エルトン・ジョン
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サー・エルトン・ハーキュリーズ・ジョン CBE(Sir Elton Hercules John CBE、旧名:レジナルド・ケネス・ドワイト/Reginald Kenneth Dwight、1947年3月25日 - )は、イギリスのミドルセックス州ピナー生まれのピアニスト、シンガーソングライター。代表曲に「僕の歌は君の歌」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」などがある。
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[編集] 人物
1969年にソロ・デビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録した、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。作曲は彼自身によるものだが、作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。芸名は彼がソロ・デビュー前に参加したバンド、ブルーソロジーのメンバーだったソフト・マシーンのエルトン・ディーン(Elton Dean)とロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の二人の名前から取ったものである。
1970年代前半に彼の人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降アルバムが7枚連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に彼は数多くの快挙を成し遂げている。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。80年代後半から90年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。1990年代前半からは復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、シングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が全世界で3700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は2006年4月現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。
メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、フィリー・ソウル、ディスコミュージックに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。ピアノの下に隠れての曲弾きや、クライマックスでのピアノの上によじ登ってのゴリラドラミングを行うことも多い。彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較されがち。彼等は近年では頻繁にジョイント・コンサートを行っている。
彼は両性愛者であることで知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と意に介さなかった。性格は繊細さと荒々しさを併せ持ち、長年自身の容姿に劣等感を持っていたとされる。70年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していたが'90年代に植毛手術に成功。今世紀に入っては視力矯正手術にも成功し長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在はそれらを自らギャグとして披露してもいる。また過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方では取材に対して饒舌でもあり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また彼自身、クラブチームを保有していた時期がある。
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
エルトン・ジョンは、RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの息子、レジナルド・ケネス・ドワイトとして、1947年3月25日にイギリスのミドルセックス州ピナーに生まれた。ドワイトは彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。スタンリーとシェイラはドワイトが15歳だった1962年に離婚した。母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚し、ドワイトは義父をダーフという愛称で呼んだ。
4歳のときから、ドワイトはピアノを弾き始める。 彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができた。11歳のときに王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため卒業前に学校を離れるまで、6年間在学した。初期に影響を受けた人物にはジム・リーブスが含まれていた。
[編集] デビューに至るまで
1960年に、ドワイトは友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドはやがてブルーソロジーに発展する。ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。 1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイおよびパティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、イギリスのキャバレーをまわるツアーに参加している。
