三遊亭圓楽 (5代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である。](../../../upload/shared/thumb/3/31/3tachibana_001.png/180px-3tachibana_001.png)
5代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1933年1月3日 - )は、東京都台東区生まれの落語家。実家は日照山不退寺易行院(通称助六寺)。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型はAB型。かつて人気演芸番組『笑点』(日テレ)の回答者・司会者を勤めていたことで知られる。
若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝死去後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は「元禄花見踊り」。
8代目林家正蔵は圓楽を気に入っていたので、5代目「三遊亭圓楽」を襲名させた。圓楽の師匠三遊亭圓生と8代目林家正蔵は最後までそりが合わないことで知られていた。
またこの時代に発売したレコード『円楽のプレイボーイ講座』は、ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。ちなみに、クレイジーケンバンドのボーカル・横山剣は少年時代にこの曲から現在に通じる音楽観、その影響を大いに受けたと語っている。また、この頃よりアメリカのパンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。
目次 |
[編集] 主な人柄、経歴
- 麻雀の腕前はプロ級である。ちなみに、行きつけの雀荘は旧日テレ本社ビル近く・二番町にあるサラブレッド。これが故で、馬面も相成って楽太郎に馬扱いされる事があった。
- 上記の事項ではずぶの素人が「図書券が家にあるけど、どぉ?」と誘われたら最後と玄人筋が戦々恐々するほどの「雀鬼」であり事実自宅での賭け麻雀で負かした者は誰もなく必ずすっからかんになるとの事。本人曰く「ケツの毛まで抜かれる運命よ、ガハハハハ…」
- 読売ジャイアンツのファンであり、自宅にはジャビットの絵が描かれた扇子を持っている。
- 血圧はかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかないという。
- 鳥取城攻防戦で有名な吉川経家の末裔を自称している。
- 1972年6月14日に起こった日本航空ニューデリー墜落事故で、実妹を亡くしている。
[編集] 経歴
- 1955年(昭和30年)2月 - 六代目三遊亭圓生に入門、入門当時は「三遊亭全生」(-ぜんしょう)と名乗る
- 1958年(昭和33年)3月 - 二つ目昇進。
- 1962年(昭和37年)10月 - 真打昇進で「五代目 三遊亭圓楽」を襲名。ちなみに「三遊亭圓楽」は林家彦六(※8代目林家正蔵)が蝶花楼馬楽を名乗る前に使用していた高座名(※彦六は3代目)で彦六から気に入られていた事を垣間見せるエピソードとして有名。ちなみに彦六は圓楽の師匠6代目三遊亭圓生とはそりが合わなかった。
- 1966年(昭和41年)5月 - 『笑点』放送開始。第1回より出演。
- 1969年(昭和44年)4月 - 『笑点』降板。
- 1970年(昭和45年)6月 - 『笑点』復帰。
- 1977年(昭和52年)3月 - 『笑点』卒業。
- 1978年(昭和53年)5月 - 落語協会の真打乱造問題で師匠の圓生と共に他の協会員を率いて落語協会を脱退し、「落語三遊協会」を創設。
- 1979年(昭和54年) - 圓生の死去により圓楽一門以外は全員落語協会に復帰。「大日本落語すみれ会」に名称変更。
- 1983年(昭和58年)1月 - 4代目司会者として『笑点』復帰。
- 1985年(昭和60年) - 「大日本落語すみれ会」を、「落語円楽党」、「落語ベアーズ」と次々と改称し、「円楽一門会」に落ち着く。
- 私財をなげうって東京都江東区東陽に寄席「若竹」を昭和60年3月に開くが、経営難から平成元年11月に閉館。
- 2005年(平成17年)5月 - 六人の会が主催した「余一会」で27年ぶりの末広亭出演。
- 2005年(平成17年)10月 - 人工透析のため通院していた病院で脳梗塞の症状が現れたため入院。
- 2006年(平成18年) 5月 - 『笑点』勇退。
[編集] 笑点四代目司会者
