在日コリアン
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在日コリアンは、日本に住む朝鮮民族。狭義においては朝鮮籍あるいは韓国籍を持ち日本に永住する人々のみを指し、日本国籍を取得して朝鮮系日本人(帰化日本人)となった者は含まない。広義には韓国との国交樹立後、特に近年来日した韓国人や、日本国籍を取得した者も含む(この場合日本籍コリアンと呼ぶことがある)場合がある。広義の在日コリアンと狭義の在日コリアンを区別するために、近年来日した人をニューカマー、狭義の在日コリアンをオールドカマーと呼び分けることもある。
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在日コリアンの呼称
在日コリアンは、在日韓国人(재일 한국인)や在日朝鮮人(재일 조선인)とも呼ばれるが、名前に関する南北の争いを避けるために英語を借用して在日コリアンと呼ばれることが最近増えている。在日とだけ表現する場合は在日外国人一般ではなく在日コリアンを指すことが多い。
韓国、北朝鮮においては、一般的に「在日僑胞」(チェイルキョッポ、재일 교포)または「在日同胞」(チェイルドンポ、재일 동포)と呼ばれ、略して「キョッポ、トンポ」と呼ばれることもある。
在日コリアンの歴史
日韓併合
在日コリアンが生まれた経緯は日韓併合にさかのぼる。詳細は日韓併合を参照。
在日コリアン移入の背景
注:ここで述べる背景・経緯は、狭義の在日コリアンに関するものである。
在日コリアンが日本に移入してきたのは「戦時下の日本政府による徴用/強制連行」によるものと語られることが多かった。そのため、同様の認識が漠然としたイメージのまま広く流布していた。しかし、少なくとも敗戦から現在まで継続して日本に在住する「在日コリアン」に関するかぎりでは、自ら渡航した者とその子孫、戦後の密入国者とその子孫が多くを占めると言われている。
日本に移入した在日コリアンの多くは、朝鮮半島の日本統治と、それにともなう近代化・工業化によって引き起こされた経済的困窮に苦しんだ(GDPの増加を理由に困窮化がなかったとする見解もある)ため、また日本との経済格差が誘引となって、日本へ渡航したと思われる。日本渡航の誘引として朝鮮半島特有の地域差別・身分差別の存在を指摘する声もあるが、いずれの理由も経済的困窮と密接な相互関係にあることに留意したい。
1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとされている。このうちの多くが日本敗戦直前の数年間に渡航したものと思われる。この時期は「徴用/強制連行」が激増した時期でもあるため、朝鮮人の急激な増加と日本による徴用との間に因果関係が疑われている(1974年の法務省編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった)。
戦前の在日コリアン
日韓併合と前後して朝鮮人全般が日本人による差別・蔑視の対象とされてきた。日韓併合以降の朝鮮統治は紆余曲折を経た。
日本政府は、法制度の上では、日本人と海外領土(外地)出身者をほぼ同等に扱った(一視同仁)。朝鮮人は旧来の日本国民(内地人)とは別個の法的身分に編入されたものの、日本国民としての完全な公民権(選挙権、被選挙権、公務就任権など)を享有し、民族的出自によって差別的な不利益処分を受けることは原則としてなかった。朝鮮出身者の中にも、日本国民として公官庁に勤務したり、帝国議会や、地方議会で議員として活躍した者が相当数存在した。
しかし、朝鮮出身者が併合から、差別・蔑視の対象にされていたことは疑い得ない。被支配者である朝鮮人に対して軽蔑感情を抱いていたことはさまざまなメディア表現にあらわれている。
関東大震災の際には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」との流言蜚語により、無数の朝鮮半島出身者が「不逞鮮人」とされて、自称「自警団」に虐殺される事件が起きた。虐殺による死者は一説によれば6000人ともされる。この流言・飛語は内務省が発し在京新聞各社が報じたものであった。
戦後の在日コリアン
戦後の大きな朝鮮人の日本移入の最初のものとしては、1948年の済州島四・三事件に起因したものがある。これが原因で日本人からの「密航者が多い」との主張に結びつけられることもある。
1952年の日本国との平和条約の発効により、在日コリアンは日本国籍を喪失することになる。国籍を失ったことで就職が困難になり、多くが高い失業率と貧困に喘ぎ、3K職場や水商売につく者も少なくなかった。指定暴力団会津小鉄会四代目会長・高山登久太郎は、朝日新聞社『論座』(1996年9月号11頁)でのインタビューの中で、「ヤクザの世界に占める在日コリアンは三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」という内容のことを答えている。また、差別と貧困により生活保護を受けているケースも少なくない。
帰国運動
戦前・戦中とも、在日コリアンの多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活してきた。そのため日本語を話すことができず、日本で生活していく基盤は脆弱であった。「大部分の人々は終戦後早々に故郷へ帰ってしまったとしても不思議はなかった」はずであるが、一部の在日コリアンが敗戦後も日本に定住するに至ったのには、いくつかの要因が挙げられる。
- 裸一貫で来日し、帰国しようにも渡航費用を用立てられない人々が多かった
