秦野章
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秦野 章(はたの あきら、1911年(明治44年)10月10日 - 2002年(平成14年)11月6日)は、昭和期の官僚・政治家。
[編集] 来歴・人物
神奈川県出身。日本大学夜間部卒業。生糸試験所勤務を経て1939年(昭和14年)に高等文官試験合格後、内務省入省。香川県商工課長を経て兵庫県警刑事課長時代には神戸市に於ける暴力団摘発作戦で自ら拳銃を手に陣頭指揮した。後に内務省警保局、大阪府警刑事部長、警視庁刑事部長等を経て、1967年(昭和42年)、私大出身者では初の警視総監に就任。1971年(昭和46年)に佐藤栄作首相の強い要請で東京都知事選に立候補したが、革新風潮が極めて強かった東京においては、現職美濃部亮吉に大差で敗れ落選。
1974年(昭和49年)に参議院議員選挙に立候補し、初当選。無派閥ながら田中角栄元首相に近かったことから、1982年(昭和57年)、第1次中曽根内閣の法務大臣に就任した際は、元首相へのロッキード事件の第一審判決を間近に控えていたことから、「角栄のごり押し人事」と批判を浴びた。秦野はロッキード事件への関与はなかったが、田中の擁護および、「嘱託尋問は違法である」など、捜査を進める検察への批判を繰り返している。
1986年(昭和61年)、認知症を発症し、政界引退。その後は「辛口モーニング」(テレビ東京系、対談番組)などTVを中心に活動。
歯に衣着せぬべらんめえ口調で知られ、「政治家に徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」などの発言で物議を醸した(弁明会見ではさらに墓穴を掘り、役職辞任もしばしばであった)。また警視総監時代部下であった佐々淳行氏によれば、当時絶頂期であった学生運動を「いずれ消える泡のようなもの」と言い、過激派にテロの標的にされ、それを警戒して総監にも護衛をつけたいと言ったところ「駆逐艦が駆逐艦を守るようなものだ」と言って断ったという。また「昭和元禄田舎芝居」という言葉も流行語となった。
2002年(平成14年)11月6日、腎不全のため死去。享年91。
[編集] 著書・参考文献
- 何が権力か。―マスコミはリンチもする(講談社・1984年7月)ISBN 4062013762
- 逆境に克つ―「一日生涯」わが人生(講談社・1988年9月)ISBN 4062039419
- 「武将」が店にやってきた―秦野章追想録(宮本照夫著・文星出版・2003年11月)ISBN 4938916142