細川晴元
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細川晴元(ほそかわはるもと、永正11年(1514年) - 永禄6年3月1日(1563年3月24日))は室町時代末期から戦国時代の武将。父は摂津・丹波の守護細川澄元、母は畠山義堯の娘(清泰院)。正室は三条公頼の長女、六角定頼の娘。子に細川信良ほか。幼名は聡明丸。官位は右京大夫従四位下。法名は龍昇院心月一清大居士。
[編集] 伝記
阿波に生まれる。父の澄元は、将軍足利義晴を擁した京都の細川高国と宗家家督を争い、守護国の阿波を本拠に、国有力被官の三好氏とともに高国と抗争を続けていた。1520年、澄元が阿波で死去すると、晴元は7歳で家督を継承する。1527年、高国が家臣の反乱から将軍義晴らとともに近江へ落ち延びると、晴元は足利義維を擁立した三好元長とともに京へ進攻、堺を根拠に京都を支配するようになり、義維から家督と守護職を案じられた(堺公方参照)。
1531年には高国が戦死するが、将軍義晴側との対立は続き、堺公方内部でも晴元と三好元長が対立。翌32年、晴元は本願寺証如と結び、一向一揆を扇動して元長を殺害。さらに足利義維を追い、将軍足利義晴とも和睦する。その後、一向宗は堺公方を襲撃するなど対立し、対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動が活発であった近江の六角氏とも協力して山科本願寺を攻める。36年には、京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺、六角氏と連合して壊滅させる(天文法華の乱)。
1543年、細川高国の養子細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵する。氏綱は畠山氏や遊佐長教とも結び、将軍義晴も将軍職を実子足利義輝に譲り氏綱を支持し、晴元と敵対する。晴元は義晴らを近江坂本へ追い、氏綱らと戦う。1548年、元長の嫡男で三好宗家の家督を相続していた三好長慶は、晴元に一族の三好政長の討伐を要請し、これを拒否されると翌1549年に氏綱側に寝返る。晴元は摂津江口において長慶らに敗北する(江口の戦い)。この戦いで三好政長・高畠甚九郎ら多くの配下を失った晴元は、将軍親子とともに近江へ逃れる。
晴元は将軍義輝を擁して長慶と争うが、1561年に六角氏の仲介で和睦、剃髪して摂津富田に隠居。2年後に病死、49歳。