石田幸四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石田幸四郎(いしだこうしろう、1930年8月22日 - 2006年9月18日 )は、政治家。第5代公明党委員長。元総務庁長官。北海道札幌市生まれ。明治大学卒業。元創価学会青年部長。
[編集] 略歴
1967年2月、衆院選愛知6区から出馬し初当選(連続10回)。臨時党大会で竹入義勝委員長の下で19年に渡って副書記長に就任。
1986年12月、衆参同日選後に行われた党大会で竹入委員長が最高顧問就任に伴い、矢野絢也委員長の下で筆頭副委員長に就任。
1989年5月、明電工事件で矢野委員長の辞任で5代委員長に昇格。7月の参院選で社会党との比例区700万票割れの結果に終わる。
1990年2月、衆院選で社会党との選挙協力で50議席台割れの結果に終わり、民社党と共に社会党との連合政権構想・社公民路線を打ち切り自民党との連携に動く。
1992年6月、PKO協力法案修正案に同調し成立させ、7月の参院選で社会党を敗北に追い込んだ。
1993年6月、宮沢喜一内閣不信任決議案に賛成し、7月の解散総選挙で50議席台を回復させ、同30日に非自民連合政権構想に合意。8月、細川護煕連立内閣で総務庁長官に就任。9月に衆院予算委員会の質疑で自民党の野中広務、亀井静香両議員から支持母体・創価学会池田大作名誉会長に対する証人喚問を要求され、国会は紛糾した。
1994年4月、細川首相が辞任し、羽田孜連立内閣で総務庁長官に留任するも、6月に羽田内閣は総辞職し、代わって自民党が社会党委員長首班の村山富市連立政権を成立させ、10ヶ月天下に終わる。12月に公明新党(衆院全員と参院改選期)と公明(参院非改選期)に分党を決断。同24日、新進党の結成に参加し副党首に就任。96年総選挙では東海比例代表のみで出馬し再選、地盤を元中日ドラゴンズ投手の三沢淳に譲り、三沢は小選挙区勝利。
1997年12月、新進党内に『公友会』を結成し解党。1998年2月、新党平和を結成に伴い、常任顧問に就任し、11月、衆参統一の公明党復活で最高顧問に就任。
2000年6月、通常国会閉会で政界引退し、名誉顧問。 創価学会中部総主事を経て、
2006年9月18日午前8時50分、特発性肺繊維症のため名古屋市内の病院で死去。76歳。