ドワイトはリバティ・レコードのA&Rマネージャーだったレイ・ウィリアムズによってニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せられた募集広告に応募する。最初の面接でウィリアムズはドワイトに、同じ広告に募集してきたバーニー・トーピンによって書かれた歌詞のストックを渡した。ドワイトは歌詞に曲をつけ、 これが今日まで続くパートナーシップの始まりである。
1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。トーピンと出会って半年後に、レジナルド・ドワイトは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。
ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。その後2年以上、ロジャー・クックやルルのようなさまざまなアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。すぐに何かを思いつくことができない場合は歌詞を処分した。こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。
違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。最初の作品はブルーソロジーのギタリスト、カリブ・クエイがプロデュースした1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーとともに、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たにもかかわらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによってにわかに注目を浴び始めることとなる。
ソロデビュー後もスーパーで売られる最新ヒットのカバーレコードで「チャートバスターズ」として名前を隠して歌ったり、キング・クリムゾンやジェントル・ジャイアントのリード・ヴォーカリストのオーディションを受けるなどしており、この時期の活動にはまだ明らかでない部分がある。
[編集] 1970年代前半
1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作したセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛した「僕の歌は君の歌」は、彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。
クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンとベーシストのディー・マレーが参加した。彼らはジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。1972年からはギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』まで、彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。
この時期の作品の中で最も成功したとされるのが1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』である。現在もコマーシャルなどで頻繁に使用されるタイトル・ナンバーや、のちにリメイクされて幾度もヒットする「風の中の灯のように(キャンドル・イン・ザ・ウィンド)」などを収録したこの作品は、現在も一般的な彼の最高傑作として評される。また、1975年発表のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートでは史上初となる初登場1位を記録した。1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。シングルでは「クロコダイル・ロック」「ベニー・アンド・ザ・ジェッツ」「フィラデルフィア・フリーダム」「アイランド・ガール」の4枚の作品が1位。他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカとの共演「バッド・ブラッド」、ジョン・レノンとの「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」なども全米1位に輝いた。また、1974年にはザ・フーによるロック・オペラを映画化した『トミー』に、ピンボールの魔術師と呼ばれる役で出演した。
[編集] 1970年代後半
1976年発表のキキ・ディーとの「恋のデュエット」は彼にとって初の全英シングルチャート1位となっている。 ハイペースでのレコード発表と並行して、極めてワーカホリックだったスケジュールでのステージ活動はジョンの精神や肉体に支障を来した。『キャプテン・ファンタスティック』の発売後に彼はオルソンとマレーを解雇し、バックバンドの布陣を変えて音楽活動に臨むが、そのような経緯で発売された『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも評論家からは酷評されてしまう。
こういったプレッシャーから彼の心に迷いが生じたのか、アルバム『蒼い肖像』を発売すると彼は引退を表明して音楽活動を休止する。なおこれを境に彼は、パートナーシップを築き上げてきたトーピンや、バックバンドとの関係も一時的に解消している。ローリング・ストーン誌の中で彼が両性愛者であることを告白したのも同時期である。
約2年の活動休止期間を経てカムバックしたジョンは、1978年にアルバム『シングル・マン』を発表する。スタッフの面子を一新して制作されたこのアルバムでは、これまで全ての楽曲の作詞を手がけてきたトーピンに代わり、ゲイリー・オズボーンが新たな作詞家として起用されている。その後フィリー・ソウルの大御所、トム・ベルとともにアルバム1枚分の作品を制作するが、結果的にジョン自身の意向によってアルバムはお蔵入りとなり、一部楽曲が12インチシングルで発売されるのみとなった(後年になって全てリリースされている)。1979年にはピート・ベロッティをプロデューサーに迎え、楽曲もベロッティが手がけた異色作『恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ』をリリースするが、ユーロビートを大胆に取り入れた作風は評論家には受け入れられず、セールスも芳しくなかった。一方で同年にはライブ活動を再開し、当時のソ連では初の西側ロックミュージシャンによるライブとなるモスクワ公演を行って話題となった。
