小倉藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)のち豊津藩(とよつはん)となった。
目次 |
[編集] 略史
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際、東軍方に属し居城である丹後国田辺城を守った細川忠興は18万石から豊前一国と豊後国国東郡・速見郡39万9千石を領する大大名となり中津城に入城し当藩が成立した。
- 慶長7年(1602年)小倉城を完成させ、同時に城下町を整備し居城とした。2代・忠利は寛永9年(1632年)加藤忠広の改易に伴い、更に加増され熊本藩54万石に移封した。
- 同年、播磨国明石藩より小笠原忠真が入封し豊前北部15万石を領した。小笠原氏は譜代大名として九州の玄関口を押さえる九州探題として外様大名の監視を行った。
- 2代忠雄は寛文7年(1667年)藩主襲封の際、弟の真方に千束藩1万石を領内分藩させた。
- 4代忠総は宝暦8年(1758年)城内に藩士の文武教練場として思永斎を設けた。これが後の藩校思永館となった。
- 安永6年(1777年)犬甘知寛(いぬかい ともひろ)が家老に就任し藩財政改革を行った。犬甘の努力により寛政10年(1798年)頃には財政も好転し銀8千貫の貯蓄が出来るまでに至った。しかし、反対派の陰謀により享和3年(1803年)失脚し無実の罪により入牢。非業の死を遂げた。その後、藩内では重臣間の派閥争いが続くこととなった。
- 幕末の長州征伐では幕府側の九州側最先鋒として第一次、第二次とも参戦した。慶応元年(1865年)の第二次戦争の際には奇兵隊により門司が制圧され、危機を感じた小倉藩兵は慶応2年8月1日(1866年9月9日)小倉城に火を放ち田川郡香春(現・香春町)に撤退した。この際、香春藩となった。更に、明治2年12月24日(1870年1月25日)には京都郡豊津(現・みやこ町)に藩庁を移し、豊津藩となった。
- 明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により豊津県となった。のち、小倉県を経て福岡県に編入された。
- 明治17年(1884年)小笠原家は伯爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
[編集] 細川(ほそかわ)家
外様 39万9千石 (1600年~1632年)
[編集] 小笠原(おがさわら)家
譜代 15万石 (1632年~1871年)
- 忠真(ただざね)〔従四位下、右近将監・侍従〕
- 忠雄(ただたか)〔従四位下、右近将監・侍従〕
- 忠基(ただもと)〔従四位下、右近将監・侍従〕
- 忠総(ただふさ)〔従四位下、左京大夫・侍従〕
- 忠苗(ただみつ)〔従四位下、右近将監・侍従〕
- 忠固(ただかた)〔従四位下、大膳大夫・左少将〕
- 忠徴(ただあきら)〔従四位下、左京大夫・侍従〕
- 忠嘉(ただひろ)〔従四位下、右近将監〕
- 忠幹(ただとし)〔従四位下、大膳大夫・侍従〕
- 忠忱(ただのぶ)〔従三位 豊津藩知事〕
[編集] 支藩
- 千束藩
千束藩(ちづかはん)は小倉藩の支藩。当初は小倉新田藩(こくらしんでんはん)と称した。寛文7年(1667年)小倉藩2代藩主小笠原忠雄の藩主就任時、弟の真方が1万石を領内に分与され立藩した。藩主家は参勤交代を行わない江戸定府の大名であった。明治2年(1869年)千束(豊前市)に陣屋を構え千束藩と改称。
明治4年(1871年)廃藩置県により千束県となる。のち、小倉県を経て福岡県に編入された。明治17年(1884年)小笠原家は子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
- 小笠原(おがさわら)家
譜代 1万石 (1667年~1871年)
- 真方(さねかた)〔従五位下、備後守〕
- 貞通(さだみち)〔従五位下、近江守〕
- 貞顕(さだあき)〔従五位下、弾正少弼〕
- 貞温(さだあつ)〔従五位下、近江守 若年寄〕
- 貞哲(さだとし)〔従五位下、近江守〕
- 貞謙(さだよし)〔従五位下、備後守〕
- 貞嘉(さだひろ)〔官位官職無し〕→小倉藩8代藩主・小笠原忠嘉となる
- 貞寧(つねやす)〔従五位下、近江守〕
- 貞正(つねまさ)〔従五位下、近江守〕