国鉄70系電車
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国鉄70系電車(こくてつ70系でんしゃ)とは、日本国有鉄道で使用された旧形近郊形電車である。戦前に製造された51系をベースに、横須賀線や京阪神緩行線、中央東線など、通勤路線と中距離路線としての性格を併せ持った路線で使うために3扉セミクロスシート車として開発され、1951年から1958年にかけて、中間電動車モハ70形及び低屋根構造で歯車比の異なるモハ71形、制御車クハ76形、2等車のサロ46形(のちにサロ75に改番)の各形式合わせて282両が製造(モハ71形の一部は木造車の鋼体化改造名義)された。
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[編集] 概要
70系は計画時と登場時でその姿を大きく変えたことが知られている。また、登場後は同時期にデビューした80系電車と比較されることが多いが、実際は相違点がかなり多い。この項では70系の概要について紹介する。なお、番号から勘違いされがちだが製造・運用開始は80系の方が先である。
[編集] 登場前史
70系に類する20m3扉車の新造計画については、戦後間もない時期から存在していた。計画初期である1949年の図面では、切妻の運転台に3段窓、ロングシートの車内と、63系を3扉化したデザインとなっていたが、窓配置はd1D6D6D2と51系や後の70系と共通であり、将来のクロスシート化を考慮したものになっていた。その後、70系の新造計画も整理され、横須賀線と京阪神緩行線に投入することになったことから、その時点では2扉の80系と4扉の63系の中間に当たる3扉セミクロスシート車として計画された。また、この時期には80系同様の編成使用を考慮した中間電動車方式を採用しているが、クハ76の前面については、80系1次車と同様の半流線型で非貫通の前面であるが、2枚窓といったタイプも計画されていた。しかし、その前面は80系の前面2枚窓の試作車であるクハ86021,86022より、ウインドシル・ヘッダーが巻いてあったことから、むしろ小田急1700形に似たデザインであった。
[編集] 車両総説
70系が登場したのは、80系2次車の登場後だったために、80系同様の前面二枚窓の湘南フェースでデビューした。車体及び座席は、51系をベースに製造されたことから、3扉セミクロスシートとなっているが、2等車(後の1等車・グリーン車)は2扉クロスシートで製造された。しかし、湘南電車に比べて比較的乗車距離の短い横須賀線向けに製造されたために、80系のサロ85形とは異なり、デッキなしで登場した。
70系は、基本的に同系列車のみで編成を組成することを前提とした80系とは異なり、長編成での使用を想定していなかったことや、横須賀線では32系・42系と、京阪神緩行線では51系と、中央東線では72系との混結編成が見られたように、他系列と混結されることが前提であったことから、そのために両数を充足していた3等付随車は製造されなかった。初期には床や屋根が木造の半鋼製車であったが、1954年度には屋根を鋼製化、更に1957年度製造の最終グループは全金属化され、300番台を附番された。この他にも、モハ71001は国電初の全金属車として有名である。
前面スタイルの特徴が80系に似ているが、メカニズム面では72系に近い。
各形式の概要については以下のとおりである。
[編集] モハ70
本系列の基幹形式で、モハ70001~70097,70101~70117,70120~70126,70300~70319の合計141両が製造された。主電動機は142kWのMT40を搭載(当初はMT40A、1954年製以降はMT40Bを搭載)し、歯車比はモハ80やモハ54と同じ1:2.56、制御器は国電初の電動カム軸接触器式のCS10を採用、パンタグラフは前位にPS13を搭載している。台車は1951年製がDT16、1952年製と1955年製の一部(モハ70053~70061)がDT17、1954年製以降の車両はDT20(1956年製以降は改良型のDT20A)を履いている。窓割りは2D6D6D2で、扉間にクロスシートを4組ずつ設けていることは51系と共通である。製造年度ごとの変化は以下のとおり。
- 1951年製:屋根は木製布張り、妻面に大きなよろい戸型の通風器を持つ。1951年後期製造車(昭和26年度予算で製造)では、戸締機械と出入口周囲の天井灯の配置位置が変更になっている。
- 1952年製:妻面のよろい戸型通風器がなくなったのと、2位側の配電盤の大型化と1位側の妻面にはしごを取り付けたため、前位の妻窓が埋められた。
- 1954年製:この年から絶縁ビニール布を張った鋼板屋根を採用。戸袋窓をHゴム支持として、客用扉もHゴム支持の1枚ガラスに変更。また、同時期に製造された1955年製の一部の車両も同様の仕様で登場したが、台車は従来と同じDT17であった。
- 1955年製:簡易運転台を後位側に設け、天井に扇風機回路準備工事を施した。
- 1956,57年製:床板を鋼板としてその上に合成樹脂製の床敷物を貼り付けた。また、雨樋も木製から鋼製に変更、全金属車により一層近づいた。
