ディープ・パープル
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ディープ・パープル(Deep Purple, 1968年3月結成)はイギリスのロックバンドである。
その楽曲に対する評価は、世界でも有数の高さを誇り、楽曲だけの知名度ならばザ・ローリング・ストーンズやザ・ビートルズに匹敵、もしくは凌ぐほどの高さを持っている。ハードロックの代表的なバンドの一つである。
目次 |
[編集] バンドの歴史
[編集] 結成~第1期(1968年~1969年)
ディープ・パープルの前身となったのは、ヴォーカリスト兼ドラマーであったクリス・カーティス(元サーチャーズ)をリーダーとしたラウンド・アバウトというバンドである。
クリスはまずマネージャーに、トニーエドワーズとジョン・コレッタという2人のビジネスマンを引き入れ、資金を確保した(今日に至るまで、この2人のマネージャーがバンドに果たした役割は非常に大きい)。
キーボーディストのジョン・ロード、ギタリストのリッチー・ブラックモアの2人は順調に決まったもののなかなか他のメンバーは定まらず、また発起人のクリス・カーティスが行方をくらましたためにバンドは一度消滅しそうになるが、マネージャーの2人が熱意を持ってジョンとリッチーを説得してオーディションを続け、最終的にベーシストにニック・シンパーを、ヴォーカリストとドラムスにそれぞれロッド・エヴァンスとイアン・ペイスを獲得した。
1968年3月、リッチーの人脈から、プロデューサーのデレク・ロ-レンスを通じてテトラグラマトンというアメリカのレコード会社と契約し、バンド名をディープ・パープルと改めた。これこそ、ディープ・パープルが結成された瞬間である(バンド名は、リッチーの祖母が大好きだったビング・クロスビーの同名の曲から付けられたと言われる)。
同年、彼らのデビュー・シングルである"Hush"(ハッシュ、ジョー・サウスのカバー曲)が発売された。
このシングルはアメリカでチャート第4位を記録する大ヒットを飛ばし、彼らは新参バンドとしては異例の順調なスタートを切った。
彼らは当時人気のあったヴァニラ・ファッジやクリーム、ジミ・ヘンドリックスに影響された幻想的かつ破壊的な世界観を持つサウンドをその魅力とし、ビートルズ等の楽曲をも独自の前衛的かつクラシカルなアレンジを施しカバーしていた。
またライブでは、ジャズやクラシックをベースとした20分以上もの圧倒的な即興演奏をこなし、プログレッシブ・ロックを初めとするロック音楽の世界にクラシカルな音楽性を加味させた。
第1期ディープ・パープルが残した3枚のアルバム"Shades of DEEP PURPLE"、"The Book of Taliesyn"、"DEEP PURPLE"は、大衆性こそやや低いものの、その独自の世界観を構築したという点において今なお極めて高い評価を受けている。
無論、その作品は個々の楽曲としても充分にその水準を満たしている物であった。しかし、残念な事に当時の音楽界はこれを「三流ポップスバンドのまぐれあたり」と酷評し、個々の作品を批評する事すら殆どしなかったと言う。
[編集] 第2期(1969年~1973年)
レッド・ツェッペリンの巨大な成功に刺激を受けた彼らは、ハードロックへの転進をもくろむ。1969年、バンドはヴォーカリストのロッド・エヴァンス(後にキャプテン・ビヨンドを結成)及びベーシストのニック・シンパーを解雇した。後続の人間に関してそれ程議論を重ねる事はなく、まずギタリストのリッチー・ブラックモアの旧友であるミック・アンダーウッドの紹介によってエピソード・シックスのヴォーカリスト、イアン・ギランのオーディションを行われた。彼の出す前代未聞とも言えるハイトーンのシャウトを初めとするカリスマ的魅力の数々は、メンバー全員がそれを見て十分と思えるだけの魅力を持ち、即座に加入が決定される。
又、ベーシストについては、同バンドのロジャー・グローヴァーを勧誘し、これまた無事に加入が決定される(彼はエピソード・シックスのプロデューサーでもあったため、同バンドはリード・ヴォーカリスト及びベーシスト、そしてプロデューサーを一度に失う事となり、結果として自然解散してしまった)
