織田信行
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織田 信行(おだ のぶゆき、天文5年(1536年)? - 弘治3年11月2日(1557年11月22日))は日本の戦国時代の武将。名は一般に信行と流布しているが、自己発給文書では信勝、達成、信成しか確認できていない。父は織田信秀。母は土田御前。織田信長の同母弟。末森城主。子には本能寺の変後に殺害された津田信澄や、信長の子である織田信孝に仕えた織田信兼などがいる。
父織田信秀の葬儀の際、信長は仏前で抹香を投げつけるという愚行を行ったのに対し、勘十郎信勝は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり。」(『信長公記』)と対照的な振る舞いであった。
兄信長が尾張統一に突き進んでいく過程で、叔父信光(1554年)、弟喜六郎(1555年)、弟(兄とも)安房守(1556年)が次々と横死していった。この中で、1555年5月頃から達成(信勝から改名)は、代々の当主が名乗ってきた弾正忠の官途を信長を差し置いて名乗るようになり、家中で信長の唯一の対抗者となっていった。
1556年4月、信長の支援者であった斎藤道三が嫡男斎藤義龍との戦に敗れて死去。
同年、林秀貞(林通勝とも)、林美作守、柴田勝家らを味方につけて信長に対抗し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。信長は達成の謀反を受けて立ち、8月24日、稲生で柴田勝家、ついで林美作守を打ち破り、美作守を討ち取った(稲生の戦い)。破れた達成は末盛城に籠城、信長・達成両者の生母の土田氏の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。弾正忠達成は武蔵守信成へ改名した。
1557年、信成は再度謀反を企て、篠木三郷を横領しようとしたが、信成の家臣と対立していた柴田勝家がこれを信長に通報。信成は信長が病気と偽られて清洲城内に呼び入れられ、11月2日、暗殺された。