佐々木健介
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佐々木健介 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 佐々木健介 ケンスキー佐々木 マスクド・ボルケーノ パワー・ウォリアー |
本名 | 佐々木健介 |
ニックネーム | マッスルボルケーノ マッスルエリート |
身長 | 180cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1966年8月4日 |
出身地 | 福岡県福岡市博多区 |
所属 | 健介office |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー | 長州力 マサ斎藤 |
デビュー | 1986年2月16日、笹崎伸司戦 |
佐々木 健介(ささき けんすけ、1966年8月4日 - )は、日本の男子プロレスラー。公称身長180cm、体重115kg。実測身長170cmほど。血液型はB型。福岡県福岡市博多区出身。東福岡高校卒。妻は、全日本女子プロレス出身の元プロレスラー北斗晶。健介オフィス所属兼同社取締役。元横浜ベイスターズの「大魔神」佐々木主浩は長身だが、豆タンクのような体なので「小魔人」(しょうまじん)と呼ばれている。一般的に苗字よりも名前で呼ばれる事の方が多い。
目次 |
[編集] 経歴・戦歴
- 福岡市立花畑中学時代から柔道を始め、一年後輩に貴闘力忠茂がいる。私立東福岡高等学校出身。(元千葉ロッテマリーンズで1991年のパリーグ首位打者である平井光親は高校の同級生。)
- 高校卒業後、長州力に憧れジャパンプロレスに入門。笹崎伸司戦でデビューするが、その後143連敗という記録を作ってしまう。ジャパンプロレス解散後、長州の後を追い新日本プロレスに参戦。
- 新日本参戦後は、正規軍で活躍する。
- 1997年新日のタイトルを総なめする。しかしプロレス大賞は当時人気面で圧倒的に勝っていた蝶野正洋に持っていかれる。
- 2000年10月9日東京ドームで川田利明と世紀の一戦に挑むも敗れる。これによりIWGPシングルを返上する。
- 2001年1月4日東京ドーム、IWGPトーナメント決勝で川田にリベンジを果たす。
- 2001年に海外修行に出、総合格闘技を経験している。しかし、2002年10月に、鈴木みのる戦を巡るパンクラスとの交渉の過程で会社への不信感を理由に新日本を退団し、WJプロレスへ移籍。この時、10月14日の東京ドームでの新日軍VS外敵軍7番勝負で村上和成(当時は村上一成)と対戦予定だったが、退団によってキャンセル。変わって成瀬昌由が名乗りを挙げ村上と対戦することになる。また、新日本とパンクラスの交渉では、鈴木みのる戦に獣神サンダー・ライガーが名乗りを挙げ、翌11月にパンクラスマットに上がっている。
- 翌2003年にWJを退社してからはフリーランスとして活動している。この際埼玉県吉川市の自宅に健介オフィスを設立する。なお、師匠・長州力との関係は、2003年にWJ退団で断絶を匂わせたが、2005年のWRESTLE-1トーナメントの1回戦の対長州戦後に、正式に断絶した。
- 2004年度プロレス大賞MVPを受賞した。この年藤田和之からIWGPヘビー級王座を奪取したのが決め手となった。しかしこの試合は藤田から3カウントを取ったものの、藤田が裸締めをかけている最中でのフォールという形になっていた為、不評の声が挙がった。
- 2005年12月14日に健介オフィスの株式会社化を発表、2006年2月11日にデビュー20周年の節目に健介オフィスとしては初の自主興行を全日本プロレスの全面協力の下後楽園ホールにて開催され、メーンでは小橋建太と初合体し、リングアナには仲田龍、レフェリー和田京平、対戦相手が中嶋勝彦・天龍源一郎という豪華すぎる布陣にてタッグマッチが行われた。試合は健介が「父の威厳」を見せつけ中嶋からフォール勝ちを収めた。