- 1957,58年製(300番台):外装だけでなく内装も全金属車体に改められたことにより、80系と同じく300番台に区分された。また、天井に蛍光灯と扇風機を当初から取り付けたことによって、通風器と電灯の配置が変更になっている。
なお、1951年の新製当時は東鉄、大鉄の双方でジャンパ連結器の引き通し線の芯数が異なっていたため、横須賀線向けを001~、京阪神緩行線向けを101~と、それぞれ番台区分していた。その後仕様が東西統一されたために番台区分を必要としなくなったが、1957年に京阪神緩行線に投入されたモハ70120~70126は再び100番台の車号となった。これは、0番台の最終グループで、70120~70126と同時期に製造され、横須賀線に投入されたモハ70096,70097の2両が1958年に京阪神緩行線に転入していることでも分かるように、従来車と仕様が変わったわけではなく、後の103系のクハ103(0番台と500番台)や205系(国鉄時代登場の車両とJR化後に登場の車両)などで見られた ように、当初の番台区分(205系の場合は編成単位でのナンバリング)に混乱を来さないよう配慮したための付番であるといえる。
[編集] モハ71
1952年に登場した中央東線向けの電動車で、モーターや制御器はモハ70と同一であるが、狭小トンネルの建築限界の関係で、屋根高さを低く抑えてパンタグラフの折りたたみ高さを低減したほか、歯車比も72系と同一の1:2.87として、平坦線での高速性能よりむしろ急勾配区間における登攀力に配慮したものとなっていた。当初登場した17両は窓割りはモハ70と共通であるが、全金属試作車の71001と鋼体化名義の71002~71005、新造車の71006~71017の3タイプに分かれ、そのうちの71002~71005は当初モハ70801~70804と付番されていた(71001も当初は70800の車号が予定されていたが、出場が遅れたため71001で登場)。それぞれの相違点については以下のとおり。
- モハ71001:木造電車の鋼体化名義による全金属試作車で、化粧版は薄いピンク色のアルミ合金、シートの布地はエンジ色のビニルクロス、ドアチェックつきの貫通扉など、従来車と異なる内装で登場したほか、窓枠の構造も上段サッシュレスの下段上部がアクリル製と、遠くから見ると一段窓のように見えるものになっており、この窓枠構造は後年登場の名古屋市電2000形が、よく似たものを採用していた。パンタグラフはPS11を搭載し、台車はDT15を履いている。
- モハ71002~71005:木造電車や社型国電の鋼体化改造名義の車両で、従来と同じ半鋼製車として登場した。パンタグラフはPS13、台車はDT13に変更。
- モハ71006~71017:同時期製造のモハ70を低屋根化したものとなっており、外観及びパンタグラフ(PS13)、台車(DT17)も1952年製のモハ70に準じたものになっている。
[編集] クハ76
本系列の制御車で、クハ76001~76095(うち76037~76051は奇数のみ製造)、76097,76099,76101,76300~76315の合計106両が製造された。横須賀線ではモハ43,53が偶数向きであり、京阪神緩行線では51系の各系列に偶数向き車両が比較的多かったことから、製造されたのは奇数車の方がやや多かった。クハ86同様後位側に便所を設けたが、東海道線で海側に便所が来るようにしたため、奇数車では3位側、偶数車では4位側に便所が来るようになっていた。クハ76の年次変化はおおよそモハ70と共通であるが、オリジナルの変化については以下のとおり。
- 1951年前期製:昭和25年度の予算で製造されたクハ76001~76030は、窓割りは1dD6D6D2、台車は戦前からのTR23をコロ軸受けとしたTR45を履いていた。また、便所が後の増備車と異なって大型のものが設置されていたが、出入口が客室側を向いていたため、便所に出入りする姿が丸見えになることから、乗客から大変不評であった。
- 1951年後期製:昭和26年度予算で製造されたクハ76031~76051(76037~76051は奇数のみ)では、便所を小型化し、それによって便所側の窓割りも1dD6D6D1に変更したほか、その対面に当たる座席をクロスシートに変更している。台車はTR45のままである。
- 1952~1957年製:1952年以降の年次変化は基本的にはモハ70と同一であるが、クハ76独自の変更点としては、1952年製で前面窓のHゴム支持化と台車のTR48への変更が行われ、1951年後期製造の車両で確立された窓割り同様、この仕様がそれ以降の車両にも引き継がれていった。
- 1957,58年製(300番台):全金属車として登場した。クハ76従来車との変更点は、奇数・偶数を分けない両栓構造になり、便所の位置が3位側に統一されたことと、運転台直後の客室部分に窓が設けられたことによって窓配置が1d1D6D6D2(便所側は1d1D6D6D11)に変更されている。また、運転台部分についてはクハ86300番台同様、運行番号窓が少し前に張り出し、運転台窓上部に通風口が設けられ、前面下部に埋め込み式のタイフォンが設置された。その他の全金属車になったことによる仕様変更について はモハ70と同一である。
[編集] サロ46
