森可成
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森 可成(もり よしなり、大永3年(1523年) - 元亀元年9月20日(1570年10月19日))は戦国時代の武将、尾張国織田氏の家臣である。三左衛門尉ないし三左衛門と名乗る。父は森可行。正室は森氏家臣林通安の娘えい(妙向尼)。
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[編集] 家系
清和源氏の一流、河内源氏の後胤。八幡太郎義家の七男、陸奥七郎義隆の子孫にあたる。森氏は義隆の三男 若槻頼隆の次男 森頼定に始まる。(家伝の詳細は森氏の項を見よ)可成の家系は頼定の次男、森定氏の子孫が美濃国に住して代々、土岐氏に仕えた。弟に森可政、子に嫡男森可隆、次男森長可、三男森蘭丸(成利)、四男森坊丸(長隆)、五男森力丸(長氏)、六男に森忠政、娘(木下勝俊室)など。
- 系譜
森判官代頼定-森二郎定氏-頼氏-光氏-氏清-頼俊-森左京亮頼師-頼長-森七郎右衛門尉頼継-可光-越後守可房-森越後守可秀-森越後守可行-森三左衛門可成-森武蔵守長可=森左近衛中将忠政
[編集] 生涯
尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。美濃国で土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、1554年(天文23)には尾張で織田信長に仕える(一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。織田氏の信長の家督相続に尽力し、1556年(弘治2)に美濃で政変が起こると信長の舅にあたる道三を援助し、信長とその弟・織田信行の家督争いである稲生の戦いにも参陣した。1558年(永禄元)の浮野の戦い、駿河国の今川氏との桶狭間の戦いなどで戦う。1565年(永禄8)には美濃金山城を与えられ、信長上洛後には近江国宇佐山城を与えられる。1570年に浅井氏・朝倉氏の連合軍に攻められ、一度は坂本にて連合軍を撃退したが再度の連合軍の侵攻には抗し切れず、信長の弟・織田信治とともに討死。この時の記録には次の様に書き残されている。「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」享年48。生前は槍の名手で、関兼定という十文字槍の使い手であった。武勇の誉れ高く攻めの三左という異名を誇った。
織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、坂井政尚や金森長近、蜂屋頼隆ら美濃衆として活動した。信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちすることになる原因のひとつになったという。この比叡山焼き討ちにおいては、森家の遺族は幼少の子らが多くこの戦に加わっていないが、そもそも森家の血筋は祖先 陸奥七郎義隆が比叡山の僧兵の矢に倒れたという因縁があり、この度の可成討ち死にの要因をも作った。比叡山とは積年の因縁で結びついていたといえよう。
墓所は滋賀県大津市の来迎寺、岐阜県可児市兼山の可成寺。戒名は心月淨翁大禅定門。
[編集] 武勲戦功・栄誉
武勲
- 天文23年(1554年)5月、前年、織田信長の主筋であった尾張守護代 織田信友が尾張守護 斯波義統を殺害した為、信友を謀反人として清洲城に攻める。可成、この戦いにおいて敵将 織田信友を討ち取り、首級を挙げる。
- 弘治2年(1556年)4月、斎藤道三、義龍親子の内紛において、退却中に斎藤方の千石又一と激しく渡り合い、無事織田軍を退却に導く。
- 同年8月、織田家家老 林秀貞、柴田勝家らが織田信勝を奉じて信長に反旗、稲生原の戦いで林隊に斬り込み獅子奮迅の活躍。
- 永禄元年(1558年)7月、尾張上四郡守護代、岩倉城主 織田信安と対峙、浮野の戦いにおいて先陣を務める。劣勢であったが、死闘の末、可成奮戦により勝利を導く。
- 永禄三年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川方の田宮左近を討ち取る。
- 同戦いにて、織田から今川に転じた山口教継、戸部新左衛門の名を語らい、両名が織田に内通していると流言飛語の策を弄し、両名が今川義元の手討ちとなり、敵方切り崩しに成功。
- 永禄七年(1564年)夏、織田軍、美濃に攻め入り、長井道利の堂洞城を攻め、陥落。斎藤龍興・長井道利の追撃を破った。可成、功あり。(恩賞として美濃国烏峰城主に封じられる。改築の上、金山城に改名。)
- 永禄10年(1567年)、可成によって、かねて内応を打診していた西美濃三人衆、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全が織田家に転じさせる。
- 永禄11年(1568年)、先年、足利一門 足利義栄を旗頭とする三好三人衆の謀叛に倒れた室町幕府13代将軍足利義輝の弟 足利義昭が信長を頼って美濃国を訪れてきた為、織田家は義昭を新将軍に推戴するため、義昭を奉じ上洛の途につく。9月11日、織田勢は義昭方への協力を拒否した六角氏の拠点、近江国箕作城を攻める。可成、竹邊源八等とともに先陣を務め、六角氏を下して9月26日に上洛を果たす。可成、上洛後すぐに足利義栄を奉じる三好方の山城国勝龍寺城を攻め、城主 岩成主税助を降参せしむ。また摂津国芥川城・小清水城・池田城等の諸城も落とす。
- 元亀元年(1570年)4月25日、可成、政権運営を巡りかねて信長と対立を深めた足利義昭に呼応して信長包囲網を形成した朝倉氏を攻める為、朝倉の支配する越前国天筒山城を攻めに加わる。翌日、陥落。越前国金ヶ崎城、疋田城を落とす。その後、信長妹婿 浅井長政信長に離反し敵対の姿勢を見せる。織田軍撤退を余儀なくされ、可成は朽木谷の朽木元綱に対し織田家主従の京都帰還への協力を依頼する。
- 同年6月26日、姉川の合戦起こる。織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍衝突。可成、第五陣に附属し出陣。
- 同年9月、石山本願寺蜂起。織田軍鎮圧の途につくも、背後から浅井・朝倉連合軍が挙兵。宇佐山城守備を命ぜられた可成、奮戦。朝倉景鏡隊を追い返し、同じく朝倉方山崎吉家隊、阿波賀小三郎隊、浅井方の浅井玄蕃允隊、浅井長政旗本らと交戦。この合戦の最中に討ち死に。