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軍服 (大日本帝国陸軍) - Wikipedia

軍服 (大日本帝国陸軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大日本帝国陸軍の軍服(ぐんぷく)とは、明治維新後の建軍から、陸軍が解体(陸軍省廃止は1945年)されるまでの大日本帝国陸軍の軍人が着用した制服のこと。軍服一般については軍服参照。

旧陸軍では、建軍(藩兵を解散して御親兵鎮台兵を設置する)の頃から政府として服制の統一を図るようになった。当初はフランス陸軍に範をとっていたが、普仏戦争以降はドイツ陸軍の軍服に範をとるようになった。

陸軍の服制は、「陸軍服装規則」や「陸軍服制」(明治33年9月8日勅令第364号)、昭和5年陸達第8号などによって規律されていた。

目次

[編集] 正装(将校等)

明治6年9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。将校等は、立襟ダブルボタンの半マンテルの正装を用いた。細部の改正を経つつ、この基本形は最後まで用いられることとなった。

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、将校及び同相当官は、正帽、正衣、正袴、飾帯(但し、飾帯は、佐官以上(但し、隊付及び伝令使を除く。)、会計・軍医・馬医部の佐官相当官以上及び参謀科尉官がこれを用いる。)、白手套(白手袋の意味)、下襟飾緒(参謀科及び伝令使のみ。)、正剣(正剣に代わって、軍刀を帯びるのは、将官が軍隊を率いる場合、参謀科将校が観兵式等に当りその職を奉じる場合、伝令使及び隊付の佐尉官の場合である。 )及び短靴を着用することとなっていた。

「陸軍服制」(明治33年9月8日勅令第364号)によると、一般将校の第1種帽(正帽)は、濃紺絨の地質。日章は金色直径1寸7分。目庇は革で、表が黒、裏が萌黄色。頤紐(あごひも)が黒革で幅が3分5厘、頤紐釦が直径3分であった。第1種帽には、横章が付された。上下部縫際に蛇腹組み金線小線(幅1分5厘)1条を付すほか、階級により別に金線が付された。少尉は金線小線1条とし、大佐に至るまで小線1条ずつ増えた。少将は金線大線(幅9分)1条及び小線1条とし、大将に至るまで小線1条ずつ増えた。また、頂上に五芒星が付された。正衣袖章は、金線で表され、少尉及び同相当官を1条として、大佐及び同相当官の金線6条に至るまで、1条ずつ増えてゆく。

明治45年2月24日に、明治45年2月24日勅令第10号による改正が行われた。第1種帽を正帽と改称すると共に、庇の裏が黒革(元は萌黄色)となり、顎紐の幅が3分7厘(2厘太くなる)、顎紐止め釦の直径3分5厘(5輪大きくなる)となる。

昭和13年5月31日勅令第392号による改正(1938年)では、正衣について、明治45年制式を基本とするが、各部将校の飾帯の兵科色の区別がなくなり、緋色となる。

[編集] 正装(下士卒等)

明治6年9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。下士卒にはシャコー帽が採用された。

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士及び同相当官は、正帽、正衣及び正袴を着し、前立を装し、各科所用の兵器を携帯し、乗馬の者は長靴を、徒歩の者は脚絆を着用した。但し、飾隊儀仗の整列等にあって、隊付徒歩の下士卒は、下副官及び曹長のほか、皆背嚢を負い、毛布蹄鉄状に付し、その上に外套を付着し、嚢中に定規の器具を収め、脚絆を袴下に着用した。また、工兵及び鍬兵の下士卒は毛布の代わりに各工具を付着した。また、隊外の下士は、兵科に関せず、総て軍刀を帯びた。なお、1880年(明治13年)には、官営千住製絨が操業を開始し、国産の羅紗地が用いられるようになった。