- 1947年までつづいた日本国外への財産持ち出し制限が影響した
- 朝鮮戦争による南北分断の混乱が影響した
- ある程度の期間、日本で生活をつづけていた人々は、帰ろうにも故郷に生活基盤が残っていなかった
- 韓国政府が社会的な混乱のため帰国事業を放棄してしまったことが影響した
- これを指して韓国政府による「棄民政策」であったという批判がある
一方では、GHQから日本に対して「全員帰国を達成せよ」という指令があったとされ、希望者に帰国のための船便を提供するなどの働きかけがあったと言われている。他方で「帰国の船便が確保できなかった/当初より帰国船便は確保されていなかったと」の証言・指摘も多く、日本およびGHQの施策を批判する論拠とされることがある。しかし、当時の実態についてはまだ不明な点が多い。
戦後、在日コリアンの帰国運動が盛り上がったのは、1958年の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。これには北朝鮮、日本、在日コリアンそれぞれに三者三様の思惑があった。「千里馬運動」を掲げて多数の労働者を必要とした北朝鮮政府と、当時生活保護受給者の半数を占めていた「在日問題」を解決したい日本政府、さらには極貧の日本生活を抜け出したい在日コリアンにとってそれぞれの思惑が一致した現象であると見ることができる。
このとき帰国運動に参加した在日コリアンのほとんどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であった。しかしこのころ韓国は朝鮮戦争による荒廃から立ちなおっておらず、とても帰国者を受け入れる態勢はとれなかった。このこともまた韓国政府の「棄民政策」であったとして後に批判されている。
日本の在日コリアン団体である在日本朝鮮人総連合会は北朝鮮政府の指示の下、在日コリアンの「地上の楽園」北朝鮮への帰国を強力に勧誘・説得する活動を展開した。日本の新聞各社、また民間の研究機関「現代コリア研究所」(旧・日本朝鮮研究所、代表・佐藤勝巳)もこれに同調した。就職差別・他の在日コリアンをとりまく差別に対して何ら対応をとらず、生活保護費の工面に苦慮していた日本政府はこの誇大広告をむしろ歓迎したようである。当時の総理大臣・岸信介は国会答弁で帰国運動の「人道性」を訴えている。
しかし、大多数にとって出身地(故郷)ではない北朝鮮へ「帰国」した在日コリアンのたどる運命は過酷であった。帰国者は差別にさらされ、そのいくらかは強制労働に追いやられ、日本での極貧生活を下回ったとも言われる。待遇の実態が次第に在日コリアンへ伝わるにしたがい帰国者は急減し、「帰国運動」は事実上終結した。
現在では、帰国運動の際に在日コリアンと結婚して帰国運動の際に北朝鮮へ渡った「日本人妻」(一部「日本人夫」)の日本帰国も日朝間の解決課題の一つとなっている。ただし、詳細は不明ながら、一時日本へ帰国したものの再び北朝鮮へ渡る例もある。
現在
今日、在日コリアンは、日本に民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人配偶者を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。
在日コリアンの諸組織、知識人、朝鮮学校からは長い間「民族の誇りを取り戻そう」という訴えがなされてきた。実際に、本名を名乗り自らのアイデンティティを明確にすることで、在日コリアンが社会の中で認められるようになるケースも見られる。これに呼応して行政側の対応にも変化が起こりつつある。早い時期から民族的アイデンティティの回復を訴えた朝鮮学校の卒業生は各種学校卒として日本の学制から排除されていたが、国公立大学でも2004年前後から朝鮮学校の卒業を大学入学資格として認定する動きが生じている。これも行政側の対応変化を反映していると思われる。
近年では在日コリアンであることを明らかにして本名で活躍する有名人があらわれてきた。芸能人・スポーツ選手など日本人に触れやすい分野でも在日コリアンの本名を見かけるケースが増えている。2002年FIFAワールドカップ日韓共催では両国間の友好を深めようとする動きが、その成功・失敗は別として、メディアを中心に大きく展開された。
総じて、日本社会での差別意識も次第に薄れつつあるというのが多数を占める認識である。
一時、改善の動きも見えた北朝鮮との関係だが、2003年ごろから拉致問題、北朝鮮の核兵器保有問題のあおりを受け、再び在日コリアンに対する圧力、とりわけ朝鮮籍・在日コリアンへの圧力が強まっている。
日本統治時代を体験した世代、朝鮮戦争による南北分断の煽りを受けた世代、あからさまな差別を受けなくなった世代。半世紀あまりの間にさまざまな状況を生きた在日コリアンたちは、日本社会に対してのみならず、世代間の葛藤をも内包している。
在日コリアンの一部には、差別意識の薄れに比例して、
- 独自のコミュニティが失われつつあること、
- 民族的アイデンティティへの求心力が落ちていること、
- そのため在日コリアンの個々一人一人で孤立しはじめていることにより、個々人が周囲の差別意識に対抗できなくなっていることを危惧する声がある。
在日コリアンを取り巻く諸問題
通名
現在では緩和したものの、在日コリアンは日本社会において公的私的に有形無形の差別にさらされてきたため、日本式の姓名、いわゆる通名(通称名)を名乗って朝鮮半島系であることを隠す人々が多く存在する。近年では、民族のアイデンティティを取り戻すべく朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには、在日コリアンたちによる啓蒙活動のみならず、韓国の経済発展によって日本で韓国の評価が上昇してきたことも無縁とは言えない。