70系の2等付随車で、1951,1953,1955年に合計18両が固定クロスシートの全室2等車として製造され、全車横須賀線に投入された。2等車であるために車体両端に幅700mmの客用扉を設け、窓は同様の座席であるサロ85やオロ40と同じく、当時の固定式クロスシートの普通2等車共通の幅1200mmの大窓とし、後位側に便所と化粧室を設けたことにより、窓割りはD8D1となった。ただし、窓の高さは70系の他系列と同一のために二段窓となっているが、窓が大きいことからかえって軽快な印象を受ける。また、70系でありながら形式番号が46と大きく飛んだのは、製造初年の1951年当時70台の空き番号がなかったために、当時空番になっていた46(元々32,42,52系のサロハ46形に使われていたが、戦前に全てサロハ66かクロハ59に改造されて消滅)が当てられたためである。製造年次における変化は以下のとおり。
- 1951年製:座席の布地にブルーの塩化ビニール張りを使用し、床はリノリウム張りとした。台車はクハ76と同一のTR45だが、改良型のTR45Aを履いている。
- 1953,1955年製:座席の布地をサランに変更、内装もニス塗りから塗りつぶしに変更になった。台車もクハ76に合わせてTR45AからTR48Aに変更した。また、1955年製の車両では、通風器の個数を8個から9個に増設している。
サロ46では座席の布地に化学繊維を多用していることが特徴である。当時はまだ化学繊維が珍しく、鉄道車両における活用も黎明期であったことから、目新しさを出すことをもくろんで採用したことがうかがえる。ただ、これらの化学繊維は後年になって従来からのモケット張りに変更されている。
この他にも、図面だけであるが、サロ46とモハ70を合成したような2,3等合造車のクロハ75という形式も計画されていたようである。
[編集] 車体塗色について
70系の車体塗色は、当初湘南色と関西急電色(クリームとマルーンのツートンカラー)で登場し、東海道線全線電化後に湘南色に統一(塗り分け線は関西急電方式に統一)された80系と異なり、他形式と混結されることが前提であったことから、さまざまな塗色で登場した。
横須賀線向けに登場した車両は、クリーム色と青色の塗り分けで「スカ色(横須賀色)」と呼ばれた。ただ、横須賀線では70系登場以前の1950年から、在籍している32系や42系に対してぶどう色からの塗色変更を実施しており、決して70系と同時にスカ色がデビューしたわけではない。後にスカ色は中央東線のモハ71、クハ76にも塗られるが、モハ71のうち71001~71007は、当初は従来車と混結して運用されたため、ぶどう色で登場した。
京阪神緩行線向けには51系の増備として投入されたこともあり、ぶどう色一色で登場した。後に京阪神緩行線にもクハ76が配属されるが、当然ぶどう色一色であったことから、「茶坊主」の異名を取った。ただ、後述の代用急電に運用された時には、誤乗防止のために編成を組むクハ68ともども関西急電色に塗装されたこともあった。
阪和線用のものは、後の常磐快速線のエメラルドグリーンを明るくした緑と肌色に近いクリームのツートンカラー(現在ではクロネコヤマトの配送車に近い色)で阪和色と呼ばれた。また、当初の塗り分けも横須賀線向けとはやや異なっており、幕板部分までクリーム色に塗られていた関係で、上部の緑色は雨樋の部分のみであった(後に横須賀線と同じ塗り分け線に変更)。
なお、1967年以降阪和色はスカ色に変更されたが、1962年から新潟地区に配属された70系は、当初は茶色一色に塗装されたものの、雪中での視認向上のため、1964年から他の旧型電車と同様、赤と黄色の「 新潟色」と呼ばれる塗装に変更された。この他、仙石線に配属された70系は他の51,72系と同じウグイス色に塗装されている。
このように、70系は、中間車のごく一部(サロ85やサハ87の一部)が他系列に編入された際に、塗装が変更(スカ色や新潟色に塗り替え)された80系とは異なり、後年になってもさまざまな塗色に変更された。
[編集] 当初配置4線区での活躍
70系は、当初の予定どおり横須賀線(田町電車区)と京阪神緩行線(明石・宮原・高槻の各電車区)に投入されて、輸送力の増強と戦後の混乱期に両線区に配属された63系や旧型車の置き換えに寄与した。その後1952年には中央東線(三鷹電車区)に配属されて富士急行乗り入れや臨時電車の運転に活躍したほか、 1955年には阪和線(鳳電車区)に配置され、同線の特急(後の快速、新快速)、急行 (後に直行を経て区間快速)を中心に投入され、従来からの阪和型電車や流電・半流43系に代わって主役の座についた。この項では各地区における投入の経緯と全盛期に至る活躍について紹介する。
[編集] スカ線の主役として
