呼ばれる)を戦闘員として動員した。味方蕃の戦闘員たちに対しては敵蕃の首級と引き換えに懸賞金が支給された。この措置は理蕃政策によって禁じられてきた出草の風習を一時的に開放したような効果をもたらし、同族間での凄惨な殺し合いを助長したとされる。 鎮圧作戦の結果700人ほどの抗日タイヤル族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。
[編集] 第二霧社事件の発生
事件の第3段階では、投降し収容された生存者を親日派タイヤル族が襲撃した。多数が殺され生存者は300人程となった。 最終的に生き残った人々は濁水渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者らは警察からの厳しい監視と指導のもとに生活した。その後も事件参加者への警察の摘発は続き、連行されたまま行方不明になった人々も多いとされている。
のちに霧社にある仁愛郷公所(地方自治体の役所)の敷地から手足を針金で縛られた白骨遺体多数が出土した。真偽は不明であるが現地では警察に連行された蜂起の参加者の亡骸と信じられている。
[編集] 事件の影響
事件前から霧社は台湾総督府による理蕃政策の先進地域であった。それにもかかわらず大規模な蜂起がおこった。そのため台湾総督府は原住民に対する差別的な政策の方針を修正し、「皇民化教育」を加速してゆく。
原住民に対する皇民化では、思想教育と同時に、平地定住化と稲作農耕への切り替えという大きな転換が試みられた。霧社事件の生存者が移住した川中島(清流)や、霧社でのダム建設のため立ち退きをさせられた人々が移住した中原(川中島に隣接)は、稲作適地であったため結果的に農業生産性が向上し、住民らの生活は以前よりも豊かになった。
また、天皇と国家に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので太平洋戦争時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多くいた。一説によると霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われる。こうした事例は映画『サヨンの鐘』にも描かれ、皇民化教育の成果として謳われた。
[編集] 事件への評価
当時の日本社会においては台湾原住民の存在自体が熟知されておらず、雑誌等に興味本位にその風俗等が描かれる程度であった。霧社事件は台湾総督府に対しては強い衝撃を与え、原住民統治の抜本的な改革を迫るものであった。日本国内に対するインパクトもそれなりに大きなものではあったが、未開な民族が衝動的に起こした反乱といった認識が強かったと推測される。戦後、台湾は日本の統治下から離れ、日本では事件の存在そのものが忘れられていった。戦後の日本における霧社事件に対する評価には、偶発的な事件、警察統治に対する局地的な反抗、日本に対する植民地統治に対する抵抗運動など様々な捉え方がされている。
第二次大戦後、日本にかわって中国国民党が台湾を統治するようになると抗日教育が行われるようになった。そのため、霧社事件は日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動として高く評価されるようになり、蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と称されるようになる。霧社にあった日本人の殉難記念碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。霧社では毎年、霧社事件被害者の遺族らが参加して、犠牲者を追悼する「追思祭典」が開催されている。1990年代以降、民主化の過程の中で台湾史への再認識がブームとなり原住民文化への再評価が行われるようになると、今度は霧社事件は原住民族のアイデンティティーを賭けた戦いとして位置づけられるようになった。この文脈の中で日本による統治は台湾の近代化に対して一定の役割を果たしたと捉えられるようになった関係か、霧社事件に関しても「抗日教育」時代ほどには日本人は悪者として描かれない傾向がある。