フランツ・リスト
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フランツ・リスト
- ドイツの音楽家。以下に解説する。
- 1.の従弟。フランツ・フォン・リスト。ドイツの法学者。
- 1.と全く同名の叔父。ドイツのヴァイオリニスト。1788年キットゼー生まれ。
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フランツ・リスト(Franz Liszt, 1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリー生まれのドイツ人音楽家で、今日では特にピアニスト・作曲家として知られる。当時随一のピアノ音楽の巨匠であり、演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われている。また交響詩の創始者としても知られる。 |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生まれ、国籍
生地ドボルヤーン(ライディング)は当時ハンガリー王国領であったが、現在この地方はオーストリア共和国ブルゲンラント州となっている。父アーダム・リストはオーストリア(ドイツ)系ハンガリー人でハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えており、母アンナはオーストリア人であった。
家名の本来の綴りは List で、Liszt とはそれをマジャル語(ハンガリー語)化した綴りである(マジャル語では“sz”の綴りでs音を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc/Ferencz)であるが、リスト自身はこのハンガリー名を一度も使ったことがない。
リストは自らをハンガリー人だと称していたが、ハンガリー人からは一種の衒いと受け止められていた。また、同時代人であるシューマンからはドイツ人と認識されていた。 「ハンガリー狂詩曲」は、彼の祖国への愛着から作曲されたものだが、実際はロマによって編曲された演奏に取材しており、彼らに対して強い差別意識を抱くハンガリー人にとって、これをハンガリー音楽と混同されることには強い反発があった(後にバルトークはこれを厳しく批判している)。 今日のハンガリーでは、同国の音楽の中興に尽くした功労を評価され、名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。
かつては自称通りハンガリー人音楽家として記述されることが多かったが、民族としてのマジャル人の血をまったく引いていないことや、生涯マジャル語(ハンガリー語)を話せなかったことなどを勘案し、今日では多くの音楽辞典がドイツ人として記述する。なお、同じくハンガリーのドイツ人植民の子として生まれた作曲家には後年のフランツ・レハールがいるが、こちらは活躍の拠点がウィーンであったこと、チェコ、スロバキアなどとも縁が深いこと、オーストリアがドイツ連邦から離脱した後の生まれであることなどから、オーストリア人として記述されることが多い。
[編集] ピアニストとしてのリスト
リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては比類なき能力を誇っており、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないとすら言われている。その余りある技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていた。 ちなみにショパンの練習曲作品10だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが練習曲作品10を献呈したという話は有名である。
当時無名であったエドヴァルド・グリーグは書き上げたピアノ協奏曲イ短調の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。
同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の「ピアノとオーケストラのためのバラード」を初見で弾き「手が足りない! 」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを見て初見で完璧に弾きこなし、メンデルスゾーンをして「人生の中で最高の演奏だった」と言わしめたほどの演奏をしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり、「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどんな曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。
幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたと言う。彼の曲には両手を広げて4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。彼の技術の高さがうかがえる一面でもある。
[編集] 作曲家としてのリスト
音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。
自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群はほとんど全てのジャンルの音楽に精通しているといっていいほど多岐にわたる。
彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830~1850年ごろ)、ワイマール時代(1850年ごろ~1860ごろ)、晩年(1870年ごろ~没年)と三つに分けられる。ピアニスト時代はオペラパラフレーズなどの編曲作品を中心に書いた。このころの作品はリストは現役ピアニストだったため自身のテクニックを披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要する曲が多く存在する。ワイマール時代はピアニストから一線を退き、作曲家としてもっとも活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。テクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。晩年になると音楽は彼がよく作っていた10分以上の長大な曲は減り、徐々に曲は短くなり無調傾向になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ワイマール時代にくらべると同じ作曲家が作ったとは思えないほど深い音楽が増える。とくに1880年以降は5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に「無調のバガテル」で長年求め続けた無調音楽を完成させ、音楽史上もっとも後世に影響を与えた作曲家の最後の偉業となった。
