トウ小平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鄧小平 | |
---|---|
プロフィール | |
出生 | 1904年8月22日 |
死去 | 1997年2月19日北京 |
出身地 | 四川省広安県 |
職業 | 政治家 |
各種表記 | |
簡体字 | 邓小平 |
繁体字 | 鄧小平 |
ピン音 | Dèng Xiǎopíng ! ? |
和名表記 | とう しょうへい |
発音転記 | ドン シャオピン |
鄧小平(とう しょうへい)は、中華人民共和国(中国)の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって中国の市場経済化に手を着けた。1978年から1997年までの、事実上の中国の最高実力者。モットーは「20万人の犠牲は20年の安定を与える」
1904年、四川省広安県の客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢の名も用いる。1920年、16歳でフランスへ留学。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平はこの後一度も帰郷したことはない。
目次 |
[編集] 共産主義者として
共産主義 |
共産主義の歴史 共産主義の種類 社会主義国 人物 |
edit this box |
中華人民共和国 |
主な出来事 人物 理念 統治機構 |
この欄を編集 |
留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1926年モスクワに渡り、東方大学・中山大学で共産主義を学ぶ。
1927年帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな戦果を収める。中華人民共和国の独立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。
1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第六位になっている。
[編集] 文革期
しかし鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に毛との対立を深めていく。文化大革命の勃発以降は権力を失っていき、1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。そこでは政治とはまったく無関係な農作業労働をしていたといわれる。
1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第一次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。
[編集] 最高実力者に
1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。
経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。その後は若手の胡耀邦らを前面に立てて自らは決して序列一位ではなかったが実質的には中国の最高実力者であった。鄧小平は党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。
[編集] 天安門事件
鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年には天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め学生運動に理解を示していた趙紫陽総書記ら指導部に対して、軍部を掌握していた鄧小平が一貫して強硬路線を指示し最終的に武力弾圧を決断したといわれる。事件後、鄧小平は趙紫陽の解任を決定した上で江沢民を総書記へ抜擢した。
[編集] 鄧小平の政策
政治面では社会主義と中国共産党の指導性を強調し、経済面では生産力主義に基づく柔軟な経済政策が鄧小平の基本姿勢である。
また、公職から退き、表面的には引退しつつ影響力を維持していた1992年1月-2月(春節)には深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながると主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中国は急速な経済発展を進めることになった。
鄧小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。
また1984年12月には、イギリスのマーガレット・サッチャー首相との間に「一国二制度」構想の元に、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に調印している。
[編集] あだ名
唐辛子風味のナポレオン(身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かった)、鄧蝟子(ハリネズミの鄧)、鄧矮子(チビの鄧)。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。
[編集] エピソード
フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった彼は、いくつかの趣味を持っていた。
特に有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。
また、サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたと言われている。
彼の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」だとする説もある。
1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 中華人民共和国の政治家 | 1904年生 | 1997年没