新メンバーとのリハーサルにより、バンドはハードなロックナンバーを増やし、スタイルの改革を図る。
しかし、ここでキーボーディストのジョン・ロードがこれに反対し、第1期と同じ幻想的なサウンドをバンドに要求するが、ハードロックを志向するリッチー・ブラックモアはそれを棄却しようとする。この対立は比較的短い期間のことで、お互いの主張を100%反映したアルバムをそれぞれ作り、セールスに結び付いた路線にて進めると言う結論で解決した。
ジョン・ロードはフルオーケストラとバンドとの競合曲を、リッチー・ブラックモアはパワフルなハードロック曲を書き上げ、結果としてそれぞれの主張はジョン・ロードのロイヤル・フィルハーモニックオーケストラ、リッチー・ブラックモアのイン・ロックと言うアルバムにて反映される。
結果は、リッチー・ブラックモアの勝利であった。イン・ロックは全英チャート第4位に入る程の大ヒットを飛ばしたのである(アメリカではワーナーが『ロイヤル・フィルハーモニックオーケストラ』のプロモーションを優先したためセールス的には惨敗であった)。
折しも起きたテトラグマンの倒産によりワーナーレコードと契約したことも功を奏し、バンドは本国イギリスで大成功を収め、ここから彼らは現在にまで至るハードロック・バンドとしてのイメージを確立するのである。
続く「ファイアボール」が全英で1位を獲得し、次の「マシン・ヘッド/MACHINE HEAD」で全盛期を迎える。
さらに1972年8月15~17日にかけての日本公演を録音し、ロック史上不朽の名作ライヴ・イン・ジャパン /MADE IN JAPAN」を発表。リッチーのギターソロとジョンのキーボードソロの掛け合いが凄まじい効果を上げ、プラチナディスクを獲得。
しかし、メンバー間の不仲とツアーの連続による肉体的疲労等から、イアン・ギランがマネージメント側に脱退を表明し、ギランのヴォーカルとロジャーのアイディアに飽きてきたリッチーもペイスを誘って脱退することを考える。
だが今までの成功を失いたくないペイスとジョンに説得され、バンドに留まることを決意する。その説得とは、ギランはまもなく辞めるし、ロジャーもクビにするから、と言うものだったようだ。
そして思惑通り、1973年、ギランとロジャーは2度目の日本公演を最後に脱退する運びとなった。
[編集] 第3期(1973年~1975年)
イアン・ギランとロジャーの脱退は早くから決まっていたので、新メンバー探しは第二期の末期より始まっていた。イアン・ペイスとジョンの強い勧めでベースはトラピーズでベーシスト兼ヴォーカルとして活躍していたグレン・ヒューズを引き抜くが、リッチーの熱望した元フリーのポール・ロジャースに断られ、ヴォーカル選びには難航した。一時はグレンをヴォーカルとして活動することが主張されたが(後にこれがグレンとデヴィッドのメインヴォーカル争いに発展し、パープルを解散に追いやる原因の一つとなる)、リッチーは断固拒絶した。結局、オーディションで当時無名の新人、デヴィッド・カヴァーディルが加入、第3期ディープ・パープルがスタートする。
1974年、ニュー・アルバム「紫の炎/BURN」を発売。ベースは依然としてハードなロックであるが、前作より感じられたブルーズ志向、新たにファンキーな要素が織り込まれ、新メンバーのテイストが上手く発揮された傑作である。
発売直後の4月に、ロスアンゼルスのオンタリオ・モーター・スピードウェイで行われた伝説的なイベント「カリフォルニア・ジャム」に出演。このライブで、彼らは、エマーソン・レイク・アンド・パーマーと共にヘッドライナーとして約20万人の聴衆の前で堂々たる演奏を展開した。第3期の日本公演は実現しなかったが、テレビカメラにリッチーがギターを叩きつけ、ステージが炎に包まれるというあまりに衝撃的な映像は、当時国内で催されたフィルムコンサートで目にすることができた(現在ではDVDで入手することができる)。
ビッグネームとなった故の驕りや怠慢によるメンバー間の人間的、音楽的な対立の中で、次のアルバム「嵐の使者/STORMBRINGER」は製作された(1974年8月)が、ファンク志向のバンドの状況に嫌気が差したリッチーは、自分のやりたい音楽を追及したソロアルバム「銀嶺の覇者/RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW」を製作(1975年2月)、ついにディープ・パープルを脱退する。(彼は後にレインボーを結成し、またしてもハードロック・シーンの王者に咲き誇る)