1951年2月から3月にかけて、モハ70が10両(70001~70010)、クハ76が30両(76001~76030)、サロ46が10両(46001~46010)の合計50両が登場して、42系と組んでそれまでの主役であった32系の置き換えを開始した。このときの新製車にクハ76が多いのは、当時の基本編成、付属編成の先頭車に極力クハ76をあて、復興する横須賀線のイメージアップを図る目的があったためである。同年の秋にはモハ70を32両(70011~70042)、クハ76を14両(76031~76051、うち76037~76051は奇数のみ)の合計46両を増備 、一部のクハ47とサハ48、サロ45を除く32系とモハ42、クハ58など42系の一部を置き換え、戦後横須賀線の主役に躍り出た。このときの編成は基本編成が7連、付属編成が4連ならびに5連で、基本編成の中にはサロ2両組み込みのものとサロ1両のみの2種類あり、サロが2両組み込まれた基本編成については、そのうちの1両は極力サロ46をあて、サロの便所確保について考慮していた。変わった運用としては、湘南電車のピンチヒッターとして東海道線を走ったり、付属編成や予備車を活用して高崎線、上越線にも進出したほか、クロハ49(のちのサロハ49)やクハニ67、42系などと組んで伊東線のローカル仕業にも充当された。70系の増備に伴い横須賀線のダイヤも整備され、1950年代前半にはラッシュ時15分、データイム30分ヘッドのパターンダイヤが確立した。
その後、宅地化による沿線人口の増加をはじめ、東逗子駅の開業や横須賀線電車の川崎駅停車に伴う乗客の増加に伴って、70系を増備することで輸送力の強化を図った。こうして、順調に輸送力の強化に努めてきたのであるが、それでも輸送需要の伸びが旺盛であったことから、1959年2月には終日15分ヘッド基準にするとともに、車両面でもついに基本編成、付属編成を共通化、どちらも6連としてラッシュ時には2本併結の12連、データイムには単独運行の6連での運転を開始した。その一方で、末端 の横須賀~久里浜間は需要が格段に落ちることから、モハ43,53―クハ76(クハ47)の2連による現在につながる折り返し運行が開始された。この時点での主な編成パターンは以下のとおりである(文頭が横須賀寄り)。
- クハ76―モハ70―サロ46(サロ45)―モハ70―モハ70―クハ76
- クハ76―モハ70―サロ46(サロ45)―モハ70―モハ43,53―クハ76
- モハ43,53―サハ48―サロ46(サロ45)―モハ70―モハ70―クハ76
戦前、戦後の横須賀線の主役が入り混じった編成であるが、中でも、サハ48に広窓流電や半流43系の中間車が来た場合は、広窓2扉車同士で編成美を見せたものである。
[編集] 京阪神緩行線の名脇役
京阪神緩行線に70系が配属されたのは、横須賀線と同時期の1951年2月から3月にかけてであった。塗装がぶどう色一色であることや、ジャンパ連結器の芯数の違いから100番台に区分されていたのは前述のとおりであるが、51系と混結して輸送力増強を図るという位置づけであったことから、モハ70のみが17両配属された。その後しばらく増備は止まるが、1954年から1957年にかけて今度はクハも交えて増備された。このときに件の「茶坊主」というニックネームを奉られるが、塗装が地味なこともあって、51系の中に交じってやや脇役的な存在であった。しかし、クロハ69組み込みの基本編成(文頭西明石寄り)は、クハ76(クハ68)―モハ70―モハ70―クロハ69の4連で組成され、付属編成の上り方クハにクハ76が来た場合(モハ51,54―クハ76)には、横須賀線とは異なるぶどう色一色の編成美を見せた。
京阪神緩行線に投入された70系を語るうえで忘れてはならないのは、代用急電への投入である。1950年から急電に投入された80系は、翌年からサハ87を組み込んで5連化され、ラッシュ時20分ヘッド、データイム30分ヘッドで運転されていた。しかしながら急電の予備編成は1本だけしかなく、1952年の夏季シーズンのデータイムに須磨まで急電を延長した際についに編成数不足に陥ってしまった。そこで余裕のあったセミクロスシート化したクハ55とモハ70を5連に編成 、塗色はぶどう色のままでドア横に急行表示を張り、前面には急電の羽根型ヘッドマークを取り付けて急電運用を開始した。そのときの編成は以下のとおり(文頭が須磨寄り)。
- クハ55064―モハ70117―モハ70116―モハ70115―クハ55087
この代用急電は電動車の比率が高かった(3M2T)ためによく走ったが(80系急電は2M3T)、塗色がぶどう色のままだったために誤乗が相次ぎ、苦情が多かったようである。この第一次代用急電は夏季シーズン終了後には復元されたが、翌1953年の夏季シーズンにも再度急電の須磨延長を実施することになったので、再び代用急電の運行を実施することになった。前年の反省と秋以降の急電増発に考慮して 、このときには塗色をマルーンとクリームの関西急電色に塗りかえ、ヘッドマークは当然取り付けて投入した。そのときの編成は以下のとおり(文頭が須磨寄り)。
- クハ68078―モハ70116―クハ68060―モハ70115―クハ68099
このときの代用急電編成は中央の扉は締め切り扱いとし、座席を仮設している。急電色に塗り替えられたために誤乗に関する苦情は減ったが、今度はトイレがないことで苦情が出たようである。
前述のとおり急電の利用者は増加し、夏季シーズン終了後の9月1日から、急電の終日20分ヘッド化を実施した。このため代用急電編成は秋以降も活躍を続け、1954年4月の新長田駅開業に伴う朝ラッシュ時の区間延長(鷹取まで)にも投入されている。その後も1年以上にわたって代用急電は活躍したのだが、1954年12月に入って80系が1編成投入されたので、ようやく代用急電の任を解かれた。その後の代用急電には後述のとおり中央東線から「山スカ」モハ71とクハ76を起用したことがあるほか、1950年代後半にはモハ70とクハ76による代用快速を運転したことがある。このときはあくまでもショートリリーフだったので、塗色変更もないまま、「茶坊主」の編成美を見せていた。その後、1960年代前半には、湖東線の臨時電車にオール70系編成が投入されたことがある。