「陸軍服制」(明治33年9月8日勅令第364号)でも下士卒第1種帽のシャコー帽は維持された。兵科の下士・兵卒(輸卒及び憲兵を除く)の第1種帽は、シャコー帽であった。憲兵及び各部の下士・兵卒の第1種帽は将校のそれに近いものであった。

[編集] 礼装

明治初期にはこの分類はなかった。基本的には正装のうち幾つかの部位を除いたもの。

[編集] 通常礼装

明治初期にはこの分類はなかった。後にこの分類が採用されたが、勲章等着用を除いて軍装と大差がなかった。後に昭和13年制式(九八式・1938年・昭和13年5月31日勅令第392号による改正)で、礼装用の肩章が定められ、通常礼装時にはこれを着用する定めとなった。これはドイツ陸軍の影響が強い。[1]

[編集] 軍装

[編集] 軍装の沿革

北清事変(1900年)、日露戦争(1904年-1905年)の戦訓からカーキ色となる。
迷彩効果の向上の為、生地を帯赤茶褐から帯青茶褐へ変更した。
軍衣の袖章と軍袴の側章を除く。
  • 昭和5年(1930年)制式(昭五式)
  • 昭和9年(1934年)
軍刀サーベル型から陣太刀造りとする。
軍衣が立折襟となり、小型の階級章を襟に付し、兵科章は定色山形で右胸に着用する。略帽制定。
昭和18年10月12日勅令第774号による改正。階級章の大型化、将校軍衣への袖線章の追加等が行われるが基本的な形状に変化はない。

[編集] 明治6年制式

将校の軍衣は黒い肋骨服。

明治6年制式では、下士卒の略帽は、目庇のない形状であったが、明治8年に目庇のある形状に改正され、以後目庇のあるものが用いられ続けた。

[編集] 明治12年-

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、将校及び同相当官は、軍装に際しては、軍帽(第2種帽と考えられる)、軍衣、軍袴、白手套、下襟(襟カラー)、飾緒(参謀官及び伝令使のみ)及び軍刀を着用した。

但し、軍袴については、乗馬には短袴を用いた。また、隊付徒歩の士官は、戦時出征の場合及び平時であっても衛兵勤務及び行軍野営演習等の場合には、背嚢を負い、外套を背嚢上に付着し、脚絆を着用した。また、会計・軍医・馬医部の将校相当官は、軍装にあっても軍刀に代えて正剣を帯びた。

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士卒及び同相当官の軍装は、同時期の正装に同じであり、次の点のみ異なっていた。

  • シャコー帽に前立を装着しないこと。
  • 徒歩の下士卒は、脚絆を袴下ではなく袴上に着用し、予備靴を背嚢の両側に付し、食器(飯盒)を嚢の外部中央に付着し、飲器(水筒)を携帯したこと。

[編集] 明治19年制式

明治19年制式は、1886年7月6日に定められた(将校分は明治19年7月6日勅令第48号による)。それまでのフランス型からドイツ型への大きな転換となった。第2種帽や軍衣の地質は、将校等は濃紺絨、下副官以下は紺絨であった。

将校等の第2種帽横章及び袴の側章の地質
区分 第2種帽横章 袴側章
将官・同相当官 緋絨 濃紺絨 緋絨
憲兵佐尉官・憲兵下副官 第2種帽なし 藍絨 緋絨
歩兵佐尉官(除近衛隊) 黄絨 濃紺絨 緋絨
砲兵佐尉官(除近衛隊)・砲兵上等監護 黄絨 濃紺絨 黄絨
工兵佐尉官(除近衛隊)・工兵上等監護 黄絨 濃紺絨 鳶絨
輜重兵佐尉官(除近衛隊) 黄絨 濃紺絨 藍絨
屯田兵佐尉官・下副官 黄絨 藍霜降絨 緋絨
騎兵佐尉官・下副官(除近衛隊) 黄絨 茜絨 萌黄絨
監督部・軍吏部の将校相当官 花色藍絨 濃紺絨 花色藍絨
衛生部の将校相当官 深緑絨 濃紺絨 深緑絨
歩兵下副官(除近衛隊) 黄絨 紺絨 緋絨
砲兵下副官(除近衛隊) 黄絨 紺絨 黄絨
工兵下副官(除近衛隊) 黄絨 紺絨 鳶絨
輜重兵下副官(除近衛隊) 黄絨 紺絨 藍絨
近衛隊 緋絨 一般に同じ 一般に同じ

