佐々宗淳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐々 宗淳(さっさ むねあつ、寛永17年(1640年) - 元禄11年6月3日(1698年7月10日))は、佐々介三郎(さっさすけさぶろう)ともいい、徳川光圀(水戸光圀)に仕えた人物。号は十竹(じっちく)、字は子朴(しぼく)。彰考館総裁であった。物語「水戸黄門」に登場する佐々木助三郎のモデルであるとされている。
[編集] プロフィール
戦国武将佐々成政の実姉の末裔(曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていた。讃岐国出身で15歳のときに京都の臨済宗妙心寺の僧侶となり、後に黄檗宗も学んだ。
仏教以外の諸学問にも通じていた。38歳のとき仏教に疑問を持ち寺僧と大論争をした末に寺を追われて、還俗して水戸藩に仕える。徳川光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いた。光圀のもとで『大日本史』の編纂に携わり、那須国造碑の修復と調査、楠公碑の建立の実務を行なった。
[編集] 子孫
子孫には佐々友房衆議院議員-佐々弘雄参議院議員-作家佐々淳行(元警察官僚・初代内閣安全保障室長)がいる。
カテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目 | 人名関連のスタブ項目 | 儒学者 | 僧 (日本) | 1640年生 | 1698年没 | 佐々氏