闘魂三銃士
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闘魂三銃士(とうこんさんじゅうし)とは、新日本プロレスに同期入門(1984年)し、アントニオ猪木(以下、「猪木」)の愛弟子となった3人のプロレスラー(以降「レスラー」)、蝶野正洋(現新日本プロレス執行役員兼レスラー)・武藤敬司(現全日本プロレス代表者兼レスラー)・橋本真也(故人)の総称。
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[編集] 概要
「闘魂」とは猪木のスローガン、キャッチフレーズであり、現役を引退した後も猪木の代名詞となっている。これに、同期入門で将来を嘱望された3人をアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『ダルタニャン物語』に登場する「三銃士」に見立てて組み合わせ「闘魂三銃士」と命名した。武藤・蝶野・橋本は三者三様のファイト・スタイルだが、闘魂三銃士という括りで猪木の闘魂を継承したイメージを現在もファンから持たれ続けている。しかし、三者がそれをどう捉えているのかは不明(むしろ武藤、蝶野、橋本たちは、猪木云々というよりも、同期の絆をアピールするためにこの括りを利用していた感がある)。
[編集] 三者の関係
三者は同期入門で戦績もそれぞれ多くの功績を残している事から同格(結成当初は格闘技実績のない蝶野がやや遅れを取っていたがG1連覇によって巻き返している)であり、この点は先輩・後輩の関係から三沢光晴を筆頭とする四天王とは異なる。3人の絆は強く、袂を分かった後も連絡を取り合いイベントなどで何度か揃い踏みする事があった。橋本が逝去するまで週刊プロレス選手名鑑のライバルの項目には必ず互いの名前を記していた。三者の関係として、同期入門者としての友情と世代交代(猪木や坂口征二の世代、藤波辰爾や長州力の世代を超えること)を目標に切磋琢磨した良きライバル関係であった。
同期入門であるが、年齢的には武藤が一番年上で、蝶野、橋本の順番であるため、リング外で蝶野は「武藤さん」「橋本選手、橋本クン、ブッチャー」と呼んでいる。一番年下の橋本は「ムトちゃん」「蝶野」と呼んでいた。
[編集] 歴史
この三人が売り出された背景には、長州力を中心とする当時の主力レスラーが集団離脱して全日本プロレスに主戦場を移したことにより新日本プロレス所属のレスラーが減少し、若手レスラーが看板レスラーへ成長することが急務だった事情が挙げられる。
海外武者修行から凱旋帰国した三人は、1988年7月29日有明コロシアムにおいて闘魂三銃士として初めて藤波辰爾・木村健吾・越中詩郎組とタッグマッチで対戦(この時の入場テーマ曲は、当時武藤のテーマ曲だった『ファイナルカウントダウン』。結果は藤波の反則による反則勝ち)。試合内容で圧倒したことでファンの支持を得ると共に、世代交代のアピールに成功した。
1990年代は、G1 CLIMAXやIWGPヘビー級王座の試合で各々がシングルマッチで対戦。人気、実力共に新日本プロレスの看板レスラーとして不動の地位を確立したが、蝶野が現場で主導権を握るようになってからは三者別々の道を模索するようになる。
この3名のうち、2005年9月現在新日本プロレスに残っているのは蝶野だけである。橋本真也は2000年に11月13日に新日本プロレスから解雇されZERO-ONE(後のZERO1-MAX)を旗揚げ、2005年7月11日に逝去した。武藤敬司も2002年1月31日に新日本プロレスを退団し、以後全日本プロレスの代表となっている。
[編集] その他
ジャイアント馬場(以降「馬場」)の愛弟子であった、あるいは「馬場の遺産」ともいわれている「プロレス四天王」と常に対比され、「馬場対猪木」のプロレス対戦が実現しなかったために、古くからのプロレスのファンの中では、「闘魂三銃士・対・四天王」戦がより多く実現することを望む声も多いとされる。近年では「橋本vs三沢光晴」「蝶野vs三沢」「蝶野vs小橋建太」「武藤vs三沢」などの対決が見られるようになったが、既に互いにプロレスラーとしての全盛期を過ぎた感は否めなかった。
後継ユニットとして野上彰(現:AKIRA)、飯塚高史、エル・サムライが「闘魂トリオ」、中西学、永田裕志、石澤常光(現:ケンドー・カシン)が「アマレス三銃士」として売り出されたが定着するには至らなかった。
パンクラスで船木誠勝の弟子である近藤有己、國奥麒樹真、渋谷修身の3人が「ハイブリッド三銃士」として売り出されたがこれも定着しなかった。
21世紀に入り、棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼の三人が会社主導にて「新・闘魂三銃士」と呼ばれるようになったが、三者三様がそれぞれ互いに遺恨を持っており、柴田が新日本プロレスを退団したことにより現在は立ち消えとなっている。