山名宗全
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山名 宗全/山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ、応永11年5月29日〔1404年7月6日〕 - 文明5年3月18日〔1473年4月15日〕))は、室町時代の守護大名。室町幕府の四職のひとつ山名家の出身。山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。正式な名は源持豊(みなもと の もちとよ)。
1432年に家督を相続。1435年には父の時熙が死去し、1437年には兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧する。1440年には侍所頭人となる。1441年(嘉吉元)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨国で挙兵した嘉吉の乱の鎮圧では討伐軍の主力を率いて戦い、赤松氏の領国を加えて播磨国など8ヶ国の守護職を回復して再び権勢を得た。1443年には山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ、1447年には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶ。
1450年(宝徳2)に出家し、家督を子の教豊に譲り、1454年には赤松氏の出仕を巡り政務を引退し、但馬へ下国。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐する。1458年には赦免されて再上洛。幕府運営を巡り、娘婿である勝元と対立するようになる。三管領の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持した。
1465年に男子を出産した8代将軍足利義政夫人の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する。1466年には勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。同年12月には畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる。67年には畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに上御霊社の戦いでは義就を加勢し、政長を駆逐させる。5月には宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ、双方で散発的な衝突が起こる。
宗全は西軍を率いて挙兵し、室町亭の将軍らを確保した勝元率いる東軍に対して劣勢であったが、8月には周防から上洛した大内政弘と合流する。1472年には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている。1473年(文明5)に病死、享年69。法名:達碧院殿最高宗峰大居士。
墓所は京都市左京区の南禅寺(京都五山)塔頭の真乗院。(〒606-8435 福地町86-11)
[編集] 官職位階履歴
※月日=旧暦
- 1413年(応永20)、元服し、将軍足利義持の名を一字賜り、持豊を名乗る。
- 1439年(永享11)1月、正四位下左衛門佐に叙任。
- 1440年(永享12)6月13日、幕府の侍所所司に就任。
- 1441年(嘉吉元)7月12日、幕府の侍所所司を辞任。
- 1442年(嘉吉2)1月、従三位右衛門佐に昇叙遷任。
- 1444年(文安元)以降、右衛門督に転任。
- 1450年(宝徳2)、出家し、宗峰と号する。のち、宗全と改める。
- 1454年(享徳3)11月、隠居し、家督を教豊に譲る。