野坂昭如
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野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年10月10日 - )は作家、歌手、作詞家、元参議院議員である。放送作家としての別名は阿木由紀夫、シャンソン歌手としての別名はクロード野坂。現在は脳梗塞のリハビリを続けており、『新潮45』に連載中の『女嫌い』は休載している。
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[編集] 略歴
新潟県副知事野坂相如(すけゆき)の息子として神奈川県鎌倉市に生まれ、張満谷(はりまや)家の養子として兵庫県神戸市灘区に育つ。なお、この時代の友人は現在でも当時のあだ名「ハリマン」と呼んでいる。11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が養子であることを知り、後には妹2人も別々に養子として入る。その後、上の妹を病気で、1945年の神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした。後に福井県で妹を亡くした経験を贖罪のつもりで『火垂るの墓』を記した。つまり清太のモデルが彼自身で、節子のモデルは妹ということである。17歳の時、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、旧制新潟高校に編入。なお、高校の上級生に丸谷才一がいた。
旧制高校在学中に学制改革が起き、1949年に新制新潟大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、シャンソン歌手を志して早稲田大学仏文科に入学。三木鶏郎事務所で経理として勤務するが、度々計算が合わずクビになる。その後、在学中から放送作家やCMソング作詞家として活躍し、大学は中退。
27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由紀夫の筆名でコントを量産。
1967年に『火垂るの墓』、『アメリカひじき』で直木賞受賞。その他『同心円』での吉川英治文学賞受賞、 『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞受賞、『文壇』およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。作詞家としては『おもちゃのチャチャチャ』のレコード大賞作詞賞の受賞、放送局初のPRソング『OBCソング』の作詞。
1973年2月21日、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』に掲載した『四畳半襖の下張』につき、刑法175条「猥褻文書の販売」違反に問われ、起訴される。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。
文壇界きっての犬猫好き、酒好きであり、酒に関しては『趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号』の付録『文壇酒徒番附』において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみにその他のメンバーには、東方大関三浦哲郎、池波正太郎、西方横綱梶山季之、黒岩重吾、大関吉行淳之介、瀬戸内晴美などがいる。映画監督大島渚の結婚30周年パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわし、怒った大島と掴み合いになる。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪した。 全共闘を支持し天皇制度の廃止を主張するなど強硬な左派として知られたが、一方では部落解放同盟を非難 する等の一面もあった。
[編集] 血縁・姻戚関係にある著名人たち
尚、野坂は過日、
兄野坂恒如(故人)はジャズ評論家。なお俳優伊藤雄之助(故人)は父の後妻の従弟。
[編集] 作家・野坂昭如の著書
- 『エロ事師たち』(1963) - 今村昌平によって映画化された。主演,小沢昭一
- 『火垂るの墓』(1968)文藝春秋 - 1945年の神戸を舞台に戦災孤児となった兄妹を描いた。1988年、スタジオジブリによってアニメーション映画化された。2005年、テレビドラマ化。
- 『死屍河原水子草』(1971)文藝春秋
- 『マリリン・モンロー・ノー・リターン』(1972)文藝春秋
- 『ウミガメと少年』(2001)講談社 - 30年ぶりの戦争童話集
- 『文壇』(2002)文藝春秋
- 『八月の風船』(2002)日本放送出版協会
- 『死刑長寿』(2004)文藝春秋
- 『「終戦日記」を読む』(2005)NHK出版
- 『最後の林檎』(2005)阪急コミュニケーションズ