[編集] 第2種帽

将校等第2種帽の星章(帽章)は金色で中心より尖頭に至るまで5分。眼庇は黒革、下部の高さは1寸7分強で、幅1分5厘の頂端線は喰い出しに付した。横章(鉢巻部分)について、将官及び将官相当官(監督長・軍医総監)は幅1分の濃紺線3条が入るような形状であった(規定では、横章は「大線幅六分」・「小線幅一分」・「大線小線各二条其ノ線ノ間隙ハ各一分」とされていて、横章の数を本に規定されていた。以下同じ。)。各兵科佐官及び同相当官は濃紺線2条、各兵科尉官及び同相当官は濃紺線1条であった。上等監護及び下副官以下は濃紺線が入らない状態である。

[編集] 軍衣

下士卒軍衣は、黒色の立襟ボタン留めの短上衣で、上衣の襟に識別色が付き、肩章には所属の連隊番号が付され、階級は袖の線により表示される。冬服は紺絨。

[編集]

「袴」とは長ズボンを指し、乗馬ズボンは別に「短袴」として規定されていた。袴の側章について、将官及び同相当官は幅1寸1分の大線2条及び幅1分の小線1条を付した。佐尉官は大線幅1寸3分の大線1条を付した。もっとも、騎兵佐尉官の「袴」は、短袴型であった。

[編集] 明治26年制式

[編集] 明治26年制式概要

明治26年制式は、将校・准士官・下副官の、夏衣のみの改正で他の服装については改正はない(明治26年4月22日勅令第25号)。これは明治33年制式でも継続された。将校等夏衣は白立襟5つボタン。ポケットは左胸と左右腰部に蓋なしのものが付された。階級は袖章で区別したが、将佐尉官は桜の数で、大中少はその上部に付された線の数で判別した。

その後、特務曹長及び監視区長が設けられたことに伴い、「陸軍各兵特務曹長及監視区長服制ノ件」(明治27年7月16日勅令第110号)が制定される。陸軍各兵特務曹長及び監視区長の服制は、各々その兵科の下副官と同じとされた。

[編集] 戦地服(北清事変)

1900年(明治33年)に起きた北清事変では、白い軍服に代わってカーキ色の軍服が現地部隊に限って貸与された。

[編集] 垂布(在台湾陸軍軍人)

明治32年7月7日に制定された「在台湾陸軍軍人ノ日覆ニ白布ヲ垂下ス」(明治32年7月7日勅令)により、在台湾の陸軍軍人は夏季日覆いの後方に白布3条を垂下することが認められた。これは炎熱の地に服務することから日射から後頭部を保護する目的で定められた特則である。

[編集] 明治33年制式

明治35年(1902年)当時の下士卒の外套姿。
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明治35年(1902年)当時の下士卒の外套姿。
この頃の伏見宮貞愛親王。
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この頃の伏見宮貞愛親王

明治33年制式は、明治33年9月8日に制定された「陸軍服制」(明治33年9月8日勅令第364号)に基くものである。従来の陸軍将校服制及び陸軍下士以下服制等が統合されて一つの勅令となった。

[編集] 第2種帽

将校等第2種帽は明治19年制式から殆ど変更はなかった。ただ、監督部横章が銀茶絨(明治19年は軍吏部と共に花色藍絨であった。)に変更された程度であった。

将校等の第2種帽は、濃紺絨で、星章は金色で、横章が官によって異なった。下士卒第2種帽は、色が紺絨と薄くなり、星章が真鍮である点などが異なっていた。大線は幅1寸5分であった。