- 2006年6月29日、死闘を演じ同じコーナーにも立ったライバル小橋建太に腎腫瘍が見つかったことから、即座に自身のブログで夫婦連名により応援の言葉を掲載する。実はその2日前、仲田龍より「7月16日は空いていないか?」という電話が健介officeにあった。対応した北斗晶は海外での仕事兼家族旅行があると断ったが、仲田の不自然さからその理由を問いただしたところ、前述の通り小橋の病気が語られた。すぐに北斗が健介にその事実を告げたところ、健介は余りのショックに言葉を失うも、すぐさま(3分で)仕事をキャンセルする事を決め、電話を掛けなおし出場させて欲しいという旨を伝えた。この男気ある行動は、小橋のファンのみならずプロレスファン全体から絶賛を浴びた。
- 2006年7月2日のビッグマウス・ラウド第6回興行にて柴田勝頼と対戦。ノーザンライトボムで止めを刺そうとした際、不運にも柴田の膝が目に当たり、眼窩底骨折という重傷を負う(この時すぐにフォールに行けず、目を手で押さえていた姿が見られている)。しかし、翌日の全日本大田区大会、9日の夏祭りでは辛い顔を見せることもなく試合に臨み、入院。小橋建太欠場の代役として出場した高山善廣復帰試合は、病院から外出許可を得ての出場であった。この試合後に初めて眼窩底骨折のまま試合に出ていたことを明かし、ニュースを聞いた多くのファンが唖然とし、賞賛の声はさらに大きくなった。この一件はファンのみならず、対戦した秋山準も「まだまだ凄い人がいる」とブログで健介の男気を讃え、オファーを出した仲田は「本当に申し訳ないことをした」と語っている。また三沢光晴は会見で「復帰するときは頼まれたら協力したい」と話している。
- 2006年8月27日に全日本プロレスで行われた盟友・馳浩の引退興行では、目標としていた復帰こそできなかったものの、セコンドとしてリングサイドに登場。試合終盤には自らもリングインし、馳とのコンビネーションを見せた。
[編集] ファイトスタイル・人柄など
[編集] ジャパンプロレス~新日本~WJ時代
- IWGPヘビー級王者に君臨すること5回(新日本所属時代に3度、フリーになってからは2度)、G1クライマックス優勝2回など、1990年代~2000年代を代表するレスラーの一人。
- しかし、同世代の闘魂三銃士、同門の馳浩に比べ華やかさに欠け、師匠長州力のコピーそのものの直線ラリアット・プロレスしかできず、「しょっぱいレスラー」と言われ人気は低迷。1997年頃から夫人のコピー技「ノーザンライトボム」を頻繁に使いだし、試合展開を相手に握られながらも、それ一発を出すことであっさりと逆転勝ちしてしまう試合も多く、そのスタイルに不満を持つファンは多かった。しょっぱいレスラーであるという皮肉を込めて「佐々木塩介」と呼ぶ者が出始めたのもこの頃であった。さらに、ファンから見てもはっきり分かるくらいに長州から贔屓されており、長州が設立したWJへ移籍した時は予定調和だとファンに非難され、「長州の金魚の糞」と呼ばれ、より評価を下げてしまった時代もあった。
- ここ一番という大きな試合(対垣原賢人、対天龍源一郎、対川田利明など)での負けが多いため、数々のタイトル歴があるにも関わらず、評価は高くなかった。
- この「しょっぱいレスラー」となってしまった理由には、長州の厳しい教育にあるとされる。長州は、ジャパンプロレス時代に初めて取った弟子が佐々木であった。長州のシゴキの厳しさは有名だが、初めての弟子ともあり、可愛さも相まって非常に厳しく佐々木を育てた。その副作用として、長州のコピーができあがってしまったのである。オリジナリティーに欠けたそのスタイルには、育てた長州も後悔した。「俺はハイスパートレスリングが得意だけど、それを健介に叩き込んでやった。しかし健介には、別な道もあったかもしれない。ひょっとしたら俺は、健介の自由を奪ってしまったのかもしれない」と長州は反省している。