[編集] 山スカ登場
戦前から中央東線は甲府まで電化されていたが、定期電車の運転は1948年大月までの乗り入れが開始され、翌年には富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖まで乗り入れた。これらの運用には当初、モハ33,34,41形が使用され、後には80系が投入されたが、桜木町事故後、狭小トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、屋根高さを低く抑えた専用の形式が求められるようになった。急場しのぎの対策としては、30系のダブルルーフをシングルルーフに改造して同区間に投入したが、その間にモハ71を改造・新造してこれらの車両を置き換えた。当初はモハ71のみの投入だったために、在来車と混結して使用されたことからぶどう色だったことは前述したが、クハ76も新製投入されるに及んでモハ71、クハ76で編成を組むことになったために全車スカ色に塗り変えられ、「山スカ」の愛称で親しまれることになった。
しかしながら、当時の中央東線では定期運用は河口湖乗り入れと一部のローカルのみであったから、運用に余裕があった。そのために、この「山スカ」グループは、電化区間であればほとんどの線区に入線可能といった特性を生かして、行楽用の臨時電車や「自然科学電車」という遠足用の電車をはじめとした団体臨時列車に起用されることも多かった。その後、1954年から1956年にかけて常磐線電車の有楽町乗り入れで車両が不足したため、断続的に松戸電車区に貸し出されたこともあるほか、関西急電の80系が更新修繕で編成不足となるため、1954年11月から12月にかけて宮原電車区に貸し出されて、代用急電に起用された。このときの編成は以下のとおり(文頭神戸寄り)。
- クハ76056―モハ71012―モハ71009―モハ71008―クハ76055
- クハ76062―モハ71015―モハ71014―モハ71013―クハ76061
このときも中央扉は締め切りで使用されている。この「山スカ」代用急電は、スカ色の塗り分けで前面に急電のヘッドマークをつけていることから電車利用者の誤乗はなかったものの、今度は大阪駅で同じホームから発車する福知山線の利用者からキハ45000系気動車と誤乗した、といった苦情が出た。
このような波動用主体の運用も、1950年代後半に入ると、72系の山岳対応車であるモハ72850代がクハ79とともに増備されたことにより、これらの車両と組んで中央東線のローカルに定着、客車列車の電車化に貢献した。
[編集] 阪和線戦後の主役
戦前の阪和電鉄以来、高速電車として名高い阪和線は、戦時買収私鉄の中でも他の路線とは一線を画す存在であった。戦時中の荒廃がひどかったことによって復興には時間がかかったが、1950年には京都~神戸間の急電を80系に置き換えられた流電や半流43系を3連×4本に編成し、新設の特急電車と従来からの急行に投入した。これらの車両は利用者から好評であり、特急や急行も増発 されていったが、利用者の増加のペースも速く、2扉であったためにラッシュ時には乗降に手間取るようになっていった。また、従来からの阪和型電車も主力として活躍していたが、1950年代 に入ると国鉄標準型への改造工事を更新修繕と同時に実施していたことから工場入場期間も長く、車両数は慢性的に不足していた。そんなところへ、1954年に南海電気鉄道が南海本線の特急・急行用にオール転換クロスシート2扉車の11001系を投入、阪和線に対して質的優位に立った。同時に、南海が当時他の戦時買収私鉄各社(鶴見臨港鉄道や青梅電気鉄道など)とともに進めていた戦時買収線の復帰・払い下げ運動や、阪和電気鉄道の旧経営陣が進めていた阪和電鉄の再興運動に、南海本線に比べると目に見えて復興の進まない阪和線に対して苛立ちを覚えた利用者や沿線住民の一部が同調して、大きな動きに発展する勢いがあった。国鉄としても阪和線は手放せない路線であることから何らかの目に見える対策が必要であり、そのために阪和線専用の新車投入を約束した。
新車といっても、南海11001系と同じカルダン駆動で転換クロスシートの2扉車を投入することは、まずこの時点ではカルダン駆動の技術開発の途上であり、転換クロスシートは当時の普通二等車の主力であるオロ35やオロ41と同レベルのものとなることから、二等車と三等車の格差がなくなるという点からして、当時の国鉄としては投入は困難なだけでなく、ましてオロ35が当時の紀勢西線の準急「くまの」に組み込まれているとあればなおのこと無理な話であった。以上のような問題点やラッシュ時への対応を考慮した結果、ラッシュ時にも対応できて乗り心地や居住性に優れた車両ということで70系の投入が決まり、第一陣の4連×4本(16両)が1955年の11月から12月にかけて阪和色をまとって鳳電車区に配属され、直ちに特急、急行を中心に運行を開始した。
