サンタクロース
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サンタクロース(英:Santa Claus,Father Christmas)は、クリスマスにやってくるとされている太っちょのおじいさん。通常クリスマスイブの夜に、トナカイのソリに乗ってやってくるとされる。
各国語ではさまざまな名前で呼ばれるが、日本語では英語の影響で「サンタクロース」と呼ばれ、サンタ、サンタさんとも呼ばれる。
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[編集] 由来
[編集] 聖ニコラウス伝説
4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの司教で、キリスト教の教父であった聖ニコラウス(ミラのニコラオス)の伝説を起源とする。 「三人の娘を結婚させるお金のない父親の嘆きをたまたま聞いたニコラウスは、気の毒に思って、夜になってからその家に金塊(財布の説もある)を三つ投げ込んだところ、それが靴下の中に入った」という逸話が残されている。靴下の中にプレゼントを入れる風習はこの伝説による。聖ニコラウスは手に三つの金塊(財布)を持った姿で描かれることが多い(若林ひとみ著『クリスマスの文化史』)。
ニコラウスはカトリック教会や東方正教会で聖人として列聖されているため、「聖(セント)・ニコラウス」という呼称が使われる。これをオランダ語にすると「シンタクラース」(nl:Sinterklaas) である。オランダでは海運業の守護聖人としても信仰され、14世紀頃から聖ニコラウスの命日の12月6日を「シンタクラース祭」として祝う慣習があった。17世紀にオランダがアメリカに植民したことが縁で、サンタクロースの語源となった。
オランダやベルギーのフランドル地方、ドイツの一部地域で今も残る子供たちへのプレゼントの習慣は、聖ニコラウスの祝日12月6日(の前夜)である(聖人暦の項目を参照)。
[編集] サンタクロースの誕生
オランダがアメリカに植民し、マンハッタン島にニュー・アムステルダムを建設するのは17世紀の初め、1626年のことであった。しかしその世紀のうちにマンハッタン島はイギリスの手に渡り、ニューヨークと改名される。
アメリカが独立戦争で勝利した後、1804年にニューヨーク歴史協会が創設される。 このとき、アムステルダムの守護聖人であり、学問の守護聖人であった聖ニコラウスを歴史協会の守護聖人とした。 いっぽう英国にはファーザー・クリスマス (en:Father Christmas) がクリスマスの日に子供達にプレゼントを持ってくるという習慣があった。これらがミックスされ、聖ニコラウスの祝日12月6日からクリスマス・イブである12月24日に移動し、サンタクロースがそのプレゼント役となるのは、19世紀のニューヨークで誕生したものと思われる。
若林ひとみ著『クリスマスの文化史』によれば、その決定的な出来事は、1822年12月23日にコロンビア大学の神学教授クレメント・クラーク・ムーアが「聖ニコラウスの訪問(邦題:「クリスマスのまえのばん」)」という詩を病に苦しむ娘のために書き、翌年、友人がそれを新聞社に送って作者不詳のまま掲載され、アメリカ中で人気を博したことである。1849年に、このムーアの詩にテオドア・C・ボイドが初めて絵を付けた。1862年には同じムーアの詩に触発されたトーマス・ナストが週刊誌「ハーパーズ・ウィークリー」に現代と違和感のない八頭のトナカイが引くソリに乗ったサンタクロースを描いた。ナストが表現した「大きなおなかに白い髭をはやした赤い服の笑顔のおじいさん」というサンタクロースのイメージは、1920年以降ノーマン・ロックウェルに、1931年以降はコカコーラのアーティストへと引き継がれた。このようにして「八頭だてのトナカイが引くソリに乗った聖ニコラスが、煙突から家の中に入って靴下にプレゼントを入れる」という現代に通じるサンタクロース物語は世界中に広まっていった。
[編集] サンタクロースの姿
日本などで広く認知されているサンタクロースはいつも笑顔の、白ヒゲを生やした太り気味の老人の男。赤に白の縁どりのある服を着ている。白い大きな袋にクリスマスプレゼントを入れて肩に担ぎ、赤い鼻のトナカイが引くそりに乗り空を飛んで、家々の子供達が寝ている間にプレゼントを配る。
サンタクロースの赤い服はもともとカトリック教会の祭服の色に由来すると言われ(聖人(殉教者)のための祝日には赤い司祭服を着用することになっている)、前述の画家たちも描いてきた。サンタクロースのイメージは1931年にコカ・コーラ社が自社のコーポレートカラーである赤と白に合ったサンタクロースを宣伝キャラクターとして起用、画家のハッドン・サンドブロムに依頼して描かせたことで世界中に広まったとされ、多くのメディアによってこの逸話が紹介されてきた。
