手話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
手話(しゅわ)とは、手指動作と非手指動作(NMS, non-manual signals)を同時に使う視覚言語で、音声言語と並ぶ言語である。手話は聴覚障害者(ろう者)が中心となって使用している。
手話は手や指、腕を使う手指動作だけでなく、非手指動作と呼ばれる、顔の部位(視線、眉、頬、口、舌、首の傾き・振り、あごの引き・出しなど)が重要な文法要素となる。この非手指動作によって、受身、使役、命令、疑問文、条件節などの文法的意味を持たせることが出来る。
手話は「あいうえお…」の五十音、又はアルファベットをあらわす指文字とは区別され、「山」「犬」「走る」「美しい」などの名詞、動詞、形容詞を一動作であらわすのが基本である。聴者が普段する身振り(例えば日本では「男」を親指で、「女」を小指で示すなど)と共通した表現も見られる。
目次 |
[編集] 日本の手話
日本では、ろう者同士の間で生まれ、広がった日本手話(Japanese Sign Language, JSL)のほか、日本語と手話とをほぼ一対一に対応させた日本語対応手話(手指日本語)、また、その両者の中間的な表現(中間手話)等が使われている。日本手話は、基本文法が日本手話そのものなので、非手指動作が重要な意味を持つ。しかし、日本語対応手話は、基本文法が日本語のため、非手指動作はほとんど使われない(日本語にあわせて手話単語を表現する)。このように、言語学的な観点でみると両者は異なる。
また、地域によって一部の手話単語が異なる。有名な例(手話単語の方言)では、「名前」の手話単語が東日本と西日本で異なることが挙げられる。
一部のろう者とそれに同調する聴者は、日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、「手指日本語」という語を用いている。
[編集] 世界の手話
手話は世界共通ではなく、アメリカの ASL・イギリスのBSL・フランスのLSF等のように各国で異なる。
その地域で使われる音声言語と手話との間には関係がない。例えば、アメリカとイギリスは音声言語の英語を共有するが、手話のASLとBSLは全く異なる。ところがフランスでは英語を用いないのにも関わらずLSFはASLに比較的近いと言われる。また、カナダのフランス語圏ではLSFでなくLSQを使う。
世界ろう連盟主催の国際会議、国際大会など、国際的な場では国際手話が使われる。しかし、実際の国際交流の場ではASLが一番広まっている。その理由は、アメリカの影響力や、世界中の留学生が学ぶギャローデット大学がアメリカに所在しているためである。
アメリカには、ASLの表現を借りて、英語の語順と同じにした手話『Pidgin Signed English, PSE』などがある(日本で言えば、日本語対応手話に当たる)。
[編集] 手話の歴史
[編集] 手話の誕生
1760年以前は、「孤立」していた聴覚障害者は、ごく身近な人だけにしか通じない『ホームサイン』を使ってわずかな意思疎通をはかっていた。
1760年、ド・レペ神父が世界初の聾唖学校である、パリ聾唖学校を設立した。ここで世界で初めてのろう者の「集団」が形成されたとされるが実際には世界の大都市では常に聾者集団は存在した。ド・レペ神父の貢献はこれらの聾者集団に読書きを教えることで聴覚者との意思の疎通を可能にしたことである。彼らは、各々持っていたホームサインを統合し、発展させて、手話を創り上げた。パリ聾唖学校では、手話をもとにした教育法である、フランス法が確立された。
パリ聾唖学校の試みは、ヨーロッパ各地に波及していき、各国独自の手話が創り上げられた。
- それぞれの国で初めての聾唖学校設立年。2つ目以降の聾唖学校設立年は省略。
1778年 ライプチヒ(ドイツ)
1779年 ウィーン(オーストリア)
1783年 ハックニー(イギリス)
1784年 ローマ(イタリア)
1790年 フローニンゲン(オランダ)
1793年 トゥルネ(ベルギー)
1795年 マドリード(スペイン)
1806年 サンクト・ペテルブルク(ロシア)
1807年 コペンハーゲン(デンマーク)
1808年 ストックホルム(スウェーデン)
1811年 イヴェルドン(スイス)