戦時買収私鉄に国電最新鋭の新車が投入されることは空前の出来事であり、4連化されたことによって座席数が増えたことと流電や半流43系より快適なクロスシート、明るい阪和色とあいまって利用者から好評を持って迎えられた。70系の第2陣は1957年暮れから1958年初めにかけて300番台が18両投入され、従来車と合わせて4連×8本+予備2両の合計34両が配属された。この結果、1958年2月には流電や半流43系が飯田線に転属、主役となった70系が国電としては破天荒な「特急」「急行」のヘッドマークを掲げて、阪和線を疾走した。その後、1958年10月には「特急」を「快速」に、「急行」を「直行」にそれぞれ種別変更が実施されている。
[編集] 全盛期
70系の全盛期は1950年代後半~1960年代前半であった。70系が出揃った時点での各線区への配置数は横須賀線が全体の50%強となる157両、京阪神緩行線が全体の1/4弱である65両、中央東線が10%弱の26両、阪和線が1/8強の34両であった。この項では、概ね1965年前後までの当初配置4線区における動きを中心に述べる。
[編集] クハ76の事故復旧改造
1957年に東逗子~逗子間で米軍のトラックと衝突して脱線・大破したクハ76005を、1958年に大井工場で300番台並みの全金属車として復旧、新番号のクハ76351となった。実際のところは復旧は名義のみで、車体は台枠から新造してある。300番台との相違点は以下のとおり。
- 正面運転席の通風器が小型化され、運転台窓下部に2箇所(運転席と助士席)に設置
- 連結面の雨樋縦管を車体内に内蔵
- 台車は種車のTR45を流用
[編集] 1959年車両称号規程改正による改番
この改正で、サロ46を70番台の空き番号であるサロ75に変更した。このとき、旧型電車はトップナンバーを000とすることに変更されていたから、サロ46001→サロ75000のように原番号-1で改番されている 。
[編集] 更新修繕
1951年前期製造車(昭和25年度製造)に対して、1959年から1960年にかけて更新修繕を実施した。内容は以下のとおり。
(全形式実施(2,3点目はモハ70、クハ76のみ))
- 屋根を鋼板屋根にして絶縁ビニールを張り付け
- 妻面のよろい戸通風器の封鎖
- 戸袋窓のHゴム化
(モハ70実施)
- 配電盤の大型化による2位側妻面窓の埋め込みと1位側妻面窓のHゴム化
(クハ76実施)
- 運転台窓のHゴム化と運転台窓下部への通風器取り付け(クハ76351と同じもの)
- 前面下部にタイフォン取り付け
- 運転台扉と客室扉の間に、室内環境改善のために小窓を取り付け
- 便所の小型化及び便所対面座席のクロスシート化(これによって窓割りを1dD6D6D2から1d1D6D6D2(トイレのない側)1d1D6D6D11(トイレ側)に変更)
同時に、モハ70のうち4両を低屋根化改造してモハ71に編入した。改番は以下のとおり。
- モハ70001→モハ71020、モハ70002,70003→モハ71018,71019、モハ70004→モハ71021
[編集] モハ71001の一般化改造
全金属試作車として登場したモハ71001であるが、1962年に内装を中心に量産化改造が実施された。内容は以下のとおり。
- サッシ窓を通常のアルミサッシに変更
- 座席の布地をビニルクロスから通常のモケット張りに変更
- 照明の蛍光灯化
- パンタグラフの変更(PS11→PS13)
[編集] 70系東西争奪戦
横須賀線、京阪神緩行線の両線区とも年々輸送力の増強に追われていたが、70系の後継となる新性能の近郊型電車の登場までまだ時間がかかることが予想された。その間にも横須賀線の輸送力増強に待ったなしの状況となったことから、1960年から1962年にかけて中央快速線や山手線、大阪環状線に101系を投入して捻出した40系や72系を京阪神緩行線に転入させ、70系を30数両(34両、36両の2説あり)京阪神緩行線から横須賀線に転属させた。ただし、不足するサロについては、湘南電車への153系投入で余剰となったサロ85を充当している。また、阪和線快速の輸送力増強や新潟地区の電化に際しても同様の手法がとられ、1964年に入ると京阪神緩行線に残留した70系は10両のみとなってしまった。
1964年以降、今度は横須賀線への111,113系投入に伴って70系が20両弱京阪神緩行線に転入してきて、京阪神緩行線のロングシート化に一時的な歯止めをかける動きを果たした。
[編集] 地方へ
横須賀線への70系の配置両数は、京阪神緩行線からの転属車も含めて1963年初めには175両に達した。しかし、その一方で1962年からは70系の後継者となる111系が登場、1963年からは出力強化型の113系として本格的な量産が始まった。1964年から横須賀線に投入されるようになるが、当初は湘南電車と共通運用のために湘南色の車両がスカ色の「横須賀線」サボを前頭部に取り付けて入線していたが、その後運用を分離してスカ色の113系を投入、70系の置き換えを本格的に開始して、捻出された70系は新規電化区間の開業用や客車列車の電車化に投入されるようになった。その後、横須賀線の70系は1968年までに113系に置き換えられて全車転出、京阪神緩行線においてもロングシート化の進展に伴って最後まで残っていたモハ70が1971年に転出して、70系が最初に投入された両線から撤退した。
