マルコによる福音書
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マルコによる福音書(―ふくいんしょ、ギリシャ語: Κατά Μάρκον Ευαγγέλιον ラテン語:Incipit Evangelium secundum Marcam、英語:The Gospel According to St. Mark)は新約聖書中の一書。ヒエロニムス以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る「マタイによる福音書」の次におさめられ、以下「ルカによる福音書」、「ヨハネによる福音書」の順になっている。執筆年代としては伝承でペトロの殉教の年といわれる65年からルカ福音書の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。「マタイによる福音書」、「ルカによる福音書」と共に「共観福音書」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。呼び方としては「マルコの福音書」、「マルコ福音」、「マルコ伝」などがあり、ただ単に「マルコ」といわれることもある。
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[編集] 著者について
マルコによる福音書(以下マルコ福音書)本文には著者を同定する手がかりは何もない。しかし、2世紀のパピアス以来、第二福音書(マルコ福音書)の著者はペトロの通訳を務めた弟子で、ペトロからイエスの生涯について聞き取ったマルコであるとされてきた。もしこの伝承が史実なら、マルコはイエスを直接知る人々からイエスについての証言を聞いたことになる。残念ながらパピアスの資料は現存しておらず、カイサリアのエウセビオスの以下のような引用によってのみ知られている。
- 長老たちによれば、マルコはペトロの通訳になり、ペトロの記憶していたことを忠実に記録したという。しかし、それは決してイエスの生涯における時間の流れに正確に沿ったものではなかった。マルコ自身はイエスに会ったことはなく、ペトロからイエスについて聞いたのである。しかしペトロの言葉も聴く人々のその時々の必要に応じたものであって、決してイエスの言葉を体系的にまとめることを意図していなかった。マルコ自身に関していうなら、彼はペトロから聞いたことを忠実に記録し、決して自ら加筆修正することはなかった。
エウセビオスの引用をよく読むとマルコの記録したものは単なるイエスの言葉などであって決して福音書のようなまとまったものでなかったことがわかる。この記述からはマルコが福音書を書いたということを結論することは難しい。2世紀のアレクサンドリアのクレメンスから20世紀前半にいたるまで、マルコ福音書がローマで書かれたというのが定説であったが、数十年の間に疑義が呈され、現在ではおそらくシリアのどこかであるというのが新しい定説になっている。ローマ説の根拠はマルコ福音書のギリシャ語にラテン語の影響が見られることであったが、それはローマ帝国内であればどこでも言えることである。それ以上にパピアスのいうマルコが誰なのかということがよくわからないという問題がある。『ペトロの第1の手紙』5:13でも協力者マルコについて言及されているが、マルコというのは1世紀では非常にありふれた名前だったのである。
マルコ福音書ではガリラヤの地理に関する記述で混乱や誤りが見られる。これは著者あるいは著者に情報を提供したものがガリラヤの地理に明るくなかったことを意味しており、その点でもペトロの情報をもとにしたとはいいがたい。また、もう一つの根拠であったローマでのキリスト教徒への迫害との関連でも、迫害は散発的にローマ以外でも起きていた ため、根拠にはなりがたい。結局、マルコ福音書の著者が誰でどこで書かれたのかということに関してはなんら決め手がないのである。
[編集] 成立年代