[編集]

将校等の衣(冬用を指す)は、肋骨服(騎兵を除き胸章は、角打黒毛糸組で直径2分、胸部左右各5個。)であった。物入れは腰部左右に各1個。正衣同様の袖章によって階級を区別した。

下士卒衣(騎兵・軍楽部除く)は紺絨立襟5つボタン。物入れは、左胸裏面に1個付された。工兵のみ右胸部にも付された。襟章・肩章の色によって、近衛部隊や兵科を区別した。階級は袖章で区別した。

騎兵を除く各兵兵卒の袖章について、黄絨小線幅2分は、上等兵は3条、1等卒は2条、2等卒は1条。袖口より2寸上り、表半面に付着し、各間隙は1分である。騎兵を除く各兵下士の袖章について、平織り金線幅2分・黄絨大線幅8分各1条は共通である。黄絨小線幅2分は、曹長・1等工長は3条、軍曹・2等工長は2条、伍長・3等工長は1条。

[編集] 夏衣

将校等夏衣は明治26年制式夏衣に同じ。夏衣袖章は将佐尉を星章の数で、その上の線の数で大中少を表した。

下士卒夏衣は白立襟ホック留め。袖章は衣とは異なり山形。

[編集] 明治37年戦時服

乃木大将は通常の軍衣。右端の将校が着用している戦時服は、胸ポケットがなく、袖章(星章3つは将官)があることから明治37年戦時服(茶褐色夏衣袴)であると思われる。手前の日本軍将校の帽子は比較的後世の形に近い。(1905年(明治38年)1月5日)
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乃木大将は通常の軍衣。右端の将校が着用している戦時服は、胸ポケットがなく、袖章(星章3つは将官)があることから明治37年戦時服(茶褐色夏衣袴)であると思われる。手前の日本軍将校の帽子は比較的後世の形に近い。(1905年(明治38年)1月5日)

日露戦争1904年(明治37年)2月10日宣戦布告、1905年(明治38)9月1日休戦成立。)に際しては、戦時服が「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年2月10日勅令第29号)、その後「陸軍戦時服服制」(明治38年7月11日勅令第196号)により定められた。

「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年2月10日勅令第29号)では、将校・同相当官・准士官の軍衣を夏衣同様の製式で作成することを認めた。もっとも、夏衣のままの白色では目立つため、濃紺・紺絨の地質で、袖章も黒色とした。釦の数は5個又は6個と幅を持たせた。また、将校以下の、夏衣、夏袴、日覆い、垂布は、茶褐色とすることを認めた。

[編集] 明治38年戦時服

「陸軍戦時服服制」(明治38年7月11日勅令第196号)では、45式軍衣に類似した服制が定められた。後年の軍帽と同様の形式のものが第二種帽として制定される。将校相当官の帽用星章と頤紐釦(顎紐を留めボタン)は銀色。

襟部に、襟章(兵科定色の布)及び襟部徽章(隊附はアラビア数字、後備隊附はローマ数字、国民軍附は右側にローマ数字で左側にアラビア数字。)を着用した。

[編集] 明治39年制式

明治39年4月12日勅令第71号により、「陸軍戦時服服制」は「陸軍軍服服制」と改められる。明治39年4月12日勅令第72号により、陸軍軍服服制にいう第2種帽、衣、袴、外套等の地質は、下士卒等にあっては当分の間、濃紺絨を以て茶褐絨に代用することが許された。これは、大量の濃紺絨の生地が余ってしまったことからこれを費消するための過渡的措置であった。

ここに、日本陸軍の軍装は従来の濃紺色・紺色から茶褐色へと色彩面で極めて特徴的な転換が行われ、この茶褐色の軍装は陸軍解体まで使用され続けることとなった。

[編集] 明治45年制式

[編集] 明治45年

明治45年制式(四五式)は、明治45年勅令第10号による改正によるものである。「陸軍戦時服服制」(明治38年7月11日勅令第196号)をほぼ採用している。軍衣に鍬形の襟章が制定される。将校用の鏑袖は4寸(約12センチメートル)。各兵科下士兵卒のボタンは赤銅、各部下士兵卒は白銅とされる。