- また、ファンの間では佐々木が動くと、何か不吉なことが起こるなどと言われていた。アリゾナのドン・フライの元で総合格闘技のトレーニングを積み、凱旋帰国した際に予定されていたTV(トゥナイト・2)への出演が、9・11の同時多発テロにより放送中止。また、新日本退団~WJ移籍の記者会見を開いた後、棚橋刺傷事件が起こった。本人はこの皮肉を分かっていたのかいなかったのか、なぜかむしろ自分にとっては良い事であるとし、前向きであった。
- しかし2003年、WJは経営難に陥り、さらに主軸である長州力がケガで戦線を離脱。佐々木は長州に代わり主軸に抜擢され、WJ存続のため借金を背負い健闘したが、状況は好転せずWJは崩壊。ちなみに、この時の借金はいまだ長州から返してもらっていない。佐々木は退団し、フリーランス転向を余儀なくされた。さらに無理が祟って右腕を骨折。試合もできず、家族は無一文の憂き目にあう。この時期は食費にも事欠く有様であり、食費を浮かせる為、北斗が実家の農家で収穫した野菜や、友人知人が持って来てくれた食材などを食べて何とか生活できる状態だったと言う。だが、このドン底とも言える状況が、健介のターニングポイントとなった。
- 新日本の道場では馳浩と共に鬼コーチとして知られ、天山広吉、小島聡、中西学、永田裕志ら所謂「第3世代」は全員、馳健の指導を受けている。
[編集] フリー転向後
- フリーになってからは、妻の北斗晶が健介のマネージャー、プロデュース業に専念するようになる。それまでは出場する団体は新日本ぐらいであったが、全日本プロレスなどのメジャー団体から、DRAGON GATE、DDT(佐々木そっくりのキャラクターで戦う健心(藤沢一生)とタッグを結成している)、みちのくプロレスといったインディー団体まで、幅広く出場していった。この経験により、今までのスタイルに空中技やスープレックス技が加味され、試合の組み立ても非常に多彩なものとなった。また、「鬼嫁」こと北斗晶、「息子」こと中嶋勝彦を交えた「健介ファミリー」としての一家団らん的特色で、プロレスだけでなくバラエティ番組に出演するなど多くの活動を展開している。人懐っこい笑顔と恐妻家キャラがプロレスファン以外の視聴者にもウケるようになった。
- 無一文のドン底生活により、一試合一試合無駄にできないという危機意識が、健介を変化させた一因であるが、ある変化するキッカケがあった。健介は、フリー転向後もしばらくハイスパートプロレスを貫いていた。ある時、後のDRAGON GATEである闘龍門に参戦した際の対戦相手だったフロリダブラザーズのスタイルを見て本人も見惚れてしまい、試合終了後のマイクはコミカルな健介を初めて披露した。この一件が後のケンスキー佐々木と現在の佐々木健介を産み出すきっかけとなったとインタビューで話している。そういう意味でフロリダは佐々木健介のファイトスタイルを変えるきっかけを作った恩人でもある。
- 2004年10月9日に行われた藤田和之とのIWGP戦で、藤田が胴締めスリーパー中に3カウントを取られ、健介の勝利となった試合があった。健介にベルトが渡ったものの、不可解な裁定に北斗晶は激怒し、涙を流しながら「これが新日本のやり方か!?」と叫び、子供を抱えたまま新日本プロレスのフロント陣を蹴りつけた。北斗は、そのままインタビュールームに乗り込み、試合後のインタビューを受けていた健介を連れて早々に引き上げた。この際、健介は優勝トロフィーを廊下に投げつけ破壊した。この暴挙は子供を抱えたまま行っており、当時世話になっていた天龍源一郎が「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と話し、これ以来天龍は「ゴッドファーザー」として健介ファミリーに入った。健介は、この試合内容では申し訳ないと思いベルトは腰に巻かず、次の防衛戦で北斗晶にベルト巻いてもらった。このように、北斗晶のカカア天下キャラを押し出したりするなどで独自の特色を活かし、プロレスの幅を広げている。