マルコ福音書本文からは成立年代をうかがわせるものはほとんどない。本文の中で「小黙示録」といわれる箇所(13:1-2)を紀元70年のエルサレム陥落と結びつけて70年以降の成立とみるのが伝統的な解釈であった。しかし現代の聖書学者たちはルカやマタイの神殿預言とも比較した上で、マルコ福音書の成立年代を70年~73年ごろに確定することは難しい と見る。現代で主流となっているのは65年~70年ごろの成立という説である。他にもそれ以前とかそれ以降という説もあるが、少数意見にとどまっている。
[編集] 執筆対象
伝承では、マルコ福音書はラテン語を母語とするヘレニストの著者によってローマ帝国内のギリシャ語話者を対象に書かれたと考えられてきた。その理由としてユダヤ教の習慣が非ユダヤ教徒向けに解説されていること(たとえば7:1-4など)、アラマイ語の単語に解説がつけられていること(たとえば5章41節「タリタ・クム」、14章36節「アッバ」など )。また他の福音書にはみられないラテン語的なギリシャ語表現が含まれていること(たとえば12章42節「コドゥランテース」(κοδραντης))などであり、これらのことからマルコ福音書の著者はギリシャ語を外国語として用いたと考えられてきた。
著者がヘレニストであるということは文章表現だけでなく、文章の内容からも推察できる。たとえば、サンヘドリンが陰謀をめぐらしてイエスに罪を着せ、処刑に陥れたというくだりは後世において反ユダヤ主義の論拠として利用された。また、ファリサイ派を徹底的に悪者として描く筆致からも明らかに対象が非ユダヤ人、もしくはヘレニズムの影響を強く受けたアレクサンドリアなどのユダヤ人などであることがわかる。さらにマルコ福音書の著者は他の共観福音書と同様に旧約聖書を七十人訳聖書から引用している。ただ、上記のようなことからマルコ福音書が単純に反ユダヤ的色彩を持っていると言い切るのは単純すぎる。福音書の中でイエスの姿は伝統的なユダヤ教の救世主観にそって描かれていることを忘れてはならない。
[編集] 資料について
マルコ福音書を分析すると、もともと口述されたものであったことをうかがわせる部分がある。たとえば「すぐに」(ユートゥース)という言葉が40回近く使われているが、これは他の福音書ではあまりみられない。「すぐと」いう表現は、ギリシャ語に特有の過去のことを現在法で記述する「歴史的現在」という用法と関連があり、口語表現の顕著な特徴である。また、「再び」(パリン)という言葉も話をつなぐために使われることが多いことや、「読者は理解せよ」という13章14節で突如あらわれる著者からの呼びかけなどからももともと口述されたものを記録したものであると思わせる表現は多い。
現在の福音書研究者の間で主流となっている学説は「二資料仮説」といわれるものである。これは現在の「マタイ福音書」と「ルカ福音書」が共に「マルコ福音書」およびイエスの言葉資料「Q資料」をもとにして書かれたという説である。そこで起こるのは、ではマルコ福音書は「Q資料」を参照しているのか?という問題である。もともと「Q資料」というものの存在が想定されたのは、マルコ福音書にない記述でルカ福音書およびマタイ福音書にはあるイエスのことばの資料をどう考えるかということからである。そう考えるとマルコ福音書は「Q資料」を参照している可能性は低いことになるが、研究者によってはマルコ福音書の中にも「Q資料」の影響を見ているものもあり、現在でも議論が続いている。
[編集] マルコ福音書に見られる特徴
マルコ福音書には他の特徴とは異なっていくつかの特徴がみられる。いかに主なものをあげる。
- マルコでは、マタイやルカにあるようなイエスの系図や幼年時代、あるいは洗礼者ヨハネの誕生に関する物語が一切なく、イエスの公生活から始まる。
- イエスはみずからを「人の子」と呼ぶ。これはマルコのキリスト論の核心を示す表現とも言える。イザヤ書52章から53章の「苦しむ僕」の箇所にあらわれる「人の子」との共通点も指摘される。マルコがイエスを「苦しむ僕」と結びつけ、栄光に入ることを示唆するように、キリスト教徒に対して迫害に耐えるよう励ます意図があると考えられる。
- 1:12-13の「荒れ野での誘惑」ではサタンは登場しない。
- 2:27「人が安息日のためにつくられたのでなく、安息日が人のためにつくられた」というイエスの言葉は過激すぎると思われたのか、マタイとルカの並行箇所ではカットされている。