[編集] 第4期(1975年~1976年)
リッチーの代わりに元ジェイムズ・ギャングのギタリスト、トミー・ボーリンが加入。初めてのアメリカ人メンバーであった。アルバムを1枚発表するが、かなり変わってしまった音楽性に戸惑いを感じるファンは少なくなかった。アジア・ツアーにてスタッフの1人が殺害されるという悲しい事件が起きたが1975年12月、彼らは3度目の来日を果たす。超満員の観衆の前でプレイするもトミー・ボーリンの左手は寝違えたため(と当時はアナウンスされていたが、実際は東南アジアで品質の悪いヘロインを注射したため)殆ど動かず、不本意な演奏に終始する。
続くアメリカン・ツアーは問題無く終了するも、本国イギリス公演にてマスコミやファンに激しく叩かれた彼らは空中分解状態となり、その年、1976年7月に解散を決めてしまう。トミー・ボーリンはソロ・アルバムを制作するも同年12月、ドラッグの過剰摂取により死去。まだ25歳の若さだった。ヴォーカルのデヴィッドはソロアルバムを経て、ホワイトスネイクを結成、後にジョンとイアン・ペイスが合流。グレンはヒューズ/スロールで活動し、ここで一旦ディープ・パープルは姿を消すこととなる。
[編集] 再結成以降(1984年~現在)
その後、約8年間のブランクを経た1984年、黄金期といわれる第2期のメンバーで彼らは再結成する。世界的なヘヴィ・メタルブームの中で歓迎され、佳曲揃いの名盤「パーフェクト・ストレンジャーズ」をリリース。その後順調に活動していたかに見えたが、ここでまたメンバー間の不仲が起きイアン・ギランが脱退。代わりに元レインボーのジョー・リン・ターナーが加入。
衰えのみえるイアン・ギランに代わり、若手の中でも実力派であるジョーを迎えたアルバム「スレイヴス・アンド・マスターズ」はレインボーの音楽性に近く、古くからのファンには批判する向きもあるが、現代的なハード・ロックアルバムとして安心して聴ける佳作に仕上がった。ところが、今度はアメリカ人であるジョーが他のメンバーとの確執から追い出され、バンド結成25周年の名目でイアン・ギランが復帰。ここでリッチー・ブラックモアとイアン・ギランの不仲は決定的となり、リッチーが日本公演直前に脱退。代わりにジョー・サトリアーニがスポット的に加入する。その後スティーヴ・モーズと交代ししばらく活動を続けるが、肉体的な問題からジョン・ロードが脱退。代わりにレインボーやオジー・オズボーン・バンドなどの活動で名手の誉れ高いドン・エイリーが加入し現在に至る。
1984年以降の「第5期」(分類によっては、「再結成:第2期」として扱っている)は実質上、「第2期」の新曲付再結成であり、その後も、メンバー間の人間的音楽的トラブルなどによって、数年毎にメンバーチェンジが行われているが、わずかな例外(再結成メンバーで唯一、1989年から1992年にかけて、ボーカリストのイアン・ギランの代わりに、リッチー・ブラックモアからの要望と思われるが、レインボーの3代目ボーカリスト、ジョー・リン・ターナーが参加し、イアン・ギランは絶対歌わない「紫の炎」をステージで披露した)を除いて、往年の演奏曲目も含めて、第2期当時のメンバー中心のマイナーチェンジ再結成ととらえてよい。
[編集] 音楽的特徴と影響力
高音域のシャウトを多用するボーカルはハードロックだけでなくロックボーカルの特徴ともなっている。また、クラシック音楽、とりわけ国民楽派以降のそれに多大な影響を受けており、和声進行やフレーズ、楽式の導入は、後にヨーロッパで多数現れることになるハードロックバンドに影響を及ぼした。彼らとクラシック音楽とは切っても切れない間柄にあるといえる。それはグループの創始者であるリッチー・ブラックモアとジョン・ロードによるところが大きい。代表曲である「ハイウェイ・スター」と「紫の炎」の間奏部分はバッハのコード進行を引用したものである。