社会保障問題
在日コリアンに対する社会保障についても議論が多くなされている。 ある観点では、生活保護の受給対象者とすることへの異議、また認定の仕方への異議が出されている。
日本の裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人である在日コリアンを保護する義務はその国籍国にある」とする立場をとっている。しかし行政実務においては、本国から切り離されている、在日コリアンから最低保障としての生活保護を要求する声を取り上げた経緯がある。1946年の旧法の時期を除き改定後しばらく在日コリアンは生活保護を受けることができなかった。在日コリアンから最低保障としての生活保護を要求する声が高まったことを受けて、1954年に通知が出され行政措置として生活保護を外国人に準用するという行政運用が行なわれたという経緯をたどった。
現在、在日コリアンの生活保護受給率が日本人より多いことから、その認定の仕方が正当なのかをめぐって議論がある。これを不当であると考え、日本国による生活保護負担を強調する論調もある。事実、日本国籍者に適用を限定する意図から1950年以降の生活保護法には第一条において「国民」との用語が加えられた。
北朝鮮問題との関連
北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)にともなって、在日コリアン、朝鮮籍在日コリアンへの圧力が高まったことに対して、在日コリアンの立場を、親族を北朝鮮政府に人質同然にされ不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られているとして同情する声もある。
しかし「在日朝鮮人の何人かは北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本から送金もかなりの額にのぼるため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。日本統治時代を体験した世代、朝鮮戦争による南北分断の煽りを受けた世代、あからさまな差別を受けなくなった世代。半世紀あまりの間にさまざまな状況を生きた在日コリアンたちは、日本社会に対してのみならず、世代間の葛藤をも内包している。
チマチョゴリ事件
パチンコ業界
就職差別などから自営業が占めるパチンコ産業に携わっている就業者の在日コリアン比率は他産業より高いとみられる。そのため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず、賭博として規律されておらず、そのことが、莫大な収益を産み北朝鮮などへの送金の原資になるなど、その存在は政治世界にも大きな影響を与えている。」といわれている。
外国人犯罪と在日コリアン
在日コリアンの犯罪では、北朝鮮問題の影響も大きいとの主張がある。日本国内に流通する覚醒剤の過半は北朝鮮産が占めていると言われて、拉致問題の発生とその解決がなされていないことなどと相まって、その問題の解決を困難にしている。
第二次世界大戦終結後には、在日コリアンによる犯罪が増加したと言われる。その背景には、
- 「日本帝国主義」の支配から自由になったという意識
- GHQの統制下ゆえに日本官憲の取り締まりが在日コリアンに対してあまり及ばなかった可能性
- 朝鮮戦争の前後に渡航してきた難民に正規の居住資格がなかったことが犯罪として摘発されカウントされた可能性
- 正規の居住資格がなかったことが正規の就業を妨げたこと
などがあげられる。 これが、その後に至る日本人との間のわだかまりや先入観として(「朝鮮人は恐い」などとして)植え付けられた原因であると主張され、日本人による差別・忌避・嫌悪感情の温床になったとも主張されている。
そのため、外国人全般の犯罪率および在日コリアンの犯罪率と、それらの解釈・解釈方法については現在に至るまでしばしば議論の対象になっている(外国人犯罪参照)。
在日コリアンの処遇と未来像に関する議論
在日コリアンの日本社会におけるコミュニティの存続を支えたのは、帰化しなくても、重大な犯罪をしない限り国外退去されないという特別永住資格という資格に負うことが大きい。特別永住資格は、かつて日本国民であったことによる移行期の資格付与と考えられ、日韓協定による特別永住資格を認められている協定2世以降の世代では、特別永住資格が存続することは基本的に日本政府の任意である。したがって、将来にわたって、犯罪者までも退去強制をうけないという在日コリアンの特殊な地位が、解消されていくにつれて、その在日コリアンのあり方も変わっていくだろうと考えられる。
帰化
在日コリアンが日本社会の構成員となるかぎりは帰化するべきだという主張がある。これに対して、帰化するためには日本式の姓名を事実上強要されるため、在日コリアンにとって帰化が選択肢たり得ないという反論もある。
ただし、帰化行政は近年変化を見せているとされ、帰化に際して日本式の姓名である必要はないと言われている。帰化に際しての朝鮮式姓名の戸籍作成について有効な統計が存在しないため、帰化行政の実態もつまびらかではない。
地方参政権問題
外国人参政権を参照。
参考文献
- 山中修司 大島隆行 谷寛彦 金正坤 文・写真『ダブルの新風』在日コリアンと日本人の結婚家族 新幹社 1998年1月 ISBN 4915924858
関連項目
外部リンク
- 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索 京都大学人文科学研究所