北条政子
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北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代後期に平家を打倒して鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。正式には「平政子」。北条時政の娘。源頼家、源実朝、大姫、乙姫(三幡)の母。夫の死後は出家し、"尼御台"(あまみだい)と称された。また、子の頼家・実朝の死後は、幼い将軍藤原頼経の後見となって幕政に関与し、俗に""尼将軍"と称された。なお、「政子」の名は1218年(建保6年)、朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という名であったかは不明。
父時政は平治の乱で伊豆に流されていた源氏の源頼朝の監視役であったが、政子は頼朝と恋仲になってしまう。驚いた時政は、1177年(治承元年)、伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとするが、政子は強引に頼朝の元へ行ってしまう。政子が21歳のときである。まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。
挙兵した頼朝は鎌倉に居を定め、政子は御台所となる。鎌倉幕府内に強い影響力を及ぼして、1195年には頼朝と共に上洛し、大姫入内のために宣陽門院の生母の丹後局と協議するが、大姫急死により挫折する。
1199年(建久10年)に頼朝が死去すると、落飾して「尼御台」と呼ばれる。2代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時とともに北条氏による合議制を確立する。1203年(建仁3年) には頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼす。さらに義時とともに父時政を失脚させ、1219年(承久元年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、1218年(建保6年)には上洛して宮将軍の擁立を画策する。結局、摂関家から九条道家の子・三寅(のちの頼経)が鎌倉へ下って鎌倉殿に擁立されるが、政子は幼将軍の後見役となった。1221年(承久3年)の承久の乱では、京方の挙兵に動揺する御家人を前に、頼朝以来の恩を説き、鎌倉方を1つにまとめる。弟義時の没後は、甥の北条泰時を執権に据えて、1225年に死去、享年68。
政子は実務に長けた有能な政治家であったと評価されることが多い。その一方、現代日本のフェミニズムに都合のよい人物であるために、その思想の影響を受けた歴史家や作家によって作られた政子の虚像が一人歩きをしているとの指摘もある(日野富子、悪妻、フェミニストを参照)[要出典]。