- 3:21ではイエスの家族が、イエスの気が狂ったと考えた。
- 共観福音書の中でたとえ話が12ともっとも少ない。
- 5:13の悪霊がぶたの群れにのりうつる話でマルコのみが二千頭という数字を記す。
- 6:3では福音書の中で唯一、イエスが「マリアの子」であると記述される。
- 女性が癒される話が二つ続くが、どちらでも12という数字が用いられる。(5:25、5:42)
- 6:9-10で弟子を派遣する際に「杖とはきもの」の携行を許すが、マタイとルカの並行箇所(9:3、10:4)ではそれらも許されない。
- 6:14-29にヘロディアの娘と洗礼者ヨハネに関する話の最も長いバージョンを含む。
- 7:33ではイエスが指につばをつけて癒す。
- 8:22ではイエスは目の見えない人をいやすために二度手をおかなければならなかった。
- 「メシアの秘密」というモチーフ(1:32-34、3:11―12)はマルコのみ現れる。悪魔たちはイエスが神の子であることを知っている。
- ヨハネ福音書などと違い、「イエスの愛する弟子」は存在しない。
- マルコ福音書では使徒たちですらイエスが誰なのかよくわからない。
- 共観福音書で唯一、「主の祈り」がない。
- 14:51でイエスの捕縛時、一人の若者が裸で逃げていく。
- 14:56ではイエスへの偽証はことごとく失敗する。
- 14:62ではイエスははっきりと自分がメシアであることを宣言。
- 14:72では鶏は「二度」鳴いた。
- 15:17ではイエスは王であることを示す紫の服を着せられる。マタイの並行箇所(27:28)では兵士に支給されていた赤いマントを着せられる。
- 15:21ではキレネのシモンの息子たちの名前が記されている。
- 15:44では百人隊長がイエスの死を確認する。
- 16:3では女性たちが「誰が墓石を転がしてくれるだろう」といいあう。
- 16:5では若い人が右手に座っている。
- イエスの墓で空であることを知った女性たちは恐れて誰にも言わなかった。
- 16:18では復活したイエスが弟子たちに蛇をつかみ、毒を飲んでも害がないという。
[編集] マルコ福音書の位置づけ
共観福音書では一般的にマルコが最初に書かれ、後でマタイとルカが書かれたと考えられるが、この説が初めて登場したのは1786年のことであり、19世紀後半になるまでほとんど支持されなかった。それまでは伝承にしたがってマタイ福音書が最初に書かれ、新約聖書の初めに収められたと考えられていた。近代に入って聖書学が進展しても、やはりアラマイ語版のマタイ福音書が最初に成立したという説が根強い支持を受けていた。マタイのアラマイ語版に関する論議を別にすれば、現代の聖書学で最も支持されるのは「二資料仮説」といわれるもので、マタイ福音書とルカ福音書がマルコ福音書とQ資料とよばれるイエスの言葉資料をもとに成立したという仮説である。
[編集] マルコ福音書の変遷の問題
マルコ福音書はもともと短い福音書であるが、古代のコーデックスや巻物の形では最初の部分と最後の部分は構造上失われやすかった。また、原文を書き写していく過程でさまざま異同が生じてくるため、そこからいくつかの問題が起こってくる。
たとえば、写本の中には冒頭に「神の子」という言葉がついているものとついていないものがあるため、ある人々は「神の子」という部分が加筆されたのではないかと見るものもある。また、写本の比較によって明らかに後世の加筆と考えられる部分もある。たとえば7:16の「聞く耳のあるものは聞きなさい」という一節がそうである。
マルコ福音書の変遷に関してもっとも大きな問題は、結末部分(16:9-20)の問題である。そこには復活したイエスと弟子たちが出会い、イエスが天に昇る話が描かれるが、古い写本には含まれておらず、3世紀の神学者オリゲネスが福音書の復活物語を論じたときも他の福音書からは引用しているにもかかわらず、マルコからは一切引用していない。このことは結末部分が3世紀以前には存在しなかったことを示している。
現在ではこういった研究から、16:8が本来のマルコ福音書の結末であり、「メシアの秘密」をモチーフとした表現で締めくくっているとみる見方が主流になっている。