[編集] 生涯
幼少時から音楽に才能を現し10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、カール・ツェルニーやアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の院長ルイジ・ケルビーニは、リストが外国人であるという理由で入学を拒否(ケルビーニ自身はイタリア人だった)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事。パエールの手助けにより翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。
1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人に、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンがいて親交が深く、またベルリオーズやショパンからは音楽的にも大いに影響を受けた。
ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(ダニエル・ステルンのペンネームで作家としても有名であった)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行ののち、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その1人がのちに、指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。
マリーと別れた後、再びピアニストとして全ヨーロッパを席捲したが、1848年にヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。当地でカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋し同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだがついに認められなかった。しかし彼女の助言もあってリストはヴァイマルで作曲に専念し、後世に残る作品が世に出された。
1861年にリストはローマで僧籍に入る。それ以降、『2つの伝説』などのようにキリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、次第に作品からは調性感が希薄になっていき、1877年の「エステ荘の噴水」はドビュッシーにも影響を与えた。そして、1885年についに「無調のバガテル」で無調を宣言するまでに至ったが、シェーンベルクらの12音技法とは違い、スクリャービンやメシアンと同じような旋法的な作品である。この作品は長いこと存在が知られていなかったが、1958年にようやく発見された。
リストは、晩年には虚血性心疾患、慢性気管支炎、鬱病、白内障に苦しめられた。それは晩年の自筆譜の音符が大きく書かれていることなどから伺える。晩年のシンプルな作品は、彼が病気に悩まされた苦悩の表れとも言うべき作品が数多く存在している。
リストは1886年、バイロイトでワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞(おそらく肺炎ではない)と心筋梗塞で亡くなり、バイロイトの墓地に埋葬された。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァンフリート館の一部などともに崩壊し、現在では一枚の石板が置かれている。
[編集] リスト作品リスト
リストの作品は同じ曲でも1稿、2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在は彼の作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードのリストピアノ曲全集はその代表例である。ちなみにこの全集を全部集めるとなんと全57巻CD95枚、延べ117時間、1377トラックにもなり、CD一枚あたりの録音時間は70分を超えるものがほとんど。(ちなみに後にリリースされた補遺1巻、2巻は計算に入れていない。)
彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号 (S.) と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号 (R.) の二つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。
[編集] 管弦楽曲
[編集] 交響曲
- 三人の性格描写を持つファウスト交響曲 (Faust-Symphonie in deri Charakterbildern) S108, R425 (1854) [約80分]
- ダンテ交響曲 (Dante-Symphonie) S.109 (1855-56) [約50分]
[編集] 交響詩
リストは標題音楽に交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日「前奏曲」以外、演奏されることはまれである。
- 「人、山の上で聞きしこと(山岳交響曲) (Ce qu'on entend sur la montagne (Berg-Symphonie) ) 」 S.95, R.412 (1948-56) [約30分]
- 「タッソー、悲劇と勝利 (Tasso, lamento e trionfo) 」 S.96, R.413 (1848-54) [約21分]
- 「前奏曲 (Les préludes) 」S.97, R.414 (1848-53) [約15分]