- 多くの団体で活躍した功績が認められ、2004年にはプロレス大賞のMVPを獲得。また、試合内容でも高山善廣とG1クライマックスでのベストバウトを繰り広げ、ボブ・サップ相手に名勝負を展開できるまでに変化しており、段々と「塩レスラー」とは呼ばれなくなっていった。
- 2005年7月18日、ノア東京ドームで行われた対小橋建太戦では、逆水平チョップを両者で200発以上の打ち合いを繰り広げ、ノアファンから大きな声援を受けた。この対戦はプロレス大賞ベストバウトにも選ばれ、先輩レスラーや業界関係者の中から「今まで見たプロレスの中で最高のもの」という賛辞が出るなど歴史的な一戦ともなり、佐々木はこの試合により「しょっぱいレスラー」の汚名を見事に返上したとも言われる。この試合直後、興奮を抑えられない佐々木が控え室で突然トレーニングを始めたというエピソードがある。
- 2005年8月4日、WRESTLE-1トーナメントの1回戦にて、長州力との対戦が決定。WJ崩壊からの因縁の対決となり、両者は一触即発ムードと思われていたが、6分10秒で健介があっさりと勝利。不完全燃焼となった。試合後、健介は「気持ちが全然返ってこなかった。俺の気持ちを分かってもらえるかと思ったが」と師匠への未練を語ったが、北斗晶は「あんな最低のレスラーとやって、コメントなんか出すことはない。もう二度とやることはありませんから」とまとめあげ、長州との関係を完全に断ち切った。
- 2005年11月5日に行われたノア日本武道館大会に参戦。「佐々木・中嶋vs小橋・潮崎豪」という、父・息子vs師・弟子といった構図の対戦に勝利。またも常識はずれの逆水平チョップの打ち合いを繰り広げ、名勝負を展開してみせた。しかしその代償は重く、胸の傷が癒えるのに数ヶ月を要した。ノアに関しては継続参戦へ向かうのかどうかは不明であるが、本人は「ノアはおとぎの国。開ける扉開ける扉、新しい世界が広がっていて、参戦するのが非常に楽しい」と発言していることから、前向きな様子である。
- また、現在主戦場にしている全日本プロレスでも健介ファミリーとして様々な名勝負を行っている。9月には215kgの曙をバックドロップで投げ、中嶋勝彦と飛び跳ねながら喜びあうという演出も見せた。
- しかし、良くも悪くも「人の良さ」が出てしまうのは現在でも同じである。2006年1月22日に行われたノア日本武道館大会では、ムシキング・テリーとタッグマッチで戦うことになったが、これを健介は非常に嫌がった。理由として、長男・健之介がテリーの大ファンであるため、もしやっつけてしまうと嫌われるのではないかと心配したことが挙げられる。本人は「ノアはおとぎの国だけど、まさか扉の向こうからムシキングが出てくるとはなぁ。テリーと組みたかった」と語り、「もし戦ってしまうと口も聞いてくれなくなるだろうから、子供をすぐにトイザらスに連れていかないといけない」とコメントした。試合は、中嶋がムシキングにぶつかっていったが、健介は試合中一切テリーと戦わなかった。中継の解説をしていた高山善廣は「親父が一番偉いってとこを見せなきゃいけない」と苦言を呈した。尚、試合でテリーと戦うことは息子には一切喋っておらず、当日も武道館に連れてきていない。その後20周年記念興行のトークバトル第3戦に登場した高山にしっかりダメ出しを貰い、暴露大会のきっかけを作ってしまった。
[編集] プライベート
新日本プロレス時代の1994年の「スポーツと平和の祭典」で北朝鮮に遠征に行った際、同じく全日本女子プロレスで同イベントに参加していた北斗晶こと久子と知り合い後に結婚。(会席の際に初めて喋った時から、佐々木は北斗が将来の嫁である事を確信したらしい)久子夫人との間に二児をもうけている。マスコミ向けには「北斗」と呼ぶものの、プライベートでは本名の久子にちなみ「チャコ」と呼んでいるようだ。必殺技の一つノーザンライトボムは北斗から伝授されたもので、現役時代の北斗にはストラングルホールドγを教えている。テレビ朝日のバラエティ番組『いきなり!黄金伝説。』の人気コーナー「夫婦2人1週間5千円節約バトル」に夫婦で出場し、2005年7月現在の王者(防衛1回)である。 また、非常にトレーニング好きなので、夫人の買い物の荷物持ちとしてついて行っても、その荷物をダンベル代わりにトレーニングをしたほどである。(さんま御殿の夫婦で出演の時に北斗晶が話していた)