[編集] 1980年代
その後、ジョンはオズボーン以外にトム・ロビンソンなどを作詞家として迎え入れているものの、結果的に解消していたトーピンとの作曲コンビは1980年のアルバム『21 at 33』を境に復活。1983年以降は再び彼が大半の楽曲の作詞を手がけるようになっている。1981年以降はクリス・トーマスが主にアルバムのプロデュースに携わった。ジョンとは旧知の仲であったトーマスは、『トゥ・フォー・ロウ・ゼロ』や『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』などといった1980年代の主要なジョンの作品において非常に大きな役割を担っている。試行錯誤を経て、再び以前のパートナーやバックバンドとともに創作活動に臨むようになった彼は、1985年の『アイス・オン・ファイアー』で再びガス・ダッジョンをプロデューサーに迎えている。
1988年の「アイ・ドント・ウォナ・ゴー・オン」はビルボード2位まで上昇し、1989年にリリースした「サクリファイス」が翌年にソロとして初の全英シングルチャート1位を記録するなど、80年代を通しても彼は「リトル・ジニー」「エンプティ・ガーデン」「ブルースはお好き?」「サッド・ソングス」「ニキータ」「愛のハーモニー」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド'86」等、ほぼ毎年ヒット曲を連発していたが、常に全盛期のイメージと比較され新しいヒット曲が出る度に「エルトンの復活」と称された。そして全盛期との違いとしてアルバム・セールスは80年代の後半には大きく伸び悩んだ。1987年に行った長期公演では喉を悪化させてしまい、翌年に声帯の手術を行っている。以降、彼のヴォーカル・スタイルおよび歌声は大きく変貌した。彼は1984年にドイツ人のレコーディング・エンジニア、レネーテ・ブリューエルと結婚。彼女との結婚生活はさまざまなスキャンダルを呼び、最終的に4年後の1988年に離婚に至った。1980年代後半の彼は精神的にも不安定な状態が多く、過食症やアルコールの過剰摂取はよりいっそうエスカレートしていたといわれる。 この時期、エルトンはもう一枚アルバムを作る予定であったらしいが結局、その内の数曲がベストアルバムやシングルB面として発表されるにとどまった。
[編集] 1990年代
1990年、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院。更生施設への入居を経てカムバックしたジョンは、翌年のアルバム『ザ・ワン』で再び好調なセールスと高い評価を得る。なお、1980年代暮れから1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くした彼は、1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになった。
1992年には、クリス・レアやリトル・リチャードなどを初めとする十数人のアーティストとのデュエットを収めたカヴァー集『デュエット・ソングス』を発表。企画盤にもかかわらず、全世界で200万枚以上のセールスを記録する大きな成功を収めた。このアルバムにプロデューサーとして参加したグレッグ・ペニーは、1995年の『メイド・イン・イングランド』では全面的にプロデュースに関わっている。
1994年には、以前にアルバム『ジャンプ・アップ』で共作した作詞家、ティム・ライスとともにディズニー映画『ライオン・キング』の音楽を担当する。この映画のサントラは全米チャート1位を記録し、最終的に彼の30年以上に渡るキャリアの中では『グレイテスト・ヒッツ』に次ぐ商業的成功を収めたアルバムとなった。ジョンの歌唱による主題歌「愛を感じて」もグラミー賞最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー賞の主題歌賞を受賞するなど高い評価を受けた。また、この年から彼はビリー・ジョエルとジョイント・コンサート、フェイス・トゥ・フェイスを行っている。
1997年9月、彼は自動車事故で亡くなったダイアナ元皇太子妃への追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997」をシングル発売する。アルバム『黄昏のレンガ路』に収録されていた楽曲を、歌詞を変えてリメイクしたこの曲は全世界で3700万枚以上のセールスを記録。ビルボードのHOT 100とシングルセールスチャートで14週、カナダの公式シングルチャートで46週、その他日本をはじめとする世界各国のヒットチャートで首位を獲得し、シングルとしては史上最も多くの枚数を売り上げた。この楽曲の成功により、ジョンは1998年度のグラミー賞で最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。また、カップリング曲の「ユー・ルック・トゥナイト」が収録されていたアルバム『ザ・ビッグ・ピクチャー』も、相乗効果で久々に全米・全英ともにトップ10内にランクインした。
1998年にはティム・ライスと再びタッグを組み、ヴェルディのオペラをモチーフにしたミュージカル『アイーダ』やドリームワークス配給のアニメ映画『エルドラド』のサントラ盤などを制作。この2枚のアルバムの中で、ジョンはスティング、ジャネット・ジャクソン、シャナイア・トゥエイン、バックストリート・ボーイズなどといった多数の豪華な顔ぶれとともにデュエットしている。2000年には長年バックバンドでキーボーディストとして活躍してきたガイ・バビロンをプロデューサーに迎えてインスト集を制作し、アルバート・ブルックスが主演・監督・脚本を務めた同名映画のサウンドトラック盤『ハリウッド・ミューズ』としてリリースした。
また、同年には行われたアメリカ・ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、メアリー・J・ブライジやブライアン・アダムズなどをゲストに迎えた豪華なライヴを行った。その模様は『ワン・ナイト・オンリー』と名づけられてアルバムやDVDなどで商品化されている。
[編集] 近年
最近はミュージシャンとしての活動そのものよりも、かつて親交が深かったジョージ・マイケルやマドンナといった他の歌手への批判、台湾のパパラッチに対する暴言など、過激な言動や奇行などが取り沙汰されることが多い。また2005年には、イギリスで同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法の制定を機に、15年来のパートナーだったデヴィッド・ファーニッシュと男性同士で同契約を結び、事実上「結婚」したことも大きな話題を呼んだ。