この軍装が使用された戦争は次の通りである。

[編集] 軍帽

軍帽の地質は茶褐絨。鉢巻及び天井喰出は緋絨。天井喰出の下部において、左右両側に鳩目打小孔各2個を付す。鳩目打は金色金属。

[編集] 軍衣

軍衣の地質は茶褐絨。襟章は兵科の定色絨(兵科区分のない将官にはなし)。背中は1枚の生地からできている。

物入れは、将校の場合、左右各2個(胸部のものには蓋付き、腰部のものには蓋無し。)。下士兵卒の場合は、左右胸部に各1個(蓋付き)。

釦は、兵科将校は金色金属、各部将校相当官は銀色金属、兵科下士兵卒は赤銅、各部下士兵卒は白銅。

袖章は、将校は緋絨で、下士卒は蛇腹組緋毛糸。鏑の全周に、喰出しに付す。

着脱式の肩章の地質は緋絨。線章・星章は、兵科将校・下士は金色、各部将校相当官・下士は銀色。兵科兵卒の星章は黄絨、各部兵卒の星章は白絨

下士兵卒の軍衣には、左脇下に、表が茶褐絨、裏が褐色麻製の剣留め1個を付した。

襟部徽章は、歩兵・騎兵・野砲兵・工兵・輜重兵隊附は、それぞれの連隊又は大隊の番号をアラビア数字で、台湾歩兵隊附は右に桜で左にアラビア数字、臨時朝鮮派遣歩兵連隊中隊附は右に日章と中隊番号を左に連隊番号を、独立守備大隊附は右に特別章を左に大隊番号を付すなどした。

[編集] 夏衣

将校同相当官の夏衣は、地質が茶褐布又は茶褐薄毛織りである点を除き、将校同相当官軍衣に同じ。但し、袖章は付さない。

下士兵卒の夏衣は、地質が茶褐布である点を除き、下士兵卒軍衣に同じ。但し、袖章は付さない。

[編集]

将校・同相当官には、茶褐絨の「長袴」・「短袴」及び茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏長袴」・「夏短袴」が規定されていた。

下士兵卒には、「軍袴」・「夏袴」のみが規定されていた。騎兵科・軍楽部を除く各兵科各部下士兵卒のそれはストレートズボン型、騎兵科下士兵卒のそれは乗馬ズボン型であった。

[編集] 将官・同相当官

将官・同相当官には、次の特則があった。

  • 通常の茶褐絨の「軍帽」以外に「紺絨帽」が規定されていた。
  • 通常の茶褐絨の「軍衣」以外に「紺絨衣」が規定されていた。
  • 通常の茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏衣」以外に「白夏衣」が規定されていた。
  • 通常の茶褐絨の「長袴」・「短袴」及び茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏長袴」・「夏短袴」以外に「白長袴」・「白短袴」が規定されていた。

[編集] 大正7年

大正7年5月4日付陸軍省副官「衣袴及外套仕様改正ノ件陸軍一般ヘ通牒」(陸普第1462号)によると、大正7年度支給の下士卒への衣袴及び外套から新様式のものが給与されるようになり、それに「改四五式」の捺印がされた。これは、軍縮時代で必要とする募兵数が減少したことから、徴兵検査の基準が高くなり、体格の良い兵卒が増加したため、寸法を全体的に見直した改正である。この段階では、外見上、四五式と改四五式との差は実際には全く無かった。

