藤原顕輔
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藤原顕輔(ふじわらのあきすけ、寛治4年(1090年) - 久寿2年5月7日(1155年6月8日))は平安時代後期の公家・歌人。父は藤原顕季。母は藤原経平の娘。子に清輔・重家・季経らがおり、養子に顕昭(けんしょう)がいる。
白河上皇の近臣として昇進したが、後に疎まれるようになった。上皇の没後に政界に復帰し、正三位左京太夫にいたった。周辺に優れた歌人が多く、1116年(永久4年)の鳥羽殿北面歌合をはじめ歌会・歌合などで活躍、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を受け継いだ。1144年(天養4年)に崇徳上皇の勅撰集撰進の命を受け、1151年(仁平元年)「詞花和歌集」を選集した。