しかしながら、コカコーラ社が宣伝に起用した1931年より15年以上前の大正3年(1914年)には、日本の『子供之友』に赤い帽子に白い髭、白い縁取りのある赤い服を着た、現代とまったく違いのない大人の背丈のサンタクロースの姿が描かれており、また、この時代の日本で作られていた輸出用(当時、日本は世界一のクリスマス用品生産国であった)のサンタクロース人形はこの姿でもあり、「コカコーラ社を起源とする逸話」は、完全な間違いである(出典:『クリスマス~どうやって日本に定着したか』角川書店)。
煙突から家に入るとされるが、だれも見たことがないので煙突がない場合はどうしているのか不明である。子供向けのサンタクロースに関する小冊子によっては、煙突がない場合、テレビ画面・窓・押入れからでてくると解説しているものもある。
[編集] サンタクロースの住所
サンタクロースはトナカイの牽くソリに乗ってやってくるので、北方の土地、あるいは北極に住んでいると思われた。
- しかし、1925年になってフィンランドの新聞が「北極では食料が不足し、トナカイに餌をあげることが出来なくなったため、サンタクロースは、フィンランドのラップランドに引っ越した」と報道した。現在ロヴァニエミ市郊外に「サンタクロース村」がある。東京都内の提携企業内に「サンタクロース大使館」を持つ。
- フィンランドのラヌア郡と姉妹都市となった青森県の岩崎村(現在は深浦町)にできた「サンタランド白神」に「サンタポスト」(サンタクロース岩崎簡易郵便局)があり、ここでもフィンランドのサンタへの手紙の取り継ぎを扱っている。
- デンマークではサンタクロースはグリーンランドに住んでいると信じられているらしく、「グリーンランド国際サンタクロース協会」が活動を行っている。日本の公認サンタクロースは、ラテン音楽家でもあるパラダイス山元。
- 1984年、スウェーデンのムーラ(モーラ)市郊外にテーマパーク「サンタワールド」ができ、ここにサンタは定住していると主張する。 東京都内に日本代表部として「サンタワールド事務局」を持つ。
- 1984年に北海道の広尾町にできた「広尾サンタランド」は、オスロ市からサンタの第二の故郷として認定されている。
これらの日本国内の連絡先に依頼すれば、サンタクロースへ手紙を届けてくれたり、サンタクロースからの手紙を受け取ることができる。 ちなみに、フィンランドのサンタクロース中央郵便局による1997年の統計によれば、同郵便局で扱ったサンタクロースへの手紙は合計70万通で、うち13万通 (19%)が英国から、10万通 (14%)が日本からであった。 また、サンタクロースから差し出された手紙は合計16万通で、宛先の国別では日本が第1位の5万6千通 (35%)、第2位は地元フィンランドの4万7千通 (29%)であったという。
[編集] 世界のサンタ
国によってその姿も名前も異なっている。 ニュージーランド、オーストラリアなどの南半球ではクリスマスが夏の為、サーフボード、真っ白のトナカイ6匹に乗ってくると言われている。
クリスマス前後の時期に子供達にプレゼントを運ぶキャラクターは、ヨーロッパの多くの国で古来より独自の伝承を持っており、これと19世紀にニューヨークで産まれたサンタクロースとはある国では融合し、ある国では影響を受けながらも併存している。完全な融合が見られるのは英国におけるファーザー・クリスマスであり、対極はオランダである。 オランダの子供達は12月5日にはスペインから蒸気船に乗ってやって来る元祖聖ニコラウス(シンタクラース)から、 12月24日にはニューヨークから里帰りしたサンタクロース(Kerstman)からと、プレゼントを貰うチャンスが2度ある。
日本にも、赤い服を着て首のない馬に乗ったおじいさん(歳神)が大晦日の夜にプレゼントを持ってやってきて良い子供に配る、という信仰を持つ地域もあった。歳神が来なくとも正月にはお年玉があるので、12月24日のサンタクロースと合わせて、日本の子供達がプレゼントを貰うチャンスはオランダと同じく2度あるわけである。
スウェーデンでは、トムテ。ノルウェーではユーレニッセ。デンマークではユーリメンがサンタに代わる、あるいはサンタと融合したプレゼンターである。
ドイツでは地方により様々なものがあるが、プレゼンターは双子で、一人ヴァイナハツマンは紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、もう一人はクネヒト(従者)・ルプレヒトと呼ばれ、黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをし、容姿・役割共に日本のなまはげに似ており、民俗学的にも年の瀬に来訪する年神としての役割の類似が指摘される。現在、ドイツでは聖ニコラウスは「クランプス」と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩き、良い子にはプレゼントを、悪い子にはクランプス共に命じてお仕置きをさせる。