[編集] 大正9年

大正9年5月28日陸達第38号により、夏衣袴の「茶褐布」を自今染色の分から帯赤茶褐から帯青茶褐に改正した。理由としては次の点がある。

  1. 帯青茶褐の方が保護色として優れている。
  2. 帯赤茶褐は汚損が目立ちやすい。
  3. 帯青茶褐の方が色相として高尚である。
  4. 染料輸入上好都合である。
  5. 経費は若干上がるが、被服費予算内に収まる。

[編集] 大正11年

大正11年9月26日勅令第415号によって、大正11年9月26日に改正された。この改正では、戦闘で目立つ為、軍衣(羅紗製冬用)の袖と軍袴の外側縫い目に入っていた側章(将校緋羅紗玉縁縫込み、下士官兵蛇腹織緋線、パイピングともいう。)を除いた。一般に、改45式で緋線が廃止されたと言われるのはこの改正を指している。

[編集] 昭和5年

昭和5年(1930年)制式(所謂「昭和五式」)は陸軍服制中改正(昭和5年4月10日勅令第74号)による改正に基づくものである。ここでは尺貫法からメートル法に採寸を改める。

下士官及び兵卒の軍衣について、生地節約のため背中の裁断が二枚はぎになる。機能性のため、腰部に物入れ(ポケット)がつく。下士官兵の軍衣は着丈がやや短くなり、裏地が七分裏になる。生地も繊維が太くざらざらしたものになり質が落ちる。全体的に事変に対する大量動員を見越した、節約・省略型の改修と言える。

他方、将校服では、襟を高く、兵科襟章の形も凝り、着丈は短く、生地は濃緑や茶褐のものが流行する。軍帽もチェコ式(天の前の方を高くする形状)やクラッシュ型(天の中部をへこます形状)と言った大型で派手なものが流行した。それまで質や外見で将校と下士官兵に大差は無かったが、この青年将校文化が華やかなりし頃は、外国軍の要素(ナチスドイツの軍装の影響を強く受けたと言われている。もっとも、立襟から折襟への変更は世界的な流れでありそれを受けたものともいいうる。)を取り入れ、明らかに将校と解る自己主張を持った軍装が現れた。帝国陸軍が最も力を持っていた時代である。

外套については、生地節約のため、シングルになるが腰部は帯革留鉤式のまま。夏外套は剣留式である。

この軍装が使用された戦争は次の通りである。

  • 満州事変(1931年(昭和6年)9月18日-1933年(昭和8年)5月)
  • 支那事変初期(1937年(昭和12年)-)

[編集] 昭和13年制式

胴締めを着用した参謀。竹田宮恒徳王。
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胴締めを着用した参謀。竹田宮恒徳王
非常に特徴的な日本陸軍の略帽。
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非常に特徴的な日本陸軍の略帽。

昭和13年(1938年)制式(所謂「九八式」)とは、陸軍服制改正(昭和13年5月31日勅令第392号)による改正に基づくものである。第二次世界大戦に入ると、主要各国が戦闘服と勤務服を別に採用(ドイツにおいては迷彩服も採用)し始めていたのに対し、日本陸軍はこれに追随することはなかった。

[編集] 上衣

[編集] 襟部分

将校軍衣は立折襟だが、下士官兵軍衣は開襟式立折襟。将校は、体格に応じて襟ホックは1又は2とすることが許された。折襟への移行については、同様な軍装を採用していたドイツ軍への傾倒によるものという説、当時交戦していた中華民国軍(ドイツとの軍事協力により、ドイツ軍に倣って採用していた。)の影響と見る説などがある。

[編集] 胸章

兵科は定色山形(M字型)で右胸に着用した胸章により区別した。将校の胸章は線の幅は5ミリメートル、全幅は39ミリメートルとされた。下士官兵の場合は、将校のそれに幅3ミリメートルの台地が全周に付された。

昭和15年(1940年)に昭和15年年8月1日陸達第33号及び昭和15年勅令第585号による改正が行われる。そこでは、兵科章が廃止される。達の時点では憲兵を除く各兵科の胸章が廃止されることとなっていたが(各部は存続)、勅令では憲兵を含めて兵科の胸章が廃止される。これは、防諜の為と言うよりは、戦時において連隊ではなく師団単位の運用が主となる為、また機械化や航空化で職種も多様になったため兵科区分を廃した為である。

