北条時政
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北条 時政(ほうじょう ときまさ、保延4年(1138年) - 建保3年1月6日(1215年2月6日))は、源頼朝の妻北条政子の父。伊豆国の在地豪族の北条時方の子、母は伊豆掾伴為房の娘。通称は北条四郎。鎌倉幕府の初代執権。
[編集] 家系
桓武平氏高望流の平直方を祖と称する一族で、伊豆国北条庄を拠点とした北条氏の当主。平高望流の平直方という系譜を信ずるならば、京都で栄華を極めた伊勢平氏庶流の平家系平氏に次ぐ系統で、伊豆の豪族の伊東氏よりも大きな勢力であった。代々、伊豆国の在庁官人にて北条氏は伊豆介を務め北条介と通称し、他の介級の家柄と並んで関東の八介ともいわれた。しかし、初期の勢力は伊東や大庭に囲まれていたことから勢力的に安定しているとはいえなかった。頼朝の登場により家運を上昇され、鎌倉幕府の執権となる。
[編集] 生涯
河内源氏の源頼朝が、摂津源氏の源頼政の知行国である伊豆に流された時、頼朝の監視役となる。娘の政子が頼朝の妻となった縁から、1180年(治承4)の頼朝の挙兵に同陣した。その後は頼朝配下の有力重臣として活躍し、1185年(文治元)の伊勢平氏の平清盛一族(平家)の滅亡後、頼朝の命を受けて上洛し、守護と地頭の設置を認めさせるべく、朝廷との交渉に当たっている。同年旧暦11月25日、京都守護と就る。幕府が創立されると重用され、頼朝の外戚として勢力をふるう。
1199年(正治元)、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や源頼家の外戚に当たる比企能員らを大江広元・仁田忠常らとともに殺害した。1200年(正治2)旧暦1月、執権就任。さらに、北条の家格を上げんとして将軍の外祖父である立場を利用し娘・政子を経由して、鎌倉幕府草創当時源家一門にしか許されなかった国司への叙任を願う。これによって時政は旧暦4月1日に従五位下遠江守に叙任。源家一門以外で、御家人として初の国司となった。また、源頼家を将軍から廃したうえで1204年(元久元)に伊豆国修善寺で殺害するなどして政敵を排除した。そして頼家の後継者にその弟に当たる源実朝を擁して自身は自ら執権職に就いたのである。
1205年(元久2)には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼし、さらに同年旧暦7月には後妻の牧の方と共謀して娘婿にあたる平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしたが、子の北条義時と政子の反対にあって失敗し、旧暦閏7月20日、強制的に出家させられたうえで隠居の身分となり、以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。法名:願成就院明盛。菩提所:静岡県伊豆の国市韮山の天主君山願成就院。
北条氏は坂東平氏の枝族にあたるとされるが、時政が頼朝に協力したのは、優れた先見性があったからであると言われている。この時政の時代に北条氏は鎌倉幕府における基盤を築き上げ、次代に飛躍する基礎を固めたのである。しかし時政は頼家暗殺や牧の方事件などもあって晩節を汚してしまったためか、あまり評判は良くない人物である。
[編集] 関連事項
鎌倉幕府執権 | |
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