クリストファー・パッテン
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クリストファー・パッテン(Christopher Francis Patten、中国語名:彭定康、1944年5月12日 - )はイギリスの保守派政治家。1990年代に最後の香港総督として世界的に有名になった。その後、欧州委員会委員などを経て、現在は男爵、英国貴族院議員、オックスフォード大学総長。
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[編集] 前半生
1944年にイングランド北西部ランカシャーで生まれ、カトリック系の学校を経て、オックスフォード大学ベリオール・カレッジで歴史を専攻した。1966年から保守党に勤務し、1974年から1979年まで保守党調査部の議長を勤めた。1979年、英国下院議員選挙に初当選し、1992年4月まで下院議員の座を保持している。この間、 保守党財政委員会副議長(1981年-1983年)、下院国防小委員会委員及び下院財政手続小委員会委員(1982年-1983年)、 北アイルランド省担当政務次官(1983年)、教育科学担当閣外大臣(1985年)、海外開発担当閣外大臣(1986年)、環境大臣(1989年)、 保守党幹事長(1990年)を歴任した。
[編集] 香港総督
しかし、1992年4月の英国総選挙では保守党が勝利したにもかかわらず、パッテン自身はバース選挙区で労働党候補に敗れた。このため、同年7月に第28代香港総督に任命され、英国植民地香港に赴任した。それまで香港総督は外交官(1970年代以前は植民地省官僚も)が任命されることが多かったが、パッテンは珍しく政治家出身であった。総督在任中、1997年の中国返還を控えた香港で政治の民主化に尽力し、中華人民共和国政府やその支持者からは「千古の罪人」と嫌われた。また啓徳空港の廃止と新香港国際空港建設を決定したのもパッテン総督の功績である。当時の中国名を彭定康という。1997年7月1日、イギリス王室差し回しの王室専用ヨット、ブリタニア号で香港を離任し、最後の総督として歴史に名を残した。その後、南フランスで長期休暇を取り、総督在任中の回想記『東と西』 (共同通信社より邦訳版が出版されている)を執筆した。
[編集] その後の経歴
1998年から1999年まで北アイルランド政策独立員会の議長として北アイルランドの自治と和平に尽力し、 1999年9月9日に『パッテン報告書』と呼ばれる北アイルランド自治方策を発表した。後に欧州委員会の英国代表委員に任命され、2000年1月23日から2004年11月22日まで同委員会の外交専門部会委員として在籍した。 かって香港総督としてのパッテンを蛇蝎のごとく嫌った中国政府は欧州連合におけるパッテンの役割には好意的な評価をしている。
2004年10月、パッテンはそれまでの英国、香港、欧州連合への貢献により男爵として終身貴族に叙任され、英国上院議員となった。パッテン卿はまたニューカッスル大学とオックスフォード大学の総長にも選出されている。
[編集] 家族
妻メアリー・ラヴェンダー・パッテンとの間に三女を儲けた。長女ローラ・パッテン(ジャーナリスト)、次女キャシー・パッテン、三女アリス・パッテン(テレビ俳優)である。
[編集] 著書
- 東と西(1998年)