東方正教会系の一部の国で聖ニコラウスの逸話にちなみ、子供達が枕元に靴下を吊るしておく習慣があるらしいが、ギリシャでは聖ニコラウスの日ではなく、大晦日の夜となる。ロシアでは靴下の習慣はなく、プレゼントはクリスマス・ツリーに相当するヨールカの根元に置かれ、新年にそれを開ける。プレゼンターはジェット・マロース。 1999年から、ロシアではヴェリキイ・ウスチュグがジェット・マロースの故郷だとして、モスクワなどからバスツアーが出ている。
イタリア、スペイン、ポルトガル、フランスなどのカトリック系諸国では東方の三博士の故事に因み、公現祭である1月6日がプレゼントの日となる。プレゼンターも魔法使いのベファーナおばさんであったりする(ジャンニ・ロダーリ「青矢号のぼうけん」)。良い子、悪い子を2つのキャラクターで手分けするのは他のヨーロッパ諸国のものと通じている。 1951年12月24日、フランスの都市ディジョンでサンタクロースは異端者として有罪判決を受け、大聖堂前に集められた子供たちの前で火刑に処せられた。しかし、住民は反発、その日の午後6時には同市庁舎の屋根の上に復活した。 この事件は、第二次世界大戦後のフランスにおけるクリスマスの変質に対するカトリック聖職者の苛立ちを示すとともに、それだけニューヨーク産まれのサンタクロースが当時のフランスにも浸透していたことを示す。
ニューヨーク由来のサンタクロースは、フランス語で「ぺール・ノエル」、イタリア語で「バッボ・ナターレ」スペイン語で「パパノエル」など、これら諸国では英国の「ファーザー・クリスマス」をそれぞれ自国語にほぼ直訳した言葉で呼ばれている。これらの国々の家にはなかなか入り込めないのか、少々頼り気ないサンタが壁をよじ昇っている(写真)。
[編集] 日本のサンタクロース
[編集] 明治
1874年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(はら たねあき)が東京・築地湊の第一長老教会で催した「クリスマス祝会」で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラ(シュロ製の粗末な鬘)をかぶったお殿様姿で「サンタクロース」として登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「“さんたくろす”がどんなものか見たこともなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただその名前が大変奇妙に聞こえた」と述懐している。 1898年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子『さんたくろう』(三太九郎)の扉絵は、ロバを従え、クリスマスツリーを抱えた、ややドイツ風のサンタクロースであった。
1900年代には銀座でクリスマスのデコレーションが盛んとなり、1910年代にはクリスマス商戦にサンタクロースのイメージが多用される。
[編集] 大正
大正時代に入ると、児童向けの雑誌や少女雑誌の十二月号にクリスマスのお話が掲載されるようになり、特に『子供之友』にはサンタクロースに関する題材が数多く採用された。大正3年(1914年)にはコカコーラ社より15年以上早く先がけて、同誌に現代とまったく同じイメージの赤い服を着たサンタクロースが描かれていた。大正15年(1926年)12月25日のクリスマスに大正天皇が崩御し、その12月25日が大正天皇祭(1926年~1947年)として当時の国家祝祭日となったため、その後のクリスマスの普及に大きな影響を与えた(出典:クラハト『クリスマス~どうやって日本に定着したか』)。
[編集] 昭和
1928年の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本のものに」と書かれるまでになっていた。
このような風潮に対して萩原朔太郎は、第二次世界大戦前、クリスマスで賑わう街中で「このタワケモノめら!」と抗議の声をあげたことを1936年に述懐している(出典:『クリスマス~どうやって日本に定着したか』)。
戦後になると、アンケート調査によれば昭和20年代には日本の子供の67%にクリスマスプレゼントが届けられていた、ということが分かった(出典:葛野浩昭『サンタクロースの大旅行』)。
1960年代にはすでに、現代の日本で見られるクリスマスの様相、たとえば街はイルミネーションに彩られる、クリスマス・イヴにカップルが2人でロマンティックな夜を過ごす、家庭のあるものはホーム・クリスマス、その夜にはサンタクロースが訪れて良い子にプレゼントを置いていく、等の事象はすべて出揃っていた(出典:『クリスマス~どうやって日本に定着したか』)。
[編集] 平成