[編集] 襟章

階級章は襟章となる。縦が18ミリメートル、横が40ミリメートル。下士官兵は長方形、士官は平行四辺形とされた。

[編集] 脇裂(将校)

勅令中には、将校軍衣の脇裂についての定めがある。右脇裂は実際には裂かない。左脇裂は裂け目の裏面の下端に釦を付して開閉できるようにした。長さは腕骨上端より下ること210ミリメートルが基準とされた。

[編集] 肩章(下士官兵)

下士官兵用の着脱式の肩章(横長)が制定された。肩章は、冬衣の地質に同じで、星章及び釦は金色金属、下士官の線章は平織黄絹線又は金線。

肩章は、長辺が12センチメートル、短辺を5センチメートルとし、襟側1.5センチメートルの位置に釦(金色金属)を付すと共に狭まり、最短辺は2.7センチメートルである。

下士官は、肩端に平織黄絹線又は金線の線章を付す。曹長・上等兵は星章3個、軍曹・1等兵は星章2個、伍長・2等兵は星章1個(伍長・2等兵は肩端から5センチメートルの位置に星章1個を付す)を付す。

[編集] 上衣細部
  • 軍衣の釦は赤銅から金色金属へ変わる。
  • 下士官兵の冬衣は前身頃は総裏地に戻った。下士官兵は冬衣では両脇下に襠を付した。下士官兵の夏衣では襠の代わりに通気孔を設けた。

[編集] 略帽

鉄帽の下に被ることができる略帽(通称は戦闘帽)が制式になり、軍帽は儀礼・外出時にのみ用いるようになる。

目庇は45ミリメートル、一般の者は横幅26ミリメートルの星章(台地について規定はない)、近衛の称呼を冠する近衛師団の軍隊に属する者は星章の周囲を桜葉が囲む形状で横幅50ミリメートル、縦38ミリメートルの帽章を付した。

[編集]

将校用には、冬長袴・冬短袴・夏長袴・夏短袴が規定されていた。一方、下士官兵にあっては、袴については、それまで徒歩部隊と乗馬部隊で長袴(スラックス型)と短袴(乗馬ズボン型)を振り分けて支給していたが、下士官兵は短袴に統一され、徒歩兵種でも外出時は短袴にゲートルとなった。

[編集] その他細部

  • 軍刀について、第二佩環を廃止。正装時も第一佩環のみで佩く。
  • 外套に帯革留鉤が無くなり通常の剣留になる。

この軍装が使用された戦争は次の通りである。

[編集] 昭和18年制式

三式の陸軍大将(東条英機)。立折襟軍服であるが、青年将校が好んだ襟の開きが小さく立襟に近い仕立て。
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三式の陸軍大将(東条英機)。立折襟軍服であるが、青年将校が好んだ襟の開きが小さく立襟に近い仕立て。

[編集] 改正の趣旨

昭和18年制式(所謂「三式」)昭和18年10月12日勅令第774号による改正に基づくものである。三式の改正点は、戦況逼迫による軍服の簡略化と、秩序を維持するための階級の明示化である。階級の明示化としては、階級章の大型化や、将校軍衣及び外套への袖章の追加がある。

陸軍予備士官学校出身者など速成の将校には既製服が普及した。釦は金塗装の鉄製でのっぺりしたものとなる。鏑袖(折り返し)の省略、袴は膨らみがしぼみ、鉤ホックやバンド通しの省略、裾開の釦は3つに減る等の省略版が多く見受けられる。下士官兵用は生産・整備を容易にするため大中小の3サイズでの生産とした。一連の流れによる質の低下は続いていたが、三式として、本質的な差異はない。