[編集] 名言
- 「あーポカやった」(1995年新日本対UWFインターの団体対抗戦で垣原賢人とのシングルマッチでうっかり負けた試合後のインタビューでの言い訳。ちなみにこの時の物真似を有田哲平が披露している)
- 「正直スマンカッタ」(2001年3月、IWGPタイトルマッチを約束しながら、直前の試合でスコット・ノートンにタイトルを奪われ、約束を果たせなかったことに対する藤田和之への謝罪)
- 「納得いかない、ヴアー」(2002年1月、セコンドの乱入により無効試合となった小川直也戦後の発言。一部のスポーツ紙が絶叫部分をなぜか「ヴアー」と表記したため話題に)
- 「私は博多生まれのアメリカ人デース」(2004年2月、フロリダ・ブラザーズに反則負けした直後の発言。これが健介の別の顔を引き出す(ケンスキー)の大きなきっかけとなった)
[編集] 主な得意技
新日本時代は長州力の流れを汲む、典型的なパワーファイターの感がぬぐえなかったが、フリーランスになってからはプロレスの幅を広げ、様々な技に挑戦する傾向にある。
- 逆水平チョップ
- 健介も小橋健太、天龍源一郎と並び、この技の名手の一人である。2005年7月18日に東京ドームで行われた小橋建太との常識はずれのチョップ合戦(健介は106発、小橋は112発の総計218発)により右胸は紫色にはれあがった。これにより本人も逆水平をやられる気持ちが分かったようである(鈴木みのる談)。
- ラリアット
- 健介のラリアットは、横一直線に腕を相手の胸元及び喉元に叩きつける為、体重の軽い選手は、その場で一回転しまう程の威力を誇る。新日本プロレス時代は、序盤からこの技を乱発した為、プロレスファンから批判を浴びる事になった。しかし現在は逆水平を中心に技のバリエーションも増えた為、フィニッシュとして温存されるようになり、ここ一番で繰り出された時の説得力が格段に上がっている。
- トランプ
- ランニング式のエルボースマッシュ。2006年のチャンピオン・カーニバル公式戦である吉江豊戦で初披露し、勝利を奪った技。「切り札」の意味より命名。
- トルネードボム
- 相手の片足を抱え肩に担いでから落とすパワーボム。危険なので一時期封印していた。
- ノーザンライト・ボム(北斗ボム)
- 元々は妻の北斗晶の技であり、彼女から伝授された。北斗及び他の選手が使う際はボディスラムの体勢から入るが、健介の場合は垂直落下式ブレーンバスターの体勢から入る。最初は北斗と同様の入り方をしていたが「体にパワースラムのくせがついているし、こっちの方が体重を乗せ易い」との理由で現在のスタイルに変更した。但し、「北斗式」のノーザンライトボムを全く使わなくなったわけではない。
- ストラングルホールド
- 健介の代名詞的なオリジナル技。最近はほとんど「γ」しか出さない。
- α:片腕を押さえつけつつ、相手の頭を上下で両足で挟み込んで絞め上げる技。
- β:相手がうつ伏せの状態で繰り出す、クルスフィックス・ホールド。
- γ:自分の両足を使った羽根折り固め。
- β(オリジナル版):羽根折り固めとほぼ同型。短期間で封印し、後に新型(現行型)のβを開発。
- サソリ固め
- 師匠・長州力からの直伝の技。現在ではほとんど使われることはない。
- 逆一本背負い
- 受身を誤ると肩の脱臼や脳天から落下を招く危険な技。標準的な一本背負いは相手の右腕を自分の右肩に(あるいは相手の左腕を自分の左肩に)かつぐが、逆一本背負いは相手の左腕を自分の右肩にかつぐ。
- 雪崩式フランケンシュタイナー
- 大一番でしか出さない技。
- タイガー・スープレックス
- フリーになってから使うようになった技。あまり出すことは無い。
- ドラゴン・スープレックス
- タイガースープレックスよりも使用頻度が高い。
