市川雄一
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市川 雄一(いちかわ ゆういち、昭和10年(1935年)1月25日 - )は、日本の政治家、元公明党衆議院議員(10期)・公明党書記長・新進党副党首。
神奈川県出身。早稲田大学商学部卒業後、創価学会参謀室長を歴任。1969年7月の都議選で、投票終了時間後に訪れた二人が投票できなかったことを理由に、練馬区の投票所へ押しかけて投票立会人に集団暴行を振るったと言われている(配下の学会員が自首したが、裁判で市川の関与を証言)。
1976年12月衆院選で神奈川2区から出馬し初当選(連続10回)。 委員長・竹入義勝の下で機関紙局長・副書記長を歴任し、1986年12月臨時党大会で矢野絢也委員長就任に伴い国対委員長に就任する。1989年5月矢野委員長が明電工事件に絡んだことで執行部が総退陣し、筆頭副委員長・石田幸四郎が委員長就任。それに伴い市川も書記長に就任する。
1990年2月衆院選で公明党が議席を減らすと、それまでの日本社会党との共闘志向を修正。当時、自由民主党幹事長として権勢を振るっていた小沢一郎に接近し、民社党書記長・米沢隆を交えた親密な関係は後々までワン・ワン・ライスと呼ばれることになる。1992年のPKO国会では、政府自民党案に民社党と共に修正案に応じPKO協力法案を成立させた。1993年6月宮澤喜一内閣の不信任決議案が成立すると、自民党を離党した羽田孜派が結成した新生党と反自民で連携し。7月の衆院選で自民党を過半数割れに追い込み、政権交代を実現した。
細川護煕連立内閣で石田委員長ら4人が入閣すると、党書記長として党執行部運営の最高責任者となった。その後の羽田内閣でも与党として主導権を握り続けたが、1994年6月に羽田内閣は総辞職。急遽、自民党から離党した海部俊樹元首相を首班候補にしたが、自民党は社会党委員長・村山富市を首班候補として擁立、首班指名選挙で敗北する。
その後、公明新党を経て1994年12月に新進党が結成されると政務会長に就任、1995年7月の参院選での新進党の躍進に力を振るうが、このことが自民党から“新進党=創価学会”という批判を呼び起こすことになり、翌年10月の総選挙での議席減へとつながった。12月に小沢が新進党党首に就任すると、副党首に就任。翌1996年1月には橋本龍太郎自民党総裁を首班とする連立内閣が発足し“一龍対決・戦争”へと激化していった。3月住専国会では、ピケ戦術で応戦するも4月に関連法案が成立。5月に自民党幹事長・加藤紘一の贈収賄疑惑に対する証人喚問を要求すると、与党から創価学会名誉会長・池田大作の証人喚問を要求され、結局は参考人招致(自民党幹事長・加藤と創価学会会長・秋谷栄之助)に留まる。衆院選で新進党が敗北すると、自民党出身議員らが五月雨式に自民に復党する様になり、この頃から創価学会(特に池田大作名誉会長)からの不興を買うようになったと言われている。折も折1997年4月の都議選では、公明が公認候補23人を全員当選させた一方で、新進党は公認候補を1人も当選させることが出来なくなるという惨敗に終わってしまい、10月の小沢新進党首と藤井富雄公明代表の会談で(当初年内に予定されていた)公明の新進党への合流が見送り・白紙になる。細川元首相も離党するなど党内が分裂状態に陥り、12月に新進党は解党した。
1998年に新進党の旧・公明党系衆院議員が新党平和を結成すると、神崎武法代表の下で副代表に就任。 また竹入元委員長が『55年体制・回顧録』を出版した際は朝日新聞紙上で反論するなど竹入批判・攻撃の中心となった。11月に公明党が再結成されると副代表に就任、1999年10月に小渕恵三首相下での自(自・保)公連立政権が成立すると常任顧問に就任。2003年10月衆院解散と同時に政界引退。
現在は創価学会東海道方面参与・川崎総県総主事の一方で、『第三文明』などに政治評論を寄稿している。