「白玉(全音符や二分音符のこと)キーボード」と揶揄されたこともあったが、ハモンドオルガンを操るジョン・ロードは、同時期に活躍した多くのプログレッシブ・ロックのキーボードプレイヤー同様、クラシック音楽の基礎を積んだキャリアがあり、曲調や他パートのアンサンブルの末に導き出された結果のプレイと判断すべきで、ハードロック・キーボードを確立した世界有数のプレイヤーの一人でもある。またリッチー・ブラックモアの第二~三期にかけてのギター奏法は、日本はもとより当時の世界中のロックギタリストやその候補たちにも大きな影響を与えている。さらにイアン・ペイスのシンコペーションを多用しタムを自在に操るメロディアスなドラムスは、ロックのドラミングのお手本のような存在である。
彼ら自身がヘヴィ・メタルに分類されるのか、ハードロックに分類されるのかについては、黎明期のバンドである為線引きが難しいが、その重厚で様式美に満ちた曲世界はヘヴィメタルの元祖・基本として、多くのヘヴィ・メタルのミュージシャンに影響を与えた。ただしステージ上ではインプロヴィゼーションの部分がかなり長く取られることからは、'70年代までのハード・ロック・バンドの特徴が伺える。
[編集] 特記
- 1973年度版ギネスブックに"The loudest band in the world"(世界一の大音響バンド)として彼らが認定されている。ロンドンのコンサート・ホールにて最大117デシベルを計測し、しばらく記録を保ち続けたが、1976年に同じくイギリスのロック・バンド、ザ・フーが最大120デシベルを計測したため彼らの記録は破られた。アンプを壁のように積み上げるスタイル(通称3段積み)は1970年代頃から顕著になってきたが、第2期の彼らはすべてマーシャル製のアンプを使いPAシステムにも同社のものを使用していた。1972年の初来日公演ではボーカル用マイクロフォン2本をガムテープで束ねて歌いさらに高出力を搾り出していた。
- あまりに当たり前すぎて表立って指摘されることは少ないが、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の4小節のギターリフは世界中で非常に有名である。ディープ・パープルを良く知らなくても、近所のギター小僧が聞かせるからである。また前述の「スモーク・オン・ザ・ウォーター」や「紫の炎」、「ブラック・ナイト」などの印象的で覚えやすいリフはテレビのコマーシャルやBGMなどでよく使われている。
- 彼らは1974年から1975年頃にかけて特別仕様の専用飛行機ボーイング707を借りてツアーをしていた時期があった。"スター・シップ1号"と名づけられたその飛行機はボディ色を金、銀、茶とに塗られ機内にはソファ、暖炉、シャワー室、台所、テレビ、ビデオ、書斎などが装備された豪華なものであった。フランク・シナトラ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、エルトン・ジョンなども同型のものを使用していた。また1976年にも小型のプロペラ機"ヴィスカウント号"を借りている。
- 日本で王様というミュージシャンが1995年に『深紫伝説』という、若干パロディー的性格も帯びてはいるが、このバンドの名曲を日本語で直訳したカバーアルバムでデビューし、同年に日本レコード大賞・企画賞を受賞している。同バンドのハード系のヒット曲や有名代表曲のほとんどがメドレー形式で網羅されていて、カバーとはいいつつも、歌詞の和訳も含めてアイディア勝負の興味深い作品である。彼ももちろんそうだが、日本人ファンのハード・ロックに対する深い愛情が現れた作品として企画ものとしては異例のヒットになった。
[編集] パープル・ファミリーの活動
メンバーの入れ替えも比較的多かったが、各メンバーの脱退後の活動やソロ活動も盛んで、常にロック界をリードしてきた。以下はそのほんの一部である。
- キャプテン・ビヨンド~第一期のボーカル、ロッド・エヴァンスの脱退後のバンド。ロッドは2ndを発表した後脱退するが、バンドはその後も2枚のアルバムをリリースする。
- イアン・ギラン・バンド(後にギランと改名)~脱退後から再結成までの間に活動。彼の声質を生かした明るめのハード・ロックで、固定ファンも多かった。なおイアン・ギランはブラック・サバスにも一時在籍しアルバムを1枚残している。
