林秀貞
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林 秀貞(はやし ひでさだ、? - 天正8年(1580年)?)は安土桃山時代の武将。織田信秀、織田信長の2代に渡って仕える。通称は新五郎、壮年期以降は佐渡守の受領名を名乗る。弟に林美作守がいる。 長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞である。松永久秀の家臣に林若狭守通勝という人物がおり、その人物と混同されたと考えられている。
[編集] 経歴
林氏は尾張国春日井郡沖村(愛知県北名古屋市沖村)を本貫とする土豪であった。秀貞は織田信秀に仕えて重臣となり、幼少の信長に那古屋城(現在の名古屋市)が与えられた際に一番家老としてつけられた(『信長公記』)。二番家老は平手政秀であり、まさしく信長の後見役である。天文15年(1546年)に行われた古渡城での信長の元服では介添え役を務めた。当時の織田家臣団の例に漏れず秀貞も若年の信長の奇行には頭を痛めており、天文21年(1552年)に信秀が死去すると信長の弟である織田信行擁立を画策するようになる。
弘治元年(1555年)に信長が織田信友を殺害して清洲城を占拠すると那古屋城の留守居役に任ぜられた。その後も織田氏の諸分家を糾合するなどして戦国大名として頭角を表し始めた信長であったが、秀貞の不安と不満は解消されなかったようで、弘治2年(1556年)に柴田勝家らとともに織田信行を擁立して挙兵するが稲生の戦いで敗北する。しかし信長からは許されて勝家とともに宿老の立場に据え置かれ、これまで通り織田家の家宰として、清洲同盟の立会人等の外交や行政面を中心に活動した。
将校としての活躍機会は少ないが、行政官として堅実な手腕は持っていたようである。天正3年(1575年)11月に家督が織田信忠に譲られるとともに信忠付きとなった。その後は与えられた所領の面では柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)などに追い抜かれていくが、安土城の落成の際には信長から招待されて家臣として真っ先に城内の観覧を行うなど、重臣筆頭としての地位を保っていた。
ところが天正8年(1580年)8月、信長から過去の信行擁立の謀反の罪を問われて追放された。この追放劇に関しては理由が余りにも難癖じみており、活躍以上の利権を主張する家臣団のリストラの一環と言う見方が有力である。追放後は京に居住し「南部但馬」と改名したが間もなく同年10月15日に死去したと言われる。