- フェイスクラッシャー
- 対角線のロープに振る→健介が走りこむ→相手がロープにぶつかる→反動で前に出てきたときに頭をつかんで繰り出す。大体の試合で必ず1回は出す技。馳浩とのタッグ時はダブルフェイスクラッシャー(左右から挟んでのフェイスクラッシャー)になる。
- 鬼嫁殺し
- 中嶋勝彦との連携技。
- 1:ケブラドーラ・コンヒーロの要領で中嶋を振り回し、遠心力で威力を増大させたニールキック
- 2:健介がトルネードボムの体勢で捕らえた相手に中嶋が回転後ろ回し蹴り「R-15」を浴びせる
- 3:ジャーマンスープレックスの体勢で相手をつかんだ中嶋ごと健介がジャーマンスープレックスで投げ飛ばす。
- ボルケーノ・イラプション
- 2004年1月に初披露した新技。ノーザンライトボムのリバース版のようなもの。日本での初披露は同年3月天山の持つIWGPに挑戦した時に使われた。この技は基本的にあまり使われない。
- ドロップ・キック
- 前座時代の得意技の一つで、弾丸のように相手の体に突き刺さる。
- パワースラム
- 馳健~パワーウォーリアー時代に多用した技。現在でも使用しており、日本人レスラー随一の使い手である。
- ローリング・セントーン
- みちのくプロレスに参戦するようになってから、空中戦に対応する為に身に付けた技。健介はトップコーナーから行う。
- STK
- 柔道の大外刈りを発展させた技。略さず言うと(スペース・トルネード・ケンスケ)。これは小川直也のSTOには似ているが、STKは走らずにその場でやる技である。また、小川は相手の首に手を回しているが、健介は顔を掴んでいる。
[編集] 佐々木健介の別キャラクター
佐々木は素顔でのファイトのほか、さまざまなキャラクターでリングに上がっている。その代表が『パワー・ウォリアー』である。
1992年、アメリカ遠征中だった佐々木は、ロード・ウォリアーズのホーク・ウォリアーからの呼びかけでタッグチームを結成、『パワー・ウォリアー』と名乗った。同年11月9日、ミネアポリスでの小興行がデビュー戦で、日本には11月23日の新日本プロレスの両国国技館大会で初上陸(相手は長州力/馳浩組)。程なくスコット・ノートン/トニー・ホーム組を破りIWGPタッグ王座を奪取。1993年8月に奪取されるまで40連勝という、プロレス界の最高連勝記録を打ち立てた。このホークとのタッグはファン公募により『ヘルレイザーズ』と命名され、1990年代の新日を代表する名タッグチームとなった。 余談だが、ヘルレイザースとしての連勝記録を重ねていたころ試合中にフォールされた健介がロープに足をかけ逃れたもののそれに気付かず、タイガー服部レフェリーは3カウントを叩いた。完全にタイガー服部のミスジャッジであったが、「まさかこんな形で連勝が終わってしまうとは」と実況された。ファンもパワー(健介)たちも戸惑う中、ついに「試合を再開します!」と当時の田中リングアナが宣言し、再びゴングが鳴らされ、試合が続行された。
パワー・ウォリアー単独としては、IWGPヘビー級王座に2度挑戦しており、(いずれも王者は橋本真也で、奪取はならず)第4回(1994年)G1クライマックスでは準優勝の成績を残している。また、1997年と2000年にグレート・ムタと対戦(どちらも勝利)。ムタの十八番である毒霧を吹いたこともある。
フリーとなった後はレスラーとしての幅が広がり、闘龍門ジャパン/DRAGON GATE限定で、フロリダブラザーズの一員の「博多生まれのアメリカ人」『ケンスキー佐々木』、みちのくプロレス限定の覆面レスラー『マスクド・ボルケーノ』など普段のファイトスタイルとは全く違った一面をリング上で発揮するようにもなっている。
[編集] 外部リンク
- 健介office(12月14日に株式会社化)
- 佐々木健介「嫁バカ日誌」(佐々木健介のブログ)
カテゴリ: 日本のプロレスラー | 新日本プロレスに所属したプロレスラー | 全日本プロレス | プロレスリング・ノア | 1966年生