足利直義
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足利 直義(あしかが ただよし、徳治元年(1306年) - 文和元年/正平7年2月26日(1352年3月12日))は、南北朝時代の武将である。父は足利貞氏、母は上杉清子。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。尊氏の庶子足利直冬の養父。正室は渋川貞頼の娘。法名、恵源。室町幕府開幕後、下御所と尊称された。
当初、鎌倉幕府執権北条高時より一字を受け高国と名乗るが、後に忠義から直義に改名する。1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、兄の尊氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加する。
建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉将軍府将軍成良親王を奉じて鎌倉へ赴いて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築く。1335年(建武2年)、北条高時の遺児である北条時行を中心に北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こると、武蔵国井出沢(現、東京都町田市)へ出陣して時行を迎撃するが敗れる。時行軍が鎌倉へ迫ると、鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子である護良親王を混乱の中で殺害し、鎌倉を退去して三河国矢作(愛知県岡崎市)へ逃れる。
同年、直義は後醍醐天皇に無断で京都から乱の鎮圧に向かった尊氏と合流して東海道を東へ進み、鎌倉を奪還する。尊氏は、付き従った将士に鎌倉で独自に論功行賞などを行うが、これには直義の意向が強いとされる。建武政権から尊氏追討令が出て、京都から新田義貞を総指揮官とする追討軍が派遣されると、尊氏は赦免を求めて隠棲し、直義らは駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、直義はこれに合流して箱根・竹ノ下で新田軍を破り京都へ進撃する。足利軍は入京するが、翌1336年(建武3年)陸奥国から上洛した北畠顕家や楠木正成、新田義貞に敗れ九州へ落ち延びる。足利軍は、多々良浜の戦いで菊池武敏を破って体勢を立て直して東上し、光厳上皇の院宣を得て、海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京する。
京都では尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定して幕府を成立させるが、式目の制定には直義の意向が強いとされる。1338年(延元3年/暦応元年)に尊氏は光明天皇から正式に征夷大将軍に任じられる。同時に、直義は左兵衛督に任じられ、尊氏の信頼を受け政務担当者として統治権をもち尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。しかし、1348年(正平3年/貞和4年)頃から足利家代々の執事であり軍事的功績もあった高師直と対立するようになり、足利家を直義派と反直義派の二つに割る観応の擾乱に発展し、後醍醐天皇が吉野で成立させていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義が師直の排除を画策し尊氏が師直の執事職を解任すると、1349年(正平4年/貞和5年)に師直とその兄弟の高師泰は直義を襲撃し(光明寺合戦)、直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍をもって包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。
翌1350年(正平5年/観応元年)に尊氏が庶子で直義の養子である足利直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に直義は京都を脱出して師直討伐を掲げて南朝へ降る。一方、北朝は直義追討令を出す。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、1351年(正平6年/観応2年)に摂津国打出浜で尊氏方を破る。尊氏方の高兄弟とその一族は、直義派の上杉能憲に殺害される。
高兄弟がいなくなると、直義は次期将軍に指名されていた尊氏の嫡子足利義詮の補佐として政務に復帰する。これに対して尊氏・義詮は出陣と称して南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出る。直義は京都を脱出して北陸、信濃を経て東国へ落ちるが、駿河国薩埵山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで尊氏に連破され、鎌倉に追い込まれて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、翌1352年(正平7年/文和元年)に急死する。病死とされているが、『太平記』のみは尊氏による毒殺であると記している。
一説によれば、古典「太平記」の祖形となった史書の誤りを訂正させた話なども伝えられる。禅僧の夢窓疎石にも帰依していた。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
嘉暦元年(1326年)5月26日、従五位下に叙し、兵部少輔に任官。
元弘3年/正慶2年(1333年)6月12日、左馬頭に転任。 10月10日、正五位下に昇叙。左馬頭如元。 11月8日、相模守に遷任。
建武元年(1334年)7月9日、従四位下に昇叙。相模守如元。
暦応元年/延元4年(1338年)8月11日、従四位上に昇叙し、左兵衛督に転任。
康永3年/興国5年(1344年)9月23日、従三位に昇叙。左兵衛督如元。
文和元年/正平7年(1352年2月26日、薨去。享年47。 法名:大休寺古山恵源