この軍装が使用された戦争は次の通りである。

  • 支那事変後半(1937年(昭和12年)-1945年(昭和20年))
  • 太平洋戦争後半(1941年(昭和16年)12月8日-1945年(昭和20年))

[編集] 襟章

98式軍衣では襟章について、階級による大きさに差異はなかったが(縦が18ミリメートル、横が40ミリメートル。)、3式では大きさ自体を階級により差別化した。まず、将校の場合、横が45ミリメートルと大きくなった。縦は、将官では30ミリメートル、佐官では25ミリメートル、尉官では20ミリメートルとされた。

下士官の場合、長方形となる外は大きさは尉官に同じ。兵の場合、縦が18ミリメートルで、横が40ミリメートルと、従来の98式の襟章と同じである。

星章の並びについて、98式軍衣以前は45式軍衣等を含め、星章が中央に来るように並べていたが、昇級の度に階級章全体を買い替えねばならなかった。そこで、海軍のように、昇級しても星章を付け足すことができるように、端から順番に星章を埋めるように改正された。

[編集] 袖章

准士官以上の冬衣、夏衣及び外套に袖章が制定された。袖章は、線章と星章とからなっていた。線章は濃茶褐織紐で、全周に付された。星章は、金線繍、黄絹繍又は黄絨で、茶褐絨の台地が付された。将佐尉は線章の数(1~3本)で、大中少は星章の数(1~3個)で表した。

[編集] その他細部

  • アルマイト製の隊長章が制定される。
  • 胸章を勅令中からも正式に除き、代わりに各部に属する者のために「識別章」を設けた。これを襟章の下部に付することとした。
  • 夏衣の両脇下に通気孔を設けることが認められた。

[編集] 戦時特例

[編集] 昭和19年特例

昭和19年(1944年)12月1日に大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例が制定される。軍衣袴、外套、略帽、編上靴、雑嚢、水筒、銃剣等が省略化される。背嚢を生産中止にして、一部兵科用だった背負い袋を主力とする。特例の軍装品は増産に拍車がかけられたが、実際には相当温存された。しかし僅かに着用が確認されている。

[編集] 昭和20年特例

大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例中改正(昭和20年6月22日勅令第384号)により同特例が大東亜戦争陸軍軍人服制特例に改められ、軍衣袴の代わりに国民服を使用する事も可能となった。また、近衛部隊は、禁闕守衛勤務に服する場合を除き、桜葉で囲まれた近衛兵の星章に代えて一般の星章を用いることができるようになる。

[編集] 軍楽部

軍楽部徽章が制定される。
軍楽部軍衣:濃紺絨、襟は緋絨、紺青絨兵科襟章、紺青絨の袖章の下に緋絨のフラップが付く。軍袴は緋絨に紺青絨の側章が付く。

[編集] 防暑衣略装など

  • 昭和13年6月1日陸達第31号により、防暑衣を折襟兼用立折襟から開襟式立折襟に改めた。また、茶褐色の帽垂布が定められた。

[編集] 天皇の軍服

大元帥としての天皇の軍服は陸海軍の服装令ではなく「天皇ノ御服ニ関スル件」(大正2年皇室令第9号)によって定められていた。基本的には一般の陸海軍将官と変わらないが、襟章が通常のものよりも長さが若干長く、大将を示す3つの星章(海軍では桜花章)のほかにひとまわり大きい菊花章がついていた。

海軍の第一種軍装および正装・礼装では将官を示す袖章の線が、一般の大将は太線2本に中線3本であるのに対し中線が4本あった。海軍の式典に参加する場合には当然、海軍の軍服を着用したが、通常は陸軍の軍服を着用する場合が多かった。

昭和20年の終戦後、陸海軍廃止が定まったことから、従来の陸軍式御服及び海軍式御服に代って、(詰め襟タイプの)新しい天皇御服が制定された。昭和20年11月8日に新御服を召して伊勢神宮に参拝する。

[編集] 関連項目

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