興安丸
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興安丸(こうあんまる Kouan maru)は鉄道省が関釜連絡船の金剛丸型の第2船として建造し、第二次世界大戦前から戦後高度成長期にかけて関釜連絡船、引き揚げ船、イスラム教巡礼船として使用された昭和を代表する船。
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[編集] 命名の由来
中国東北部に連なる興安嶺山脈の名をとり命名された。
[編集] 要目(1936年)
- 総トン数:7,079t
- 全長:124.1m
- 全幅:17.4m
- 速度:23.1kt
- 機関:ボイラー8缶/蒸気タービン2基、2軸
- 出力:17,645馬力
- 乗客定員:1,746名
- 貨物積載量:3,174t
[編集] 航跡
[編集] 姉妹船
鉄道省関釜連絡船は山陽鉄道時代の1903年9月11日開設され、1904年12月鉄道国有化とともに鉄道院に引き継がれた。日本とアジア大陸を結ぶ幹線であるから、年をおうごとに乗客・貨物は増加していき、景福丸、徳寿丸、昌慶丸を建造して就航させていたが、とくに1932年の「満州国」の設立でさらに輸送力の増強が必要となり、2隻の姉妹船が計画された。 第1船は1936年10月三菱重工業長崎造船所で建造され朝鮮半島の名山金剛山の名をとって金剛丸と命名された。第2船が1937年1月に建造された興安丸であり、この2隻は従来の海峡渡船型でなく、巡洋艦を意識して船首は軽く傾斜し、上部は美しい曲線で前面にわん曲し、船尾はきゃしゃな型となっている。 速力は、これまでの日本商船の最高記録23ノット超を示し、従来8時間を要した関釜夜行便を7時間に短縮した。両船の就航で関釜間の旅客は、1937年に100万人を超え、1942年には実に300万人を超える激増ぶりであった。
[編集] 世界初
金剛丸型は世界最初に船内で使用する電力をすべて交流化し、冷暖房を完備したことが特記される。この結果発電機は従来の直流発電機の70%程度の容積・重量で済んだほか、既製の電機機器を利用してイニシャルコストを低減し、桟橋に係留中は陸上の電力を使用してランニングコストの低減を図った。また冷暖房は湿度をも調節するキャリア式冷房機を採用し、全室に備えて旅客も乗組員も四季を通じて快適に航海できた。 客室は、1等が遊歩甲板、2等が次の船橋楼甲板、3等がその下の上甲板と第2甲板になっていた。金剛丸がモダンな中に朝鮮様式を踏まえた装飾を施されたのに対し、興安丸は日本、中国の様式を取り入れ、ロビーには南満州鉄道から寄贈された興安嶺の油絵を飾った。 この両船は一度に乗降する連絡船であり、かつ夜航専用船であることを考えて、各種の公室はあえて備えず、部屋の利用を多くするとともに乗降船時の雑踏を緩和し、また税関・検疫などの受検所として出入口に広く明るい大ホールを設けた。このホールは税関と検疫が済むと3等客にも談話室、喫煙室あるいは、娯楽室として開放し、鉄道案内所、食堂及びスタンド式売店を隣接させた。
[編集] 連絡船
興安丸は1937年1月31日に処女航海を迎えたが、関釜連絡船は日本軍や満蒙開拓団などを乗せて大混雑になり、引き続いて天山丸、崑崙丸が建造されたが軍艦の建造のしわ寄せを受けて完成は大幅に遅れた。 その後も関釜連絡船は中国へ向かう人、朝鮮から日本に徴用される人を乗せて混雑を極め、興安丸の定員は2,023名に増員された。さらに日本近海で商船が沈められる被害が相次いだため、関釜連絡船にはいっそう負担がかかることとなった。
[編集] 温存
1943年10月崑崙丸がアメリカ潜水艦に襲われ撃沈されたが、この潜水艦は戻らず当分の間関釜連絡船に対する攻撃は行われなかった。しかし1945年3月アメリカ軍が対馬海峡に機雷を投下し、4月1日興安丸が被害を受けた。その後対馬海峡では相次いで連絡船や艦船が被害にあい、興安丸は根拠地を福岡市博多港に、その後山口県長門市仙崎へと移した。 1945年6月20日興安丸は天山丸とともに京都府舞鶴市-江原道元山航路に配船されたが日本海の戦況は極めて悪く、興安丸の船長は船を温存する決断を下した。関釜連絡船10隻のうち航路閉鎖前に沈められたのは3隻、6月20日以降に沈められた船は3隻、温存されたのは興安丸を含めて4隻に過ぎなかった。
[編集] 引揚
敗戦後、興安丸は1945年9月~1947年4月に仙崎・博多-釜山間に就航し、海外邦人の引き揚げ、在日コリアンの帰国輸送などに当たる。引き揚げ者が上陸した仙崎漁港には、跡地の記念碑がいまも残り、記念碑には興安丸の活躍が記されている。1947年12月下関市で天皇全国巡幸時の御宿泊所とされた。1948年4月関釜連絡船は公式に閉鎖された。 1950年3月朝鮮郵船(後の東京郵船→昭和郵船)に国家賠償に伴う補償として払下げ、1950年7月~1953年4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市-釜山の国連軍輸送に就航した。 1953年~1957年には政府の傭船により中国河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。
[編集] 巡礼
海上自衛隊は草創期から航空母艦の保有を志向し、大型商船改装の候補として興安丸も検討されたが、構想のみに終わった。結局1957年横井英樹の東洋郵船に売却され、1958年には東京湾遊覧船となったが、1959年~1967年にはインドネシア ジャカルタ-サウジアラビア ジッダのイスラム教巡礼船、インドネシア国内航路に転用され、この間1959年には北ベトナム(現ベトナム)ハノイ-東京間の引揚げにも従事した。 1970年11月広島県三原市で解体されて34年の生涯を終えた。きわめて強い保存運動があったが実現せず、錨の1つは三原市の内港東公園に、錨のもう1つとコンパスは下関市の火の山公園に、鐘が東京の交通博物館に保存されている。
[編集] 参考文献
- 興安丸33年の航跡 森下研著 新潮社
- 鉄道連絡船100年の航跡 古川達郎著 成山堂書店