なお本業の音楽では、2枚のオリジナル・アルバムと過去に発売されたアルバムのデラックス版やリマスター盤などを再発売したほかに、2003年からはラスベガスのシーザーズ・パレス・ホテルにて3年間の契約で、セリーヌ・ディオンとの日替わりという形でレッド・ピアノという定期公演を行っている。最新アルバムはかつての名作『キャプテン・ファンタスティック』の続編的作品『キャプテン・アンド・ザ・キッド』で、2006年の9月に発表された。
[編集] 関連人物
- バーニー・トーピン/Bernie Taupin
- 作詞家。デビュー以前より現在に至るまで殆どの楽曲を担当。エルトンは歌詞に合わせて曲を書くが、そのスタイルは若き彼らが同居していた頃から同じであり、「僕の歌は君の歌」は歌詞を渡して30分で書き上げたという。エルトン曰く最もイマジネーションが湧く作詞家。現在はアメリカ在住で、打ち合わせの後に歌詞がファックスで送られてくるという。
- デイヴィー・ジョンストン/Davey Johnstone
- ギタリスト。『ホンキー・シャトー』よりのエルトン・ジョン・バンドのメンバー(レコーディングは『マッドマン』より参加)。現在はツアーの音楽監修も務める。マンドリン、シタールなどの楽器も弾きこなす。バンド加入前、マグナ・カルタに在籍中の1970年に、バーニー・トーピンのアルバムに参加している。
- ナイジェル・オルスン/Nigel Olsson
- ドラマー。エルトン・ジョン・バンドのメンバー。プラスティック・ペニー、スペンサー・デイヴィス・グループを経て、デビューライブから参加。1975年に脱退(金銭問題とも言われ、この時期のシングルが「&エルトン・ジョン・バンド」名義で出されている)。その後80年代にバンド復帰。その後も散発的にレコーディング、ライブに参加。2000年より再び正式メンバー。高音部のコーラスを担当し、ソロミュージシャンとしても「涙のダンシング・シューズ」などのヒット曲がある。
- ディー・マレイ/Dee Murray
- ベーシスト。エルトン・ジョン・バンドのメンバー。スペンサー・デイヴィス・グループに在籍後、デビューライブから参加。1975年にナイジェルと脱退し80年代に共に復帰している。その後も散発的に活動を共にしたが1992年1月15日、癌のため病死。
- レイ・クーパー/Ray Cooper
- 数々のミュージシャンと共演した名パーカッショニスト。1973年「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」ツアーからバンドに参加。1979年モスクワ公演、1995年来日公演などでエルトンとの二人だけのツアーを行っている。映画制作も手がけるなど才人。日本のファンからは、その風貌から「和尚」と呼ばれている。
- ガス・ダッジョン/Gus Dudgeon
- 初期の黄金期を支えたプロデューサー。関わりは深く、80年代、彼が窮状に陥った際『アイス・オン・ファイヤー』のプロデューサーとして再起用している。2002年7月21日に、妻とともに交通事故死。
- クリス・トーマス/Chris Thomas
- 80年代以降の多くの作品を手がけたプロデューサー。エルトンとはロイヤル・アカデミーの学友でもある。セックス・ピストルズ『勝手にしやがれ!』のプロデューサーとしても有名。
- ポール・バックマスター/Paul Buckmaster
- アレンジャーとして『エルトン・ジョン』より参加。弦楽器により音に深みを出し、初期のエルトンのイメージを形成した。近年の作品にも参加している。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] スタジオ録音作品
- 『エンプティ・スカイ(エルトン・ジョンの肖像)』 - Empty Sky (1969年) - 1975年に新装ジャケットで再発売されたがCD化の際にオリジナル装丁に戻された。
- 『僕の歌は君の歌』 - Elton John (1970年)
- 『エルトン・ジョン3』 - Tumbleweed Connection (1970年)
- 『マッドマン』 - Madman Across the Water (1971年)
- 『ホンキー・シャトー』 - Honky Château (1972年)
- 『ピアニストを撃つな!』 - Don't Shoot Me, I'm Only the Piano Player (1973年)
- 『黄昏のレンガ路』 - Goodbye Yellow Brick Road (1973年)
- 『カリブ』 - Caribou (1974年)
- 『キャプテン・ファンタスティック』 - Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy (1975年)
- 『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』 - Rock of the Westies (1975年)
- 『蒼い肖像』 - Blue Moves (1976年)
- 『シングル・マン』 - A Single Man (1978年)
- 『レディ・サマンサ』 - Lady Samantha (1978年) - それまでのアルバム未収録曲の抜粋
- The Complete Thom Bell Sessions (1979年) - 80年代にCD発表された
- 『恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ』 - Victim of Love (1979年)
- 『21 AT 33』 - 21 at 33 (1980年)
- 『ザ・フォックス』 - The Fox (1981年)
- 『ジャンプ・アップ』 - Jump Up! (1982年)
- 『トゥ・ロウ・フォー・ゼロ』 - Too Low for Zero (1983年)
- 『ブレイキング・ハーツ』 - Breaking Hearts (1984年)
- 『アイス・オン・ファイアー』 - Ice on Fire (1985年)
- 『レザー・ジャケッツ』 - Leather Jackets (1986年)
- 『REG・ストライクス・バック』 - Reg Strikes Back (1988年)
