リヴォニア戦争
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リヴォニア戦争とは、主にロシア帝国(モスクワ大公国)、ポーランド王国、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にして戦った戦争。1558年から1583年まで続いた。事の発端は、ロシア帝国ツァーリ・イヴァン4世が西欧との通商を求め、バルト海への進出を試み、ドイツ騎士団へ宣戦布告した事から始まる。なお、ほぼ同時期、デンマークがエストニア(エストラント)を巡ってスウェーデンと戦争を起こしているが、直接、リヴォニア戦争と関連している訳ではない。デンマーク、スウェーデンが主な戦場としたのは、エストニアやスカンディナヴィア半島であり、ポーランド、ロシアとは直接、戦端を開いていない。デンマーク、スウェーデンの戦争は、北方七年戦争(1563年-1570年)と呼ばれている。
この戦争の最中、ポーランド・ヤギェウォ家とスウェーデン・ヴァーサ家は、婚姻関係を結び、同時に対ロシア同盟を組んだ。この同盟により、ロシアはポーランド・スウェーデンから挟撃されることとなった。
侵略の危機に晒されたドイツ騎士団は、まずリトアニア大公国と同盟し、さらにポーランド王の属国化を承認したものの、ロシア軍の侵攻により、滅亡は避けられない状況となった。これに目を付けたポーランド(リトアニア大公国軍)とスウェーデンがリヴォニアに侵攻。デンマークは、スウェーデンのバルト海進出を阻む為に別個の戦端を開いた。リヴォニアは完全に解体される事となった。
この状態を見たバルト・ドイツ人の貴族ケトラー家は、ポーランド王国に臣従し、クールラント大公国を建国した(1561年)。その後、リトアニア大公国軍は、ロシア軍と交戦し有利に立つものの、国力を浪費し、長期戦に絶えることが不可能となり、同君連合を取るポーランド王国軍の参戦を求めた。ポーランドは、直接参戦の見返りにリトアニアに多大な譲歩を求め、さらに領土の一部を譲渡させ、直接参戦に踏み切った。結局、リトアニアは、ポーランドと共通する議会を持つ事を強要され、1569年にルブリン合同を結び、両国は一体となった。以降のポーランド・リトアニア連合を、「共和国」と呼ぶ様になる。同時にポーランド王ズィグムント2世による東欧・ロシア征服の野心によって、戦争は東欧一帯に拡大して行く。
リトアニアを併合したポーランドは強大となり、旧リトアニア大公国のクリミア・ハン国との同盟を利用し、オスマン帝国とクリミア・ハン国の共同作戦を引き出し、その結果、クリミア・ハン国は、1571年にモスクワに侵攻し、これを焼き払った。スウェーデンも北方七年戦争終結後、再攻撃を開始した。ポーランドは1572年にヤギェウォ朝が断絶。翌1573年に選挙王政となった。この隙をついてロシアが反撃を始めたものの、決着はつかず、国力を低下させるだけに留まった。ポーランドも選挙王政後、長期戦を余儀なくされ、ヤギェウォ朝の野心の放棄と、国力浪費を抑える為に和平を結ぶ事に同意した。1582年、両国はローマ教皇の仲介で、戦前の状態に戻す事で、休戦条約が結ばれた。
スウェーデンは、リヴォニアから撤退し、エストニアを確保する。1583年、ロシアは結局、エストニア、ナルヴァとラドガ湖西岸をスウェーデンに割譲する事で休戦に至った。この結果、ロシアのバルト海進出は絶望的となった。
これによって、完全にリヴォニア戦争は終結した。ロシア帝国は、国力の低下をもたらし、後の動乱の遠因となり、さらにポーランド、スウェーデンにより、ヨーロッパから駆逐される形となった。最もロシアは、これが為シベリア進出(シベリア遠征)に総力を傾ける事が可能となり、後年の大ロシアの建設の開闢となったのである。
ポーランドは特に獲得したものはなかったが、リトアニア大公国を一元化し、クールラント大公国の宗主国となり大国の座を維持した(ただしこの地域における真の勝利者は、バルト・ドイツ人である。彼らは、ポーランド宗主下の諸侯であったが、事実上のバルト地方の支配者となった)。またスウェーデンも、ロシアから領土をもぎ取り、北方七年戦争においてもデンマークを退けた事により、後、17世紀に打ち立てられた「バルト帝国」の礎を築いたのである。