- レインボー~第三期までのギタリスト、リッチー・ブラックモアのハードロックバンド。日本及びヨーロッパで高い人気を誇り、'70年代から'80年代初頭のシーンを代表するバンドとなる。後にロジャー・グローヴァーも合流する。ロニー・ジェイムス・ディオやグラハム・ボネット、ジョー・リン・ターナーなどの優れたハードロックボーカリストをピックアップし、メジャーに押し上げたことで有名。またコージー・パウエルとのコラボレイションも伝説的。1978年の来日公演時、札幌公演で会場の混乱から観客1人が死亡する悲しい事故が起きた。これは当時大きなニュースとなり、その後の日本における会場警備に影響を与えた。
- ブラックモアズ・ナイト~現在の恋人、キャンディス・ナイトをヴォーカルにフィーチャーしたリッチーのデュオ。このバンドではリッチーは突然、アコースティック・ギターをフィーチャーした中世音楽のルーツに戻り、ヘヴィ・メタルのファンや、彼に影響を受けたハードロックギタリストを驚かせた。現在も活動は続いている。
- ホワイトスネイク~第三期と第四期のボーカル、デヴィッド・カヴァデールが中心となったバンド。後に、イアン・ペイスとジョン・ロードも参加する。多くのギタリストをメジャーにし、全米チャートも制覇。また自らも、ブリテッシュ・ハードロックを代表するボーカリストの一人として、今なお君臨する。
- カヴァーデイル・ペイジ~1990年代前半、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとのプロジェクト。アルバム1枚と、日本でのライヴツアーのみの活動だが、日本、アメリカ、イギリスといった、大きなロック市場全てで成功する。
- トミー・ボーリンは第四期に参加する際に、ソロ活動も平行して行うことを条件とし、結果的に2枚のソロアルバムをリリース。第四期同様、アダルト志向のファンやマニアに愛され、ソロの方が実力を発揮していたと見る向きも多い。
- ヒューズ・スロール~グレン・ヒューズとパット・スロールのプロジェクト。以降、ヒューズはソロ活動中心だが、ゲイリー・ムーアのソロアルバムに全面参加したりと、ベーシストとしてばかりではなく、ボーカリストとして、現在も盛んに活動する。
- イアン・ペイスは再結成バンドに参加しているが、1999年のポール・マッカートニーの新曲入りのロックンロールバンドに参加し、アメリカやイギリスの、複数のテレビやラジオ番組に出演してライヴ演奏し、その一部は、日本でも放送された。
- 現在のギタリスト、スティーヴ・モーズはデキシー・ドレッグス、カンサス等でキャリアを積んだ、技巧派ギタリストとして著名な人物である。彼の参加によりバンドの演奏が非常に安定した。現在ギタープレイを全面的に押し出した、自分名義のスティーヴ・モーズ・バンドを並行して活動させている。
[編集] メンバー
- 第1期
- ジョン・ロード(John Lord,Keyboard)
- リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore,Guitar)
- イアン・ペイス(Ian Paice,Drums)
- ニック・シンパー(Nick Simper,Bass)
- ロッド・エヴァンス(Rod Evans,Vocal)
- 第2期
- ジョン・ロード
- リッチー・ブラックモア
- イアン・ペイス
- ロジャー・グローヴァー(Roger Glover,Bass)
- イアン・ギラン(Ian Gillan,Vocal)
- 第3期
- ジョン・ロード
- リッチー・ブラックモア
- イアン・ペイス
- グレン・ヒューズ(Glenn Hughes,Bass&Chorus)
- デヴィッド・カヴァーディル(David Coverdale,Vocal)
- 第4期
- 再結成第2期(一部では「第5期」とも呼ぶが、ここでは通念上別の呼名を使用する)
- ジョン・ロード
- リッチー・ブラックモア
- イアン・ペイス
- ロジャー・グローヴァー
- イアン・ギラン
- 第5期
- ジョン・ロード
- リッチー・ブラックモア
- イアン・ペイス
- ロジャー・グローヴァー
- ジョー・リン・ターナー(Joe Lynn Turner,Vocal)
