足利義材
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足利 義材(義稙)(あしかが よしき(よしたね)、文正元年7月30日(1466年9月9日) - 大永3年4月9日(1523年5月23日)、将軍職 1490年-1493年、1508年-1521年)は、室町時代の室町幕府第10代将軍である。父は第8代将軍足利義政の弟足利義視、母は日野重政の娘(日野富子の妹にあたる)。明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名、永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名し、室町幕府将軍職に復帰する。
1489年(延徳元年)、室町幕府第9代将軍の足利義尚が近江国の六角高頼征伐の出陣中に死去すると、父義視と逼塞先の美濃国から入京。第10代将軍に就任したが、政治の実権は管領細川政元が握っていた。明応2年(1493年)に明応の政変で細川政元により将軍職を廃され、足利義澄(いとこに当たる)が第11代将軍に就任する。義稙は幽閉中に畠山政長の家臣神保長誠の手引きで脱出し、越中国の放生津に下向、越中公方と呼ばれた。明応8年(1499年)に越前国の朝倉氏を頼り、朝倉貞景や政長の子である畠山尚順と同調し上洛を目指したが敗北し、周防の大内氏を頼り逃れた。こうした諸国流転の経歴からついには島公方、流れ公方ともいわれる。
永正5年(1508年)に大内義興の支援を得て中国地方や九州の軍団と共に帰京、義澄を廃して再び将軍になったが、その後細川高国と反目して京都を逃れ、三たび諸国を流浪した。大永3年(1523年)に阿波国撫養(現在の鳴門市)で死去、享年57。
義稙には息子がなかったが、前将軍義澄の子足利義維を養子として阿波に伴い、その後、義維は将軍職を継いだ兄弟の足利義晴と対立する。
法名:恵林院殿巌山道舜大禅定門。
墓所は徳島県阿南市の西光寺。 肖像は京都市北区の等持院(木像)、徳島県阿南市の阿南市立阿波公方・民俗資料館(木像)、栃木県足利市の鑁阿寺(木像)、富山県射水市の放生津橋(銅像)にある。東京国立博物館にも伝足利義稙(義澄)肖像がある。
[編集] 官職位階履歴
※( )は旧暦
- 1487年(長享元年8月29日)、従五位下に叙し、左馬頭に任官。時に、義材を名乗る。
- 1490年(延徳2年7月5日)、従四位下に昇叙し、右近衛中将に転任。併せて征夷大将軍宣下。同日、さらに参議補任。右近衛中将兼任如元。
- 1498年(明応7年) 名を義尹と改める。
- 1501年(明応10年) 征夷大将軍並びに参議辞職。
- 1508年(永正5年7月1日)、従三位に昇叙し、権大納言に任官。併せて征夷大将軍宣下。12月27日、従二位に昇叙。
- 1513年(永正10年11月9日)、名を義稙と改める。
- 1519年(永正16年9月27日)、源氏長者、淳和奨学両院別当兼務。
- 1521年(永正18年12月25日)、征夷大将軍辞職。
- 1523年(大永3年4月9日)、薨去
- 1535年(天文4年4月8日)、贈従一位太政大臣
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