1817年 ハートフォード(アメリカ)
1823年 リスボン(ポルトガル)
- 【1862年、江戸幕府に派遣された第一次遣欧使節一行はヨーロッパの聾学校や盲学校を視察していた。】
日本の最初の聾学校は、古川太四郎が1878年に設立した京都盲唖院である。ここに31名の聾唖生徒が入学し、日本の手話が誕生した。
[編集] 手話の暗黒時代
しだいに聾学校では、手話で教育する方式と、口話法という、聾児に発音を教え、相手の口の形を読み取らせる教育方式の2つの流派に分かれていった。両者は長い間論争し、対立していた。
1880年ミラノで開かれた国際聾唖教育会議で口話法の優位性が宣言され、手話法や手話は陰の立場に追いやられていった。口話法が採られた背景には、国家強化には言語の統一から、つまり、教育の場では音声言語獲得からという思想があった。この宣言は、やがて日本にも入ってきて、日本も口話法が主流になっていった。
この状態が長く続き、手話は教育の場で、そして社会で認められない、偏見を持たれる言語となった。しかし、手話は、聾学校内では教師の見ていないところで先輩から後輩へ伝承されていった。又、社会内ではろう者が集まる場でひそかに使われていた。
[編集] 手話の再評価
1960年にギャローデット大学の言語学者、ウィリアム・ストーキー(William Stokoe)は『手話の構造』を発表した。これは手話は劣った言語ではなく、音声言語と変わらない、独自の文法を持つ独立言語であるという内容だった。これをきっかけにして1970年代以降、手話を言語学としての研究対象とする学者が増えた。現在では、言語学者の間で「手話が言語である」というのは常識になっている。
同時期に、口話法での教育の行き詰まりも各地で報告されるようになっていた。また、北欧で発生していったバイリンガルろう教育が刺激となり、手話法の見直しがなされた。現在では、教育機関では程度はあれど、手話法を取り入れるところが増えている(口話法のところもある)。
また、アメリカで提唱されたろう文化(Deaf Culture)という考えがきっかけとなり、手話はろう者の言語であるということをろう者自身が認識していくようになった。
日本においては1995年、日本テレビ系列で放映されたテレビドラマ『星の金貨』がきっかけとなって、手話の存在が広く知られるようになった。また、これ以降、「君の手がささやいている」「愛していると言ってくれ」「オレンジデイズ」など、手話話者が登場するドラマ(手話ドラマ)が増えていった。
また、2006年5月7日まで千葉県浦安市舞浜にあるテーマパーク、東京ディズニーシーで行なわれていたショー「ポルト・パラディーゾ・ウォーターカーニバル」では、ミッキーマウスやディズニーの仲間たちが歌詞に合わせて手話(日本語対応手話)を披露していた。
教育の場においても、1990年代後半から、手話を積極的に利用する聾学校が増えており、広島ろう学校、大阪市立ろう学校、岡崎ろう学校、三重ろう学校、大塚ろう学校、坂戸ろう学校などは特に手話法の研究に力を入れているとされる。またこれら以外の聾学校においても、以前のように手話を禁止している所は殆ど無いような状況となっている。口話法の研究に力を入れている私立日本聾話学校においても、「教育において手話は使わないが、教育以外の場で児童・生徒が手話を使うかどうかは自由である」という立場を採っている。
ただ、日本手話だけが日本の手話であると考える立場からは、日本語対応手話や中間手話が主流である現在の手話法は、手話法ではないと攻撃されている。
[編集] その他の手話
- 潜水士が水中で信号を送るための「水中手話」もある(アクアラングを噛んでいる状態では喋ることができないため)。
- インディアンは、他の部族とコミュニケーションする時に手話を使っていた。(シャイアンを参照)
- 中世の修道院では、「沈黙の戒律」というのがあった。その間、修道士は手話や指文字で会話をしていた。雑談に夢中になりすぎたため、手話も禁止になってしまう場合があった。
- 赤ちゃんと親がコミュニケーションするための、ベビーサインと呼ばれる手話も存在している。
- CHEMISTRYのデビュー曲『PIECES OF A DREAM』でも最後のサビ部分に手話が用いられており、ファンが覚えるという影響も少なからず存在する。