- 『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』 - Sleeping with the Past (1989年)
- 『ザ・ワン』 - The One (1992年)
- 『デュエット・ソングス』 - Duets (1993年)
- 『メイド・イン・イングランド』 - Made in England (1995年)
- 『ビッグ・ピクチャー』 - The Big Picture (1997年)
- 『ソングス・フロム・ザ・ウエストコースト』 - Songs from the West Coast (2001年)
- 『ピーチツリー・ロード』 - Peachtree Road (2004年)
- 『キャプテン・アンド・ザ・キッド』 - The Captain and the Kid (2006年)
[編集] ライヴ盤
- 『ライヴ!!(17-11-70)』 - 17-11-70 (1971年) - 米題 11-17-70
- 『ヒア・アンド・ゼア~ライブ・イン・ロンドン&N.Y.』 - Here and There (1976年)
- もともとはアナログA面(ロンドン・サイド)とB面(ニューヨーク・サイド)1枚でリリースされたアルバムがCDリミックスでリニューアルされた時2枚にまとめられた。2枚目には歴史的なジョン・レノンのゲスト出演で、一緒に演奏した「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」のライヴ音源なども収録されている。
- 『エルトン・スーパー・ライヴ~栄光のモニュメント~』 - Live in Australia with the Melbourne Symphony Orchestra (1987年)
- 『ワン・ナイト・オンリー~グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』 - One Night Only (2000年)
[編集] サウンドトラック
- 『フレンズ』 - Friends (1971年)
- 『ライオン・キング/オリジナルサウンドトラック』 - The Lion King (1994年)
- 『エル・ドラド』 - The Road to El Dolado (2000年)
- 『アイーダ/エルトン・ジョン&フレンズ』 - AIDA (1999年)
- 『ハリウッド・ミューズ/オリジナルサウンドトラック』 - Original Motion Picture Soundtrack "THE MUSE" (2000年)
[編集] ベスト盤
- 『グレイテスト・ヒッツ』 - Greatest Hits (1974年) - 英盤"Candle In The Wind"が米盤では"Benny & The Jets"に差し替えられている。
- 『グレイテスト・ヒッツ Vol.2』 - Greatest Hits Volume II (1977年) - 英盤"Benny & The Jetts"が米盤では"Levon"に差し替えられている。また"Don't Go Breakin' My Heart"が"I Feel Like A Bullet"に差し替えられているものもある。
- Greatest Hits Vol. 3 (1979-1986) (1987年、日本未発売) - ゲフィンでのベスト
- To Be Continued... (日本未発売のボックスセット、1990年) - ブルーソロジー時代から'90年までの主にアメリカでのヒット曲と未発表曲集。
- 『ベリー・ベスト・オブ・エルトン・ジョン』 - The Very Best of Elton John (1990年)
- 『イエス・イッツ・ミー~レア・トラックス』 - Rare Masters (1992年)
- 『ラヴ・ソングス』 - Love Songs (1995年) - ドイツでリリースされた。「リトル・ジニー」や「クロエ」の貴重なシングルバージョンを収録。
- 『グレイテスト・ヒッツ 1970-2002』 - Greatest Hits 1970-2002 (2002年)
[編集] 日本公演
- 1971年
10月5日,6日・渋谷公会堂、10月7日,8日・大阪 厚生年金会館、10月10日,11日・新宿 厚生年金会館
- 1974年
2月1日,2日・日本武道館、2月3日~5日・大阪 厚生年金会館、2月7日・九電記念体育館、2月8日・広島 郵便貯金ホール、2月9日・京都会館、2月10日・大阪フェスティバルホール、2月11日・名古屋市公会堂、2月13日・新宿 厚生年金会館
- 1988年 with エリック・クラプトン、マーク・ノップラー
10月31日・名古屋市総合体育館レインボーホール、11月2日・東京ドーム、11月4日・日本武道館、11月5日・大阪球場
- 1995年 with レイ・クーパー
2月6日・大阪城ホール、2月7日・福岡国際センター、2月9日・名古屋センチュリーホール、2月11日・大阪城ホール、2月12日,14日~16日・日本武道館
- 1998年 with ビリー・ジョエル
3月26日・福岡ドーム、3月28日・大阪ドーム、3月30日,31日・東京ドーム、4月3日・ナゴヤドーム
- 2001年
11月12日・大阪城ホール、11月13日,15日・日本武道館
[編集] 豆知識
- 日本のオリコンにおけるエルトン・ジョンのシングルで初チャートイン曲(100位以内、以下同)は1971年の「フレンズ」。1970年の「僕の歌は君の歌」(Your Song)は発売当時はチャートインしていない。1992年に映画『エンジェル 僕の歌は君の歌』の主題歌に「僕の歌は君の歌」が起用され再発、実に発売から22年後の初チャートインとなった。オリコン上、エルトン・ジョンのシングルで最も売れたのは「イエス、イッツ・ミー」である(「キャンドル・イン・ザ・ウインド1997」を除く)。
- 1994年にリリースされた「愛を感じて」"Can you feel the love tonight?" はディズニー映画「ライオン・キング」の主題歌になっており、彼自身この曲で賞を受けている。
- 1998年の日本公演ではゴジラ、桜の木、ヨーダ(スター・ウォーズの登場人物)の被り物を被って登場し、被ったままで演奏、歌唱。協演したビリー・ジョエルからは色々と突っ込まれた。
[編集] 関連項目
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