- 再々結成第2期(同様に一部ではこれを「第7期」と呼ぶ。つまり一つずつずれていくのである)
- ジョン・ロード
- リッチー・ブラックモア
- イアン・ペイス
- ロジャー・グローヴァー
- イアン・ギラン
- 第6期(一部では、アルバム未発表、ツアーのみのメンバーの為、これをカウントしない)
- ジョン・ロード
- ジョー・サトリアーニ(Joe Satriani,Guitar)
- イアン・ペイス
- ロジャー・グローヴァー
- イアン・ギラン
- 第7期
- 第8期
[編集] ディスコグラフィ
- ハッシュ - Shades of DEEP PUPLE (1968)
- 詩人タリエシンの世界 - The Book Of Taliesyn (1969)
- ディープ・パープル III - Deep purple (1969)
- ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ - Concerto For Grund And Orchestra (1970)
- イン・ロック - Deep Purple In Rock (1970)
- ファイアーボール - Fireball (1971)
- マシン・ヘッド - Machine Head (1972)
- ライヴ・イン・ジャパン - Live In Japan (1972)
- 紫の軌跡 - Purple Passages (1972)
- 紫の肖像 - Who Do We Think Are (1973)
- 紫の炎 - Burn (1974)
- 嵐の使者 - Stormbringer (1975)
- ブラック・ナイト=24カラット - 24 Carat Purple (1975)
- カム・テイスト・ザ・バンド - Come Taste The Band (1975)
- メイド・イン・ヨーロッパ - Made In Europe (1976)
- ラスト・コンサート・イン・ジャパン - Last Concert In Japan (1977)
- パワー・ハウス - Powerhouse (1977)
- パープル・ロール - When We Rock,We Rock And When We Roll,We Rock (1978)
- ディーペスト・パープル - Deepest Purple (1980)
- イン・コンサート - Deep Purple In Concert (1980)
- ライヴ・イン・ロンドン - Deep Purple Live In London (1982)
- パーフェクト・ストレンジャーズ - Perfect Strangers (1984)
- ハウス・オヴ・ブルーライト - The House Of Blue Light (1987)
- ノーバディズ・パーフェクト - Nobody's perfect (1988)
- スレイブズ・アンド・マスターズ - Slaves And Masters (1990)
- 紫の聖戦 - The Battle Rages On (1993)
- 紫の証 - Purpendicular (1996)
- アバンダン - Abandan (1998)
- バナナズ - Bananas (2003)
- ラプチャー・オヴ・ザ・ディープ - Rapture Of The Deep (2005)
[編集] 参考文献
- 吉田弘和編 『ディープ・パープル,ブリティッシュ・ロックの王者:紫神』 シンコー・ミュージック、1976年。
- クリス・チャールズ・ワース 『ディープ・パープル :フォト・バイオグラフィー』 内田久美子・成田寿恵子訳、シンコー・ミュージック、1984年。
- TORU FUJIWARA編: 『天才ギタリスト :リッチー・ブラックモア』 バーン・コーポレーション、1998年。
- Dave Thompson, Smoke on the water: The Deep Purple Story ,Canada:ECW Press,2004.
[編集] 外部リンク
カテゴリ: イギリスのバンド | ハードロック | ヘヴィメタル・バンド