ジャン=ポール・サルトル
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ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905年6月21日 パリ、フランス - 1980年4月15日 パリ)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家、評論家。事実上の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。強度の斜視があり後に右目を失明。
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[編集] 生涯
1905年6月21日、パリ16区に生まれる。二歳のときに海軍将校であった父と死別し、母方の祖父であるシャルル・シュヴァイツァー(ノーベル賞受賞者であるアルベルト・シュヴァイツァーの叔父)の家に引き取られる。シャルルはドイツ語の教授であり深い教養を持ち、サルトルの学問的探究心を刺激した。
パリのブルジョワ知識人階級の中で育ったサルトルは、その後1915年、パリの名門リセであるアンリ4世校、ルイ・ル・グラン校で学ぶ。このころ、ポール・ニザンと知り合う。しかし母の再婚(再婚相手は当時工場長であったジョゼフ・マンシー)にともない、1917年にはラ=ロシェルの高等中学校に転校することとなる。 しかしサルトルは転校先のラ=ロシェルにうまく溶け込むことができず、後に、挫折の年月と述懐している。この時期のエピソードとしては、母の金を盗んだことで祖父から見離されたことや、美少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことなどが知られる。 こうしたラ=ロシェルでの「悪い影響」を案じた家族により、1920年には再びアンリ4世校に転校する。ポール・ニザンに再会。
1923年、ニザンとともに刊行した同人雑誌「無名誌」(Revue sans titre)に、短編小説『病める者の天使』を発表。1924年に高等師範学校 (École Normale Supérieure) 入学。1928年にアグレガシオン(1級教員資格)試験に落第。サルトルを知るものはみな驚くが、翌年首席で合格した。このころ、生涯の伴侶となるボーヴォワールと知り合い、1929年には二年間の契約結婚を結んでいる。
1935年に、友人の医師ラガッシュによってメスカリン注射を受ける。この際に全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われ、以降も幻覚を伴う鬱症状に半年以上悩まされることになる。
レイモン・アロンとの会話によりフッサールの現象学に興味を持ちエマニュエル・レヴィナスの博士論文『フッサール現象学の直観理論』 (La théorie de l'intuition dans la phénoménologie de Husserl) を読み、ベルリンに留学した際にはフッサールに学ぶ。その後、1936年から1939年にかけてル・アーヴルやパリで教鞭を執る傍ら、哲学・文学両面にわたる執筆活動を行い、1938年には小説『嘔吐』を出版し、名声を博した。
第2次世界大戦のために兵役召集されるが、捕虜となったのち、1941年に偽の身体障害証明書によって収容所を釈放される。1943年、主著『存在と無』を出版。『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と打たれているとおりにフッサール現象学、精神分析学、そしてハイデッガーの存在論に色濃く影響されている。こうした評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。
徐々にサルトルはマルクス主義に傾き、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー・ポンティとの決別の原因となった。次第に構造主義が台頭しはじめ、サルトルの実存主義は思想的に退潮していく。
その後、サルトルはアンガジェ/アンガージュマン(政治参加もしくは社会参加)の知識人として、自らの政治的立場をより鮮明に打ち出し、アルジェリア戦争の際には独立を目指す民族解放戦線 (FLN) を支持する。また、ソ連の立場を概ね支持しながらも、共産党には加入せず、ソ連による1956年のハンガリー侵攻、1968年のチェコスロヴァキア侵攻「プラハの春」に対する軍事介入には批判の声をあげた。やがてソビエト連邦への擁護姿勢を改め、独自の政治路線を展開していく。しかし左派陣営内であったことはかわりがない。
1964年にはノーベル文学賞に選ばれたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退。 1973年に激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになる。また、斜視であった右目からの出血により、この時期に失明する。失明により自伝(『家の馬鹿息子』)の完成の不可能を悟り、ボーヴォワールとの対話の録音を開始する(のち、『別れの儀式』に収録)。 晩年、自力による執筆が不可能となったサルトルは「共同作業」によっていくつかの著作を完成させようとするが、いずれの試みも失敗に終わっている。
1980年4月15日、肺水腫により70余年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔った。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。
死後、主にボーヴォワールおよび養女であるアルレット・エルカイムらの編集により多数の著作が出版された。
[編集] 主要著作
[編集] 哲学著作
- 『存在と無』 L'Etre et le néant (1943年)
- 『方法の問題』 Question de Mèthode (1960年)
- 『弁証法的理性批判』 Critique de la raison dialectique (1960年)
- 『倫理学ノート』 Cahiers pour une morale(1983年、未訳)
- 『真理と実存』 Vérité et existence (1989年)
[編集] 評論
- 『シチュアシオン』 Situations (1947–65年)
- 『文学とは何か』 Qu' est-ce que la littérature? (1948年)
[編集] 作家論
- 『ボードレール』 Baudelaire (1947年)
- 『聖ジュネ──殉教者と反抗』 Saint Gunet, comedien et martyr (1952年)
- 『家の馬鹿息子』(ギュスターヴ・フローベール について) L'Idiot de la famille, Gustave Flaubert de 1821 a 1857 (1971–1972年)
- 『マラルメ論』 Cahiers pour une morale (Notebooks for an Ethics) (1983年)
[編集] 小説
- 『嘔吐』 La Nausée (1938年)
- 『自由への道』 Les chemins de la liberté (1945年、1949年)
- 第一部『分別ざかり』 L'âge de raison (1945年)
- 第二部『猶予』 Le sursis (1945年)
- 第三部『魂の中の死』 La mort dans l'âme (1949年)
- 第四部『最後の機会』 La dernière chance (1949年)
- 『壁』 Le mur (1937年)
- 『アルブママ女王もしくは最後の旅行者』 La reine Albemarle ou le dernier touriste (1991年)
[編集] 戯曲
- 『蝿』 Les Mouches (The Flies) (1943年)
- 『出口なし』 Huis Clos (1945年)
- 『恭しき娼婦』 La putain respectueuse (1946年)
- 『悪魔と神』 Le Diable et le Bon Dieu (The Devil and the Good Lord), 1951 (1951年6月7日初演)
[編集] その他
- 『言葉』 Les Mots (1963年)
- 『奇妙な戦争──戦中日記』 Carnets de la drôle de guerre(War Diaries: Notebooks from a Phoney War 1939-1940) (1983年)
[編集] 外部リンク
- 伝記。 書誌学 (フランス語)