その後の70系は新潟地区(信越本線、上越線)や中央西線などの地方線区を主な活躍場所にしたほか、中央東線や阪和線では従来と変わらぬ活躍を続けていた。この項では、70系の本格的な置き換えが始まる1976年前後までの動きについて紹介する。
[編集] 1等車の格下げ改造
横須賀線専用であったサロ75は、地方転出後1等車の需要が減少することから、1965年から1966年にかけて2等車(普通車)への格下げ改造をされてサハ75形(2代)となった。改番は以下のとおり。
- サロ75000,75001,75003,75004,75007,75009~75016→サハ75000,75001,75003,75004,75007,75009~75016
1967年にはサロ75のうち5両を格下げのうえ先頭車化改造を行い、新形式のクハ75形とした。改番及び改造点は以下のとおり。
- サロ75002,75005,75006,75008,75017→クハ75002,75005,75006,75008,75017
改番は、種車の番号のまま改番したので、欠番が多くなっている。
(改造点)
- 前位側に切妻の高運転台を取り付け、前位客用扉を移設のうえ1000mm幅に拡大
- 前位客用扉直後の座席を、種車の座席を流用してロングシート化
これらの改造によって窓割りはdD7D1となった。
1969年には、ラッシュ対策のために中央西線及び飯田線で使用しているサハ75の3扉化改造を実施した。改造内容は、車体中央部に幅1000mmの客用扉を設置し、新設ドア周囲の座席を、種車の座席を流用してロングシート化し(窓割りはD4D3D1)、ラッシュ時の詰め込みを容易にした。改番は以下のとおり。
- サハ75003,75007,75010~75016→サハ75101~75109
なお、元1等車の3扉化改造については、80系のサロ85形を格下げしたサハ85形においても実施されている。
[編集] サロ85のクハ77への格下げ・編入改造
1968年の両毛線電化に際し、不足する先頭車を補うため、横須賀線の70系編成に組み込まれていたサロ85を3扉化のうえ先頭車化改造し、新形式のクハ77形(2代)として70系に編入した。改番及び改造点は以下のとおり。
- サロ85006,85011,85012,85020,85024,85030→クハ77000~77004,77006
(改造点)
- 前位側に切妻の高運転台を取り付け、前位客用扉を移設のうえ1000mm幅に拡大
- 車体中央部にも幅1000mmの客用扉を設置
- 前位客用扉直後及び中央部扉周囲の座席を、種車の座席を流用してロングシート化
- 車端部のデッキを撤去
これらの改造によって、窓割りはdD3D31Dとなった。
このクハ77やクハ75は、後に登場するクハ103-269以降の高運転台車と同じ前面スタイルで、80系のサロ85やサハ87を同様に先頭車化改造したクハ85とともに独特の外観を持つグループとなった。
[編集] その他の改造
上記のような1等車の格下げ改造のほか、各地域の使用状況に応じた改造も実施された。
- タイフォンを運行表示幕の部分に移設し、耐雪カバーを取り付け(新潟地区)
- 通風器を押込型通風器に改造(仙石線)
- 前照灯のシールドビーム2灯化改造(長野地区)
[編集] 各線区での活躍
地方に転出した70系は、大半の線区では編成単位で運用されたが、中には仙石線や飯田線のように一部の中間車だけが転出した路線もあった。この項では、登場当初から活躍している中央東線や阪和線をはじめ、転出先の各線区での活躍を紹介する。
[編集] 山スカのその後
甲府までのローカル運用や富士急行乗り入れ運用といった中央東線ローカル運用に定着したモハ71とクハ76のいわゆる「山スカ」グループは、前述のモハ70の低屋根化改造によるモハ71への編入や横須賀線用のクハ76の転入により、1965年には43両の所帯にまで成長した。この頃には同じく三鷹電車区に配属されていた「山ゲタ」モハ72850番台やクハ79を編成中に組み込み、4連を一単位として運行されていた。編成中に72系を組み込んだのは、歯車比が同一なのもさることながら、72系だけで編成を組むと便所がないために中長距離運用に支障を来たすためであった。
これら「山スカ」グループは、1966年から登場した115系に伍して活躍を続け、時として115系が遜色急行運用に組み込まれたときにもローカル運用に従事し、中央東線の電化区間の延伸に伴って小淵沢まで運用区間を拡大した。こうして、1960年代から1970年代前半にかけて中央東線の主役として活躍した「山スカ」だったが、1975年から1976年にかけて中央東線に新製冷房車の115系300番台が投入されたことによって広島へ転出、活躍の舞台を呉線に移すことになった(クハ76が2両72系とともに残留)。
[編集] 阪和線のベテラン健在
阪和線の70系は、1964年までに京阪神緩行線からの転属車も含めて4連×12本の48両にまで勢力が拡大し、阪和形電車や40系などとともに阪和線の主力として、快速・直行運用を中心に活躍を続けていた。1965年から天王寺~鳳間で快速・直行の6連運用が開始されると、天王寺寄りに阪和型電車や40系の2連を増結して、阪和色の70系とオレンジ色の阪和形電車や40系の混結編成が見られるようになった。その後、前述のように阪和色からスカ色への塗装変更が実施され、1968年からは阪和線に103系が投入されることによって日中の快速運用の座を103系に譲ることになるが、70系は直行から改称された区間快速の運用を中心に活躍を続けた。
