丹後国
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丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の京都府北部にあたる。北丹と呼ぶこともある。延喜式での格は中国、近国。
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[編集] 沿革
古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であったと考えられる。
和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。
中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明である。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に降伏して以来、細川氏が丹後を支配した。関が原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となった。
[編集] 国府、一宮など
和名類聚抄によれば、平安時代の国府は加佐郡にあった。現在の舞鶴市内と思われる。中世には与謝郡にあり、現在の宮津市府中と推定される。はじめから与謝郡に国府があったという説もある。いずれも遺跡は見つかっていない。
延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されている。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列している。
一宮は籠神社である。二宮以下と総社は不詳であるが、籠神社が総社を兼ねていたとする説もある。
[編集] 守護
[編集] 鎌倉幕府
- 1293年~? - 長井貞秀
[編集] 室町幕府
- 1336年 - 今川頼貞
- 1337年 - 荒川詮頼
- 1337年~1338年 - 上杉朝定
- 1339年~? - 今川頼貞
- 1341年~1350年 - 山名時氏
- 1350年~1351年 - 上野頼兼
- 1351年~? - 仁木頼章
- 1352年~1353年 - 高師詮
- 1353年~1360年 - 仁木頼勝
- 1360年~1363年 - 仁木義尹
- 1363年~1364年 - 足利直冬
- 1364年~1370年 - 山名師義
- 1375年~1381年 - 山名義幸
- 1385年~1391年 - 山名満幸
- 1392年~1409年 - 一色満範
- 1409年~1440年 - 一色義貫
- 1440年~1451年 - 一色教親
- 1451年~1467年 - 一色義直
- 1469年~1471年 - 武田信賢
- 1471年~1474年 - 武田国信
- 1474年~1484年 - 一色義春
- 1484年~1487年 - 一色義直
- 1487年~1498年 - 一色義秀
- 1498年~? - 一色義有
- 1506年~? - 武田元信
- 1509年~1519年 - 一色義清
- ?~1558年 - 一色義幸
- 1558年~1579年 - 一色義道
- 1579年~1582年 - 一色義定
- 1582年 - 一色義清
[編集] 郡
[編集] 関連項目
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