サンタクロースが書く手紙は日本向けが他を引き離して第1位(1997年フィンランドのサンタクロース中央郵便局調べ)となっている。21世紀に入り、結婚式としてキリスト教式結婚式が日本人の6割以上のカップルに選択されるようになると、クリスマスのイルミネーションが盛んになり、欧米のようにその点灯期間も年始まで延長され、若い夫婦が自宅の周りに飾り付けるイルミネーションの主役としてサンタクロースとトナカイがますます目立つようになってきた(出典:『イルミネーション入門ブック』学習研究社 2004年)。
[編集] 雑知識
[編集] トナカイ
サンタクロースの乗る空飛ぶソリを引くトナカイは8頭おり、メイジャ・ヘンリ・リヴィングストン・Jr(Major Henry Livingston Jr.)の「聖ニコラウスの訪問」(Account of a Visit from St.Nicholas)によれば、それぞれ以下の名前である。
- ダッシャー(Dasher)
- ダンサー(Dancer)
- プランサー(Prancer)
- ヴィクセン(Vixen)
- ダンダー(Dunder)←(旧ドンダー)
- ブリクセム(Blixem)←(旧ブリッツェン)
- キューピッド(Cupid)
- コメット(Comet)
また「赤鼻のトナカイ」の歌(原題:Rudolph The Red-Nosed Reindeer )ではルドルフと言う名のトナカイが彼らの先導役として先頭を走る、ともされている。
[編集] 公認サンタクロース
グリーンランド国際サンタクロース協会(本部デンマーク)が、煙突登り、クッキーの早喰いなどの体力測定、HoHoHoの発声試験、長老サンタクロースとの面接など、4日間に渡る過酷な試験を経て公認する。2006年現在、世界で約180人[1]。毎年、真夏のデンマークで開かれる世界サンタクロース会議に、自宅からサンタクロースの衣裳で向かい、公認サンタクロースのライセンス更新が義務づけられている。北欧には、女性の公認サンタクロースも多数存在する。
日本人では、1998年にマンボミュージシャンのパラダイス山元が、アジア地域から初めての公認サンタクロースとして認定された。
[編集] サンタクロースが主題の作品
楽曲についてはクリスマスの音楽一覧を参照。
[編集] 映画
- 『三十四丁目の奇蹟』(1947年、アメリカ)
- 『サンタクロース』(1985年、アメリカ)
- 『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993年、アメリカ)
- 『サンタクローズ』(1994年、アメリカ)
- 『三十四丁目の奇蹟』(1994年リメイク、アメリカ)
- 『サンタクロース・リターンズ! クリスマス危機一髪』(2002年、アメリカ)
- 『バッドサンタ』(2004年、アメリカ)
[編集] 本
- 『サンタクロース、ライフ。』パラダイス山元(ヤマハミュージックメディア)
- 『三十四丁目の奇蹟』
[編集] 絵本
- 『さむがりやのサンタ Father Christmas』(レイモンド・ブリッグス作)
[編集] 漫画、アニメなど
- 「Joyeux Noel!」(原作:愛英史・絵:里見桂『ゼロ THE MAN OF THE CREATION』第39巻225話)- サンタクロース火刑事件を題材としている。
- 「わしはサンタじゃ!!」(光原伸『アウター・ゾーン』第2巻の1エピソード)
- 「サンタさんを救え!」(テレビアニメ『おジャ魔女どれみ』第45話)
[編集] テーマパーク
[編集] 文献資料
- クロード・レヴィ=ストロース、中沢新一『サンタクロースの秘密』せりか書房、1995年 ISBN 4796701958
- 葛野浩昭『サンタクロースの大旅行』岩波新書(新赤版)591、1998年 ISBN 4004305918
- クラウス・クラハト、克美・タテノクラハト『クリスマス - どうやって日本に定着したか』角川書店、1999年 ISBN 404883598X
- 若林ひとみ『クリスマスの文化史』白水社、2004年 ISBN 4560040753
- 浅野和生『サンタクロースの島 — 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記』東信堂、2006年 ISBN 4887137060
[編集] 関連項目
- パラダイス山元
- アジアで唯一のグリーンランド国際サンタクロース協会公認サンタクロース。
- フランシス・チャーチ
- 新聞記者、ヴァージニア・オハンロンの「サンタクロースはいるのでしょうか」への返答記事(「サンタクロースは実在するのか」)を執筆。
- 北アメリカ航空宇宙防衛司令部 (NORAD)
- NORAD Tracks Santa(サンタクロース追跡作戦、サンタクロース追跡プログラム)という毎年恒例の追跡調査を行っており、ミサイル早期警戒網やレーダーを駆使して、サンタクロースの現在位置を把握・発表する。
- 外部リンク ノーラッド・サンタ