[編集] 放送作家・野坂昭如
本邦のテレビ黎明期において放送作家として活躍していた。放送作家としての筆名は阿木由紀夫。一度だけ『シャボン玉ホリデー』の台本を書いたが、いくつかの歌の曲名と「板がズラッと並んでいる。これがホントのイタズラ」といったつまらない駄洒落を3つ4つ並べただけで全く使い物にならないため、仕方なく青島幸男が書き直したという。
放送作家として活動していた時期は、青島幸男の他、永六輔・大橋巨泉・前田武彦・野末陳平などが同業者として一斉にテレビで活躍していた。このうち、前田以外の各氏とはいずれも早稲田大学に籍を置いていた時期がある、いわば「同窓」の間柄であった。また、この時期より野坂は黒サングラスを着用していたが、同じように黒サングラスを愛用していた野末と共に「黒メガネ族」と呼ばれていた事がある。
[編集] 歌手・野坂昭如
- 作家・野坂昭如は・歌手活動もしている。歌手名はクロード野坂。『黒の舟歌』『マリリン・モンロー・ノー・リターン』が代表曲。『バージンブルース』は戸川純のカバーでも知られる。
- 永六輔・小沢昭一と中年御三家を名乗り、不定期に舞台に立っている。
- 独特のダンディズムを持った唄世界には定評があった。
- 西城秀樹の『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』が大ヒットした時、それに対抗して『YWCA』なるカバー曲を発表。しかしライブ版にもかかわらず歌詞を間違えるわ、歌を女性コーラスに任せっぱなしにするわ、本人はただ喚いているだけなどやりたい放題。後にこの歌がラジオ番組『コサキン』で紹介され、リスナーの爆笑を誘う。
[編集] アルバム
- 『躁と鬱』
- 『分裂唄草子』
など多数。
[編集] 作詞家・野坂昭如
作詞活動の実績もある。特に50年代後半から60年代前半にかけてCMソングを多く作詞した。
- 『おもちゃのチャチャチャ』(吉岡治補作・越部信義作曲)
- 『文化放送QRソング』(サウンド・ロゴ、いずみたく作曲)
- 『ラジオ大阪』(サウンド・ロゴ、いずみたく作曲)
- 『ハトヤCMソング』(いずみたく作曲)
- 『ハウス・バーモントカレーの唄』 ハウス食品「バーモントカレー」CMソング(1963年 いずみたく作曲)
[編集] タレント・野坂昭如
『EXテレビ木曜日』(よみうりテレビ)、『ビートたけしのTVタックル』、『朝まで生テレビ』(共にテレビ朝日系)などにテレビ出演。しばしば酩酊した状態で出演することもあった。 NHK『人間講座終戦日記を読む』
『オールナイトフジ』(フジテレビ)の生放送スタジオに突然乗り込んできて、同番組レギュラーで人気上昇中の若手お笑いタレントだったとんねるずらに説教をしたあげく、とんねるずのメンバー石橋貴明を軽く平手打ちしたことがある。現行風営法などが成立する以前('80年代半ば)、世相もテレビ番組もエログロナンセンスを極めていた時期であり、浮かれた若い衆に苦言を呈したかったらしい。相手が著名な文化人であり親子ほど歳の離れた野坂だけに、石橋らは黙って耐えていたのだが、後日になって野坂に「先生の得意なラグビーで決着をつけましょう」と挑戦状を叩き付けてきた。野坂は「あの時は酒に酔って調子に乗っていた。君たちのような若者とまともにやって勝てるはずもない」と上手く(?)逃げている。この辺りはとんねるずのブレーンだった秋元康の入れ知恵と言われており、双方の顔が立った状況で手打ちとなっている。
[編集] 自身が出演の有名なCM
野坂自身が出演し「(野坂)ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。二・二・ニーチェかサルトルか。みんな悩んで大きくなった。(女性 声のみ)大きいわ、大物よ(野坂)俺もお前も大物だ。」と歌うサントリーウィスキー「ゴールド」のCMが1975年頃にあった。 尚60秒枠の同CMではさらに「シェ・シェ・シェークスピアか西鶴か。ギョ・ギョ・ギョエテかシルレルか。みんな悩んで大きくなった。(以下同じ)」というフレーズが続く。なおCM最後には「とんとんとんがらしの宙返り」というフレーズが入っていた。
殺虫剤「ダニアース」のCMでは巨大な畳の被り物をかぶって「死んだ、死んだ、ダニダニダニ♪」と歌っていた。このCMはプランナーに自分から演出を提案するなど、本人の意気込みと思い入れがあったと著書に記している。なおCM中に「ダニさん、すんまへんな」と純粋な大阪弁のイントネーションで被り物をした本人が語るシーンがあり、戦前戦後と神戸・大阪に育った氏らしく、印象深い。
[編集] 政治活動
- 1974年7月 第10回参院選に東京地方区から無所属で出馬、落選。
- 1983年6月 第13回参院選に比例代表区から出馬(第二院クラブ)、初当選。
- 1983年12月 参議院議員を辞職し、第37回衆院選に田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬。落選。
- 2001年7月 第19回参院選に比例代表区から出馬(自由連合・落選)。