和田義盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
和田 義盛(わだ よしもり、久安3年(1147年) - 建暦3年5月3日(1213年5月24日))は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。父は杉本義宗で、従兄弟に三浦義村がいる。妻は豊受大神宮七社の禰宜度会康高の娘。子に和田常盛、和田義直、朝比奈義秀がおり、朝比奈義秀の母は、木曽義仲の妻であった巴御前であるともいわれる。正式な名のりは平義盛(たいら・の・よしもり)。通称は小太郎。
相模国三浦郡和田の里(現在の三浦市初声町和田、あるいは安房国和田御厨に領地があったことから和田を苗字とする。
三浦氏は1180年に平氏に対して挙兵した源氏の源頼朝に加わり、頼朝が鎌倉に武家政権を開くと、11月に侍所別当に任じられる。平氏追討、奥州藤原氏との奥州合戦に武功を立てる。頼朝上洛中は洛中警固の奉行を務め、頼朝の推挙により左衛門尉に任官。
頼朝の死後の1199年(正治元年)には十三人の合議制の一人となり、北条時政、時政の次男・北条義時らと梶原景時を失脚させ、1203年(建仁3年)には2代将軍源頼家を幽閉する。
3代将軍源実朝のもとで、義盛は上総介への任官や受領を望むが、頼朝室の北条政子が先例を主張して反対する。1213年(建暦3年)2月、義盛が上総国伊北荘に下っている最中に、頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒しようとしていたとされる泉親衡の乱が起こり、この政変では義盛の子供たちをはじめ一族も事件への関与を疑われる。義盛は鎌倉へ戻って実朝に子供や甥の赦免を願い出るが、北条義時の挑発に対して5月には横山党や反北条派を誘い挙兵する。三浦一族は義盛の挙兵には従わず、由比ガ浜で討ち死する(和田合戦)。
鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通り側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅があった。和田義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という地名が残っている。