源頼隆
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源頼隆(みなもとの よりたか、生年不詳 - 1247年7月8日(宝治元年6月5日))は、平安末期~鎌倉中期の武将。河内源氏の三代目棟梁八幡太郎義家の七男 陸奥七郎義隆の子。毛利三郎、毛利冠者と称する。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する。官位は伊豆守従五位下。鎌倉幕府の御家人として、承久の乱における鵜沼の渡の大将を務める。出家後の名乗りは森蔵人入道西阿。二代執権 北条義時にも信頼され、天下の大事に参与した。宝治合戦における北条氏と三浦氏の争いでは、縁戚である三浦方に与し、北条方をして「大剛の者」として恐れられたが武運及ばず子4人とともに自害した。法名は蓮長(出典、尊卑分脉)
[編集] 経歴
平治の乱で父・陸奥七郎義隆が討ち死にし、ついには源氏が敗北すると、平家方による落ち武者や源氏の縁者に対する厳しい探索が行われた。生後間もなかった源頼隆、初名・毛利三郎、後の若槻伊豆守頼隆も捕らわれて、関東の豪族・千葉常胤の下に配流される。かねて源氏に同情の念をもっていた千葉氏は頼隆を庇護し大事に育てられた。(頼隆の兄弟は明らかではないが、三郎という名から三男であったと考えられる。二人の兄、弟などとともに没落する。頼隆の兄は、長兄が毛利義広となり、次兄は武蔵の武士団、私市党に庇護され久下氏の養子に入り久下直光となった(直光には義隆次男という伝承がある)。弟は高松定隆で南北朝時代に南朝方として北畠顕家の配下として活躍した高松氏の祖となる。)
治承4年(1180年)、伊豆に流されていた源義朝の嫡男源頼朝が伊豆国において反平家の兵を上げ石橋山の戦いにおいて平家方の大庭景親らに敗れて房総に逃れると、頼朝方への加勢を表明した千葉常胤の館に入ったという。頼隆は常胤とともに頼朝の前に伺候してその御家人となる。頼隆は頼朝の前に出ると、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した千葉常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという。
当時の記録『吾妻鏡』治承4年9月17日の記録には次の様に綴られている。
「9月17日 丙寅 廣常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。千葉の介常胤、子息太郎胤正(千葉胤正)、次郎 師常(相馬と号す。相馬師常)、三郎胤成(武石胤成)、四郎胤信(大須賀胤信)、五郎胤道(国分胤道)、六郎大夫胤頼(東胤頼)、嫡孫小太郎成胤(千葉成胤)等を相具し、下総の国府に参会す。従軍三百余騎 に及ぶなり。常胤先ず囚人千田判官代親政を召覧す。次いで駄餉を献る。武衛常胤を座右に招かしめ給う。須く司馬を以て父たるの由仰せらると。常胤一の弱冠を相伴う。 御前に進せて云く、これを以て今日の御贈物に用いらるべしと。これ陸奥の六郎義隆 が男、毛利の冠者頼隆と号すなり。紺村濃の鎧直垂を着し、小具足を加う。常胤が傍らに跪く。その気色を見給うに、尤も源氏の胤子と謂うべし。仍ってこれに感じ、忽ち常胤が座上に請じ給う。父義隆は、去る平治元年十二月、天台山龍華越に於いて、故左典厩の奉為命を棄つ。時に頼隆産生の後僅かに五十余日なり。而るに件の縁坐に処せられ、永暦元年二月、常胤に仰せ下総の国に配すと。 」(『吾妻鏡』より)
その後、源氏勢は平家を追い詰め、とうとう壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。鎌倉幕府が成立すると頼隆は源氏一門として従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元年(1181年)6月には、頼朝が相模国三浦に納涼のために訪れた際には先導の武者として同行させた。また、建久元年(1190年)10月、頼朝上洛に際しては後詰として付き従った。頼朝の死後、その冥福を祈り出家して森蔵人入道西阿と号したという。さらに三代将軍源実朝の死後、後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣が下され、承久の乱が勃発。頼隆は千葉胤綱に附属せられ、鵜沼の渡の大将を務めるなど活躍した。謀叛の疑いで源氏の一門が次々と討ち死にしていく中、同じ源氏ながら鎌倉幕府の御家人して頼隆は命を長らえ、北条執権体制が確立した後も草創期からの鎌倉幕府を知る人物として幕府から頼りにされていた。特に執権・北条義時などは国政については万事頼隆に相談したとされ、慕ったという。しかし、執権として幕府の権力を握る北条氏に対してかねて対抗心を燃やしていた有力御家人の三浦泰村が反北条の兵を挙げると、頼隆は三浦家の縁戚として時の執権 北条時頼を敵に廻して戦うこととなった。これが世にいう宝治合戦である。北条方が三浦方の動静を探った折、頼隆のことを「森蔵人入道は極めて大剛の者にて、奇計を運し候はば難儀たるべし」として、その武勇を恐れたという。しかし、武運及ばず頼隆は息子四人とともには討ち死にを遂げることとなる。しかし、頼隆の嫡男・若槻頼胤は千葉氏の下にあり、千葉氏の属下として長らえる。(この後、若槻氏の嫡流は千葉氏の下を離れ信濃国の豪族となり、庶流の押田氏は千葉氏の重臣となる)
[編集] 子孫
宝治合戦の折、嫡男の若槻太郎頼胤は千葉氏の下におり、千葉氏の庇護の下で育った。後に従五位下下総守若槻頼胤となった。次男の森次郎頼定は森を家名とし自立した。森氏の系譜については森氏の項に詳しい。頼胤の子孫である若槻氏からは押田氏、多胡氏が分立することとなり、若槻氏嫡流は信濃国の若槻庄を領地とした。若槻氏の傍流・押田氏は千葉氏の一門並の厚遇を受けたが戦国時代末期に千葉氏が滅亡したため、江戸幕府の旗本となる。押田氏からは押田敏勝の娘 従二位香琳院(於楽御方)が江戸幕府11代将軍 徳川家斉にみそめられ、その側室となり、徳川家慶が生まれた。森氏からは戸田氏が分立し三河国で有力大名に成長を遂げる。