斎藤氏
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斎藤氏(さいとうし)は、日本の姓氏のひとつ。現代日本の苗字別ランキングにおいて20位以内に入る大姓である。
歴史に登場する斎藤氏は藤原氏から派生したとされ、「芋粥」で知られる平安時代中期の鎮守府将軍藤原利仁の子叙用が、斎宮頭に任ぜられたことから「斎宮頭藤原」、略して斎藤を苗字としたのに始まるという。利仁以来越前、加賀を本拠地とする豪族であった斎藤氏は、平安時代末から各地に散らばって武士として繁栄し、その中で武蔵国長井に定住した一族から『平家物語』で有名な斎藤実盛が出た。
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[編集] 美濃斎藤氏
美濃の斎藤氏は、利仁・叙用の後裔が美濃国目代として越前から移り住んだのに始まるという。室町時代に美濃国守護土岐氏に仕え、その守護代となって勢力を揮った。斎藤妙椿は応仁の乱の混乱に乗じて美濃の実権を掌握する。しかし妙椿の後継者である斎藤利国(妙純)は近江で戦死、その後も土岐氏を巻き込んだ同族争いが続き、勢力は徐々に衰えを見せる。
戦国時代に至り、その名跡を斎藤道三が継承した。道三は稲葉山城を築き、さらに守護土岐頼芸を追い、下克上によって美濃国を押領したが、嫡子斎藤義龍に殺された。義龍の早世後、その子斎藤龍興は1567年、本拠地稲葉山城を織田信長に攻略され、美濃を追放されて越前国の朝倉義景を頼った。龍興は1573年朝倉が織田に滅ぼされたとき運命をともにし、美濃斎藤氏は滅亡した。なお、道三の子とされる斎藤長龍は父の死後に信長に仕えていたが本能寺の変で戦死、文人として知られていた息子の斎藤徳元も関ヶ原の合戦後に主君・織田秀信(信長の孫・三法師)の改易によって浪人し、以降は俳人として暮らしている。
明智光秀の重臣で春日局の父として知られる斎藤利三は、美濃斎藤氏の出自とみられる。
[編集] 系図
┃ 祐具 ┃ 宗円 ┣━━━┓ 利永 妙椿 ┣━━━┳━━━━━━━━━━━━┳━━━┓ 利藤 妙純 利安 利隆 │ ┣━━━┳━━━┓ ┃ ┃ 利為 利親 又四郎 彦四郎 利賢 長弘 ┃ ┃ ┃ 利茂 利良 利三 ∥ ┃ 道三 春日局 ┣━━━┓ 義龍 長龍 ┃ ┃ 龍興 徳元
[編集] 越後斎藤氏
越後の斎藤氏は、越後守護上杉氏の被官。系譜と越後に土着した時期については詳らかではないが、室町時代から戦国時代にかけて越後赤田城(現新潟県柏崎市)に居住していた。守護上杉氏の没落後は守護代長尾氏に仕え、斎藤朝信は長尾景虎(上杉謙信)の重臣として有名。子孫は米沢藩に仕えた。
[編集] 豊後斎藤氏
豊後の斎藤氏は、大友氏に重臣として仕えた。斎藤長実は大友氏の家督問題で大友義鑑と対立し殺害され、これが原因で二階崩れの変が勃発する。その子である斎藤鎮実は大友宗麟に重用されたが、耳川の戦いにおいて戦死した。だが、その血筋は外孫の立花宗茂・直次兄弟に継承されて外様大名として後世に残った。
[編集] 関連項目
- 富樫氏
- 野本氏
- 押垂氏
- 坪内氏