ハインツ=ハラルト・フレンツェン
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F1での経歴 | |
国籍 | ドイツ |
活動年数 | 1994 - 2003 |
所属チーム | ザウバー, ウィリアムズ, ジョーダン, プロスト, アロウズ |
出走回数 | 157 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 3 |
通算獲得ポイント | 174 |
表彰台(3位以内)回数 | 18 |
ポールポジション | 2 |
ファステストラップ | 6 |
F1デビュー戦 | 1994年ブラジルGP |
初勝利 | 1997年サンマリノGP |
最終勝利 | 1999年イタリアGP |
最終戦 | 2003年日本GP |
ハインツ=ハラルト・フレンツェン(Heinz-Harald Frentzen, 1967年5月18日 - )は、ドイツ出身の元F1ドライバー。
目次 |
[編集] 略歴
1989年のドイツF3でカール・ヴェンドリンガー、ミハエル・シューマッハとチャンピオン争いを繰り広げた。彼らは、メルセデスジュニアチームで若手三羽烏と呼ばれ英才教育を受け、将来F1へステップアップすることを期待された。この3人の中で、天性の素質という点ではフレンツェンが抜きん出ていた。しかし、ムラッ気があり、レースへの真剣さという点ではシューマッハに劣っていた。
その後ジュニアチームを離脱し、F1への近道としてエディ・ジョーダンの国際F3000チームに加入するが、同僚2人が1991年にF1デビューを果たしたため、逆に遠回りな選択になってしまった。全日本F3000に流れ着き、ミカ・サロやエディ・アーバインらと「F1予備軍」として競い合う。当時のハイレベルな競争とチーム監督森脇基恭の薫陶により、実力が開花。その走りに衝撃を受けた星野一義が、「お前はこんなところでくすぶっているドライバーじゃないだろ」と激励したこともあった。
1994年、ジュニアチーム時代の監督ペーター・ザウバーに呼ばれて、ザウバーからF1デビューを果たす。その走りは、あのアイルトン・セナをして「自分の後継者はフレンツェンがふさわしい」として、注目しておくことをフランク・ウイリアムズに進言せしめるほどであったという。この為、セナがサンマリノGPで事故死した後、その代役としてウィリアムズチームからオファーを受けたが、折悪しく翌戦のモナコGPにてチームメイトのヴェンドリンガーが瀕死の重傷を負ったことから、せっかく自分をF1へステップアップさせてくれた恩義に背くわけにはいかないとして、この時は断ることとなった。翌年ザウバーのエースとなり、非力なマシンでチームの初表彰台を獲得するなど、トップドライバーへと成長した。
その後もウィリアムズはフレンツェンへの評価を変えることはなく、ついに1997年シーズンより、前年1996年のワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルに代えてフレンツェンを起用することとなった。迎えた1997年にフレンツェンは第4戦サンマリノGPで初優勝、第5戦モナコGPで初のポールポジションを獲得し、終盤には5戦連続表彰台フィニッシュを果たす活躍を見せたが、ワールドチャンピオンを獲得したチームメイトのジャック・ヴィルヌーヴに比べると見劣りがしたのも事実であった。翌1998年はルノーエンジンを失ったこともありヴィルヌーヴ共々精彩を欠いたシーズンとなり、フレンツェンはわずか2シーズンでチームを去ることとなった。
ウィリアムズで成功できなかった理由として、チームのドライな雰囲気に馴染めなかった事が挙げられる。人の良いフィレンツェンは、ザウバーのような家庭的チームが水にあったが、ドライバーを突き放すウィリアムズではパトリック・ヘッドの冷たい態度に悩み、ストレスで体調を崩したことさえあった。
その点で、翌1999年に移籍したジョーダンはF3000時代の旧知のチームで、エースとして戦える環境が揃っていた。シーズン中優勝2回・ポールポジション1回を獲得し、終盤までチャンピオン争いに食い込む活躍を見せた。中でも雨中の乱戦となったフランスGPでは、巧みな燃費走行とピット戦略でワールドチャンピオンのミカ・ハッキネンを堂々と破るレースを見せた。
しかし、この年をピークにジョーダンは低迷し、新加入のヤルノ・トゥルーリによりフィレンツェンの立場も微妙になっていった。ついに2001年ドイツGP終了後に、突如チームから解雇されることとなり、ジャン・アレジと入れ替わる形でプロストへ移籍することになった。
翌2002年にはアロウズへ移籍し、2度のポイント獲得など光る走りを見せるが、第12戦ドイツGP終了後にチームが撤退することとなり、またしてもシートを失うこととなる。第16戦アメリカGPでは、翌2003年からの復帰が発表されていたザウバーよりスポット参戦(危険走行によりフェリペ・マッサがペナルティを受けることとなっていた為その回避として起用されたもの)する場面も見られた。
7シーズンぶりに復帰を果たしたザウバーチームでは、第15戦のアメリカGPにて表彰台(3位)を獲得するなどの活躍を見せた。しかし、ついにこの年をもってF1グランプリの舞台から姿を消すこととなる。この時にペーター・ザウバーに対し、「ニック(・ハイドフェルド)は何とかしてチームに残してほしい」とお願いをするなど、最後まで「ナイス・ガイ」であり続けた。(結局その願いはかなうことなく、2004年のザウバーはジャンカルロ・フィジケラとフェリペ・マッサの布陣となった)
F1引退後は、2004年よりオペルチームからDTMに参戦。苦戦が続いていたが、2005年第4戦ブルノで初の表彰台(3位)を獲得した。
[編集] 経歴年表
- 1994年 F1参戦(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC13 メルセデス) 最高位4位 シリーズ総合13位
- 1995年 F1(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC14 フォード) 最高位3位 シリーズ総合9位
- 1996年 F1(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC15 フォード) 最高位4位 シリーズ総合12位
- 1997年 F1(チーム:ウィリアムズ)(マシン:ウィリアムズFW19 ルノー) 優勝1回 PP1回 FL6回 シリーズ総合2位
- 1998年 F1(チーム:ウィリアムズ)(マシン:ウィリアムズFW20 メカクローム) 最高位3位 PP2回 シリーズ総合7位
- 1999年 F1(チーム:ジョーダン)(マシン:ジョーダン199 無限) 優勝2回 PP1回 シリーズ総合3位
- 2000年 F1(チーム:ジョーダン)(マシン:ジョーダンEJ10 無限) 最高位3位 シリーズ総合9位
- 2001年 F1(チーム:ジョーダン & プロスト)(マシン:ジョーダンEJ11 ホンダ & プロストAP04 エイサー) 最高位4位 シリーズ総合13位
- 2002年 F1(チーム:アロウズ & ザウバー)(マシン:アロウズA23 コスワース & ザウバーC21 ペトロナス) 最高位6位 シリーズ総合18位
- 2003年 F1(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC22 ペトロナス) 最高位3位 シリーズ総合11位
[編集] 関連項目
- 森脇基恭 全日本F3000時代に、チームスタッフとしてレースを共に戦った
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