大江匡房
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大江 匡房(おおえ の まさふさ、長久2年(1041年)-天永2年11月5日(1111年12月7日)は平安時代後期の代表的な公卿・学者。号は江師(ごうのそち) 。大江氏の一族で大江匡衡・赤染衛門の曾孫。大江広元の曾祖父。父は大学頭大江成衡、母は橘孝親の娘。
[編集] 経歴
匡房の自伝『暮年記』などによれば、曽祖父・匡衡よりも早く4歳で初めて書を読み、11歳で詩を賦して世に“神童”といわれ、文章得業生となって3年目に18歳で方略試に及第した。その後、東宮学士・蔵人・中務大輔・右少弁・美作守・左大弁・勘解由使長官・式部大輔などを経て、寛治2年(1088年)48歳で参議に昇り、54歳で権中納言となった。57歳で大宰権帥を兼ねて筑紫に赴任し、その功により正二位に叙されたが、71歳で大蔵卿に任ぜられてまもなく薨じた。
その間、とくに後三条天皇と白河上皇の信任をえて重く用いられ、また関白後二条師通にも信頼されて親交を結んだ。平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較された。諸道に精通した博学者で、著作は『江家次第』をはじめ『江記』・『江都督納言願文集』・『狐媚記』・『洛陽田楽記』・『本朝神仙伝』・『続本朝往生伝』・『扶桑明月集』および『朝野群載』所収の「暮年記」・「詩境記」・「対島貢銀記」・「遊女記」・「傀儡子記」など頗る多い。漢詩にもすぐれ、『本朝無題詩』などに作を収める。また、藤原伊房・藤原為房とともに「前の三房」とも称されている。
歌人としては承暦2年(1078年)の内裏歌合、嘉保元年(1094年)の高陽院殿七番歌合などに参加し、自邸でも歌合を主催した。『堀河百首』に題を献じて作者に加わる。また万葉集の訓点研究にも功績を残した。後拾遺和歌集初出。詞花和歌集では曾禰好忠・和泉式部に次ぎ第三位の入集数。なお、『江談抄』は匡房の物語を藤原実兼が筆録したもので、その中に〈官爵と云ひ福禄と云ひ皆文道の徳を以て暦経する所なり〉と述べている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1056年(天喜4)12月29日、文章得業生となる。
- 1057年(天喜5)2月30日、丹波掾に任官。
- 1060年(康平3)2月21日、治部少丞に遷任。 3月20日、式部少丞に遷任。 7月6日、従五位下に叙位。
- 1067年(治暦3)2月6日、東宮学士に任官。
- 1068年(治暦4)4月19日、蔵人に補任。 7月8日、中務大輔に転任。 7月19日、正五位下に昇叙し、中務大輔如元。
- 1069年(治暦5)1月27日、左衛門権佐に遷任。 4月28日、東宮学士を兼任。 12月17日、右少弁を兼任。
- 1072年(延久4)4月26日、備中介を兼任。同日、防鴨河使に補任。 12月8日、新帝蔵人並びに東宮学士を兼任。
- 1074年(延久6)1月28日、従四位下に昇叙し、防鴨河使・東宮学士如元。同日、美濃守を兼任。
- 1075年(承保2)1月5日、正四位下に昇叙し、防鴨河使・東宮学士・美濃守如元。
- 1080年(永暦4)8月22日、権左中弁に転任。防鴨河使・東宮学士如元。
- 1081年(永保元)8月8日、左中弁に遷任。防鴨河使・東宮学士如元。
- 1083年(永保3)2月1日、式部権大輔並びに備前権守を兼任。
- 1084年(応徳元)6月23日、左大弁に転任。式部権大輔・東宮学士・備前権守如元。
- 1085年(応徳2)2月15日、勧解由長官を兼任。 11月8日、東宮学士を止む。
- 1086年(応徳3)11月20日、従三位に昇叙。左大弁・勧解由長官・式部権大輔・備前権守如元。
- 1087年(応徳4)1月25日、式部大輔を兼任し。式部権大輔を去る。 月日不詳、備前権守を去る。
- 1088年(寛治2)1月19日、正三位に昇叙し、左大弁・勧解由長官・式部大輔如元。 1月25日、周防権守を兼任。 8月29日、参議に補任。左大弁・勧解由長官・式部大輔・周防権守如元。
- 1092年(寛治6)1月、越前権守を兼任し、周防権守を去る。
- 1094年(寛治8)6月13日、権中納言に転任。 12月11日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
- 1097年(永長2)3月、太宰権帥を兼任。
- 1098年(承徳2)9月、太宰府に赴任。
- 1102年(康和4)1月5日、正二位に昇叙し、権中納言如元。
- 1106年(長治3)3月11日、太宰権帥に遷任。
- 1011年(天永2)7月29日、大蔵卿に遷任。 11月5日、薨去。享年71。時に、前権中納言正二位行大蔵卿
[編集] 逸話
- 主に「古今著聞集」による
- 前九年の役の後、京の藤原頼通邸で源義家(八幡太郎義家)の戦功話を評していた際「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」と匡房がつぶやいたということが、義家の家人を通じて義家本人に伝わり、怒り出すどころか辞を低くして匡房の弟子となったことが伝えられている。匡房から孫子などを教えられた義家は、後三年の役で金沢の柵で雁の列が乱れるのを見て伏兵を察知し、義家は「江師の一言なからましかばあぶなからまし」と語ったという。ちなみに義家の弟の源義光(新羅三郎義光)には笙(しょう)の笛の秘伝を教えたとされる一方で義家の後を継いだ源義親を讒言をもって攻め滅ぼさせたのは、太宰権帥であった匡房であったと言われている。
- 太宰権帥の任を終え、不正に得た財産と正しい方法で得た財産の船を分けて進ませたところ、「道理の船」は海に沈み、「非道の船」は無事到着した。これを見て匡房は「もはや末世になったものと見える。人は正直でありすぎてはいけないということか」と語ったという。