歌丸やこん平ともに第1回放送からのメンバーである。1977年3月27日に落語に専念するため番組を卒業したが、1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。司会は当初は2回限りの臨時司会であった。
就任してしばらくは回答の合間にその博識を生かした都都逸をよく披露していたが、時間の短縮や、笑点大喜利のスタイルの変化から、出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。
歴代司会者としては最長寿記録を更新していたが、2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を一時降板することとなった。2006年1月1日放送の新春14時間特番「大笑点」の終盤で、久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月18日から笑点の収録に復帰したものの、やはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に降板した。
『徹子の部屋』(テレビ朝日、2006年6月5日放送)にて、落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また2006年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵の応援としてVTR出演した。
[編集] 大喜利でのキャラクター
歌丸曰く「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、楽太郎、好楽ら弟子はもちろん他の落語家からも尊敬されているが「司会がうまい」などの皮肉も聞かれる。落語家に向かって司会がうまいと言うのは純粋な褒め言葉ではなく、裏に「落語は司会ほどうまくない」という含みがある。
- 解答者時代初期は挨拶の際「湯上がりの顔です」と言っていた。その後はおなじみ「星の王子さま・三遊亭圓楽です」に。
- 解答者時代から行きつけの雀荘である「サラブレッド」や顔が縦に長いため「馬ヅラ」と頻繁に揶揄されている。
- 媚に弱く、解答者が圓楽を称えるヨイショを答えると「山田君、座布団持ってくるのが遅いんだよ!」と怒る。
- 「ガハハ!」という豪快な笑い声が特徴で、木久蔵が与太郎(=バカ)ネタを披露すると決まって大笑いした後「バカだねぇ~」とあきれる。また、歌丸が木久蔵の与太郎(=バカ)ネタを披露されたのを嘆き「ね、ね。換えようよぉ~バカがうつるよぉ~」と訴えられると「我慢しなさい。木久ちゃんはあれが持ち味なんです。」とたしなめる。
- 外来語の発音にこだわる。「チーム」は、「"ティ"ーム」と発音する。対して、日本語の発音は不明瞭な場合が多々ある。『笑点』でも、「山田君、座布団一枚上げて下さい」と言う指示が、「上げて"くさい"」と聞こえる。但し、これは「あげて”つかあさい”(下町言葉で~して”ください”)」が詰まって、そう聞こえているとも考えられる。
- メンバーの呼び方も、長幼の序や自分との関係を重視してか、歌丸には「歌さん」木久蔵には「木久ちゃん」こん平には「こんちゃん」と呼ぶ事があるが、他のメンバーには亭号抜きの「**さん」と呼ぶ。特に弟子の好楽・楽太郎には顕著である(司会担当当初、楽太郎は呼び捨てにしていた)。
- 指名してから名前が出るまでに(明らかに名前が出て来ない)間が空くことや新メンバー(当時はこん平の代理)の林家たい平に「誰だっけ?」と名前を忘却したことなどが大喜利のネタとされた。
- 他にも、司会奪還、居眠りや若竹などがネタとなる(特に歌丸や楽太郎、降板した今現在でも使用している)。
- オープニングで憲法改正やサマータイム導入を訴えるなど、保守派的発言もたびたび見られた。
[編集] 弟子
(香磐順) 圓楽一門の弟子は100を超えるとも言われている。
- 三遊亭鳳楽
- 三遊亭好楽
- 三遊亭圓橘
- 三遊亭楽太郎
- 三遊亭楽之介
- 三遊亭貴楽
- 三遊亭小圓楽
- 三遊亭喜八楽
- 三遊亭五九楽
- 三遊亭楽麻呂
- 三遊亭円左衛門
- 三遊亭道楽
- 三遊亭栄楽
- 三遊亭とん楽
- 三遊亭楽春
- 三遊亭洋楽
- 三遊亭真楽
- 三遊亭竜楽
- 三遊亭良楽
- 三遊亭愛楽
- 三遊亭京楽
- 三遊亭全楽
- 三遊亭神楽
- 三遊亭上楽
- 三遊亭福楽
- 三遊亭大楽
- 三遊亭王楽(三遊亭好楽の息子)
※現在門下のみ。孫弟子は円楽一門会を参照。
[編集] 関連項目
- 笑点
- 三遊亭圓窓(弟弟子)
- 落語家一覧
- ボンさん
- 「御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち」 著者:三遊亭圓丈(圓楽の弟弟子)
- 日本航空ニューデリー墜落事故