- 「オルフェウス (Orpheus) 」S.98, R.415 (1853-54) [約11分]
- 「プロメテウス (Prometheus) 」S.99, R.416 (1850-55) [約13分]
- 「マゼッパ (Mazeppa) 」S.100, R.417 (1851-54) [約16分]
- 「祭典の響き (Festklänge) 」S.101, R.418 (1853) [約20分]
- 「英雄の嘆き (Héroïde funèbre) 」S.102, R.419 (1849-54) [約27分]
- 「ハンガリー (Hungaria) 」S.103, R.420 (1854) [約23分]
- 「ハムレット (Hamlet) 」S.103, R.421 (1858) [約14分]
- 「フン族の戦い (Hunnenschalacht (Battle of the Huns) ) 」S.105, R.422 (1857) [約15分]
- 「理想 (Die Ideale) 」S.106, R.423 (1857) [約27分]
- 「ゆりかごから墓場まで (Von der Wiege bis zum Grabe) 」S.107, R.424 (1881-82) [約14分]
[編集] ピアノと管弦楽のための作品
- ピアノ協奏曲第1番変ホ長調 S.124, R.455 (1849)
- ピアノ協奏曲第2番イ長調 S.125, R.456 (1839-61)
- 呪い S.121 (1830ころ)
- ハンガリー幻想曲 S.123 (1852ころ)
- 死の舞踏 S.126, R.457 (1849-59) : 怒りの日(ディエス・イレ)を主題としている
[編集] ピアノ曲
[編集] オリジナル作品
- ピアノソナタ ロ短調(S178/R21)
- 超絶技巧練習曲(S139/R2b)
- パガニーニによる大練習曲(S141/R3b)
- 3つの演奏会用練習曲(S144/R5)
- ため息
- 巡礼の年
- 巡礼の年 第1年:スイス(S160/R10a)
- 巡礼の年 第2年:イタリア(S161/R10b)
- 巡礼の年 第3年(S163/R10e)
- ヴェネツィアとナポリ(初稿(S159/R10d)、改訂稿(S162/R10c))
- バラード第1番変ニ長調(S170/R15)、第2番ロ短調(S171/R16)
- 慰め(R172/S14)
- 詩的にして宗教的な調べ(S173/R14)
- 2つの伝説(S175/R17)
- ハンガリー狂詩曲(S244/R106)(全19曲。第2番が最も有名)
- 愛の夢、3つの夜想曲(S541/R211)
- 4つのメフィスト・ワルツ
- 無調のバガテル(S216a/R60c)
- スケルツォとマーチ(S177)
- 即興円舞曲(S213, 改訂稿:S213a)
- 暗い雲
[編集] 編曲
- ベートーヴェンの交響曲(9曲)(S464/R128)
- ベルリオーズ:幻想交響曲(S470/R134、136)
- サン=サーンス:交響詩『死の舞踏』(S555/R240) (リスト自身の「死の舞踏」と混同しないこと)
「ラ・カンパネッラ」で有名な「パガニーニ大練習曲」はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品なので、通常は編曲とは看做さずオリジナル作品に分類する。 ただしパガニーニ練習曲の前身である『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』(S420)は編曲作品とみなす。
[編集] 大作
リストの曲は10分を超える長大な曲が非常に多い。しかし一般的に大作と呼ばれるのはその中でもごく一部である。
以下の曲がその代表例である。
- ピアノ・ソナタ ロ短調(S178) (演奏時間30分程度)
- 巡礼の年 第1年 第6番「オーベルマンの谷」(S160/6) (演奏時間12~15分程度)
- 巡礼の年 第2年 第7番「ダンテを読んで~ソナタ風幻想曲」(S.161/7) (演奏時間16分程度)
- 巡礼の年 第3年 第4番「エステ荘の噴水」(S163/4) (演奏時間8分程度)
- バラード第2番ロ短調 (演奏時間12~15分程度)
- スケルツォとマーチ ※1 (演奏時間12~16分程度)
- 大演奏会用独奏曲 ※2 (演奏時間18分程度)
- 「ドン・ジョヴァンニ」の回想(原曲:モーツァルト) (演奏時間15~19分程度)
- 「ノルマ」の回想(原曲:ベッリーニ) (演奏時間15~18分程度)
※1、2はリストの作品の中でもマイナーな曲であるが、後に完成するピアノ・ソナタロ短調を思わせる循環の手法が見られる。そのためピアノ・ソナタ完成への足がかりなどと見られることが多く、近年注目が高まりつつある。そのため演奏会や音源でも取り上げるピアニストは急激に増えている。
[編集] 主な弟子一覧
- フランツ・リスト
- ハンス・フォン・ビューロー
- ハインリヒ・バルト
- オイゲン・ダルベール
- アルベルト・フランツ・ドップラー
- モーリッツ・モシュコフスキ
- ヨゼフ・ホフマン
- トーマス・ビーチャム
- ワンダ・ランドフスカ
- ヴラド・ペルルミュテール
- アレクサンドル・ジロティ
- ヴィルヘルム・バックハウス
- セルゲイ・ラフマニノフ
- ニキータ・マガロフ
- エミール・フォン・ザウアー
- エリー・ナイ
- *アレクサンダー・ブライロフスキー
- フェリックス・ワインガルトナー
- カール・タウジヒ
- モーリツ・ローゼンタール
- ユリウシュ・ザレンプスキ
- ハンス・フォン・ビューロー
リストと同門には名教師テオドル・レシェティツキがいる。リストとレシェティツキとでは弟子の取り方に違いがあり、レシェティツキは「来る者は拒まず」然で弟子をどんどん採った(多く採りすぎて、大半は助手が教えていた)のとは対照的に、リストは才能を感じる者だけを弟子として採っている。
[編集] 著作
- 『F. ショパン F. Chopin』 ショパン亡き後の1851年にパリで出版。彼の作品や生涯について、彼の故郷であるポーランドの風俗や国民性を参照しながら語ったもの。日本語版として『ショパンの芸術と生涯』(蕗沢忠枝訳 / モダン日本社 / 1942)と『ショパン その生涯と芸術』(亀山健吉、速水冽訳 / 宇野書店 / 1949)の2種類がある。
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