阪和線の旧型電車は、阪和型電車が旧型国電最強の出力を誇っていたほか、従来から在籍していた40系の電動車は高出力モーター(MT30,MT40)装備のクモハ60,61であり、51系の異端車であるクモハ51073も同じモーターを装備しており、阪和形電車の後を引き継いだ72系も同じモーターを装備していた。70系の予備車が不足した場合はこれらの車両を組み込んだことがあるほか、後年の6連化の進展に伴って各形式の混成編成がしばしば見受けられた。その一方で、70系300番台だけで組成された4連は阪和線だけに見られた編成で、全金属車だけの編成美を見せつけたものである。
1972年3月のダイヤ改正で阪和線にも新快速が登場し、東海道・山陽快速の113系冷房改造車が転入してきた。103系や70系も交えて運用の見直しを行った結果、70系のうち余剰の8両を長野運転所に転出させた。また、翌1973年10月の関西本線湊町~奈良間の電化開業に際して、113系の予備車の運用を阪和線・関西本線の共通運用としたため、ここでも余剰となった70系が12両長岡運転所に転出、阪和線に残った70系は28両と、全盛期の半数近くまで減少した。しかし、70系はそれでも40系や72系と組んで、区間快速運用を中心に快速から普通まで活躍を続けた。
[編集] 越後路をゆく
前述のように、新潟地区における70系の活躍は、1962年の信越本線長岡~新潟間の電化開業時に京阪神緩行線からクハ68とともに転入した車両とともに始まった。その直後の38豪雪や新潟地震といった災害発生時には電車特有の機動力を発揮、電車の有効性を知らしめた。その後も横須賀線と京阪神緩行線から70系やクハ68の転入が相次ぎ、当初は新潟~長岡間だけであった運行区間も延長され、上越線は清水トンネルを越えて高崎まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津、後には妙高高原まで拡大した。
新潟地区の70系で特筆すべき点は、スカ色の塗り分けを赤と黄色に変更した、いわゆる「新潟色」に塗られていたことである。雪の降らない地域の人間から見ると少しどぎつく見えるきらいもあるが、冬季における視認性の向上や、北国の陰鬱な冬に打ち克つために明るい色を好む地域性(Jリーグのアルビレックス新潟のユニホームカラーのオレンジ色にも共通する)から、「新潟色」の採用につながったものである。しかし、冬季だけでなく新緑の風景や越後平野の水田にも映える塗色であったことから、ローカルカラーとして定着していった。
その後も、中央西線や阪和線から70系が転入してきただけでなく、70系の中間車用としてサハ87も静岡から転入してきた。もちろん、これらの車両も「新潟色」に塗られている。そして、1972年の羽越本線・白新線電化に伴って、運転区間も交流電化区間との境界である村上まで延長、北陸本線の一部区間を除く新潟県内の直流電化区間を、「新潟色」の70系が縦横無尽に走り抜けた。
[編集] 濃尾路に移った横須賀線
1966年7月の中央西線名古屋~瑞浪間の電化に伴い、横須賀線と京阪神緩行線から転入してきた70系とクハ68によって同区間における電車運転を開始した。同年10月からは運行区間を東海道本線浜松~米原に拡大、客車列車の電車化に貢献した。1968年には所属を神領電車区に移管、同年10月のダイヤ改正では中央西線の電化区間が中津川まで延伸されたことによって、運行区間を中津川まで拡大した。
中央西線の70系は、基本編成が6連、付属編成が4連で構成され、ラッシュ時には10連運行も実施された。また、基本編成の中間には格下げ車のサハ75、サハ85が組み込まれており、これらの車両に等級帯がなく、後に3扉化されたとはいえ、横須賀線時代そのままの姿に、横須賀線70系全盛期の雰囲気を漂わせていた。その後、東海道線内の運用を80系に、中央西線ラッシュ時の運用の一部を72系にそれぞれ譲ったことによって陣容を縮小、余剰車を新潟や長野に転出させた。この過程でクハ68を全車転出させたことから、クハ68組込編成の京阪神緩行線スカ色版の雰囲気は抜け、ますます横須賀線の雰囲気に近くなった。
1973年の中央西線・篠ノ井線全線電化に伴い、70系の運行区間を坂下まで延長、1975年には南木曽まで延長した。1976年には新規開通した岡多線に付属編成2本を投入、新幹線ばりの高架橋を70系が快走する姿や、出入庫時に再び東海道線を走る姿が見られるようになった。
[編集] 関東平野北辺の70系
1968年の両毛線電化に際し、横須賀線に最後まで残留していた70系42両(この中にはクハ77形6両を含む)を4連に組み替えて、新前橋電車区に投入した。その後、1970年の吾妻線の電化開業に伴って同線の運用の一部を受け持つことになった。その後、モハ70が1両1971年に仙石線に転属したほかは大きな動きはなく、両毛線の主力として活躍した。
[編集] 北信越の70系
1972年3月のダイヤ改正で、阪和線及び中央西線から長野運転所に転属してきた70系(中央西線からの転属車にはクハ68を含む)を活用して、信越本線長野地区ローカルの電車化を実施した。70系の運用区間は軽井沢~柏崎間で、同時に投入された80系とは異なり、いわゆる「横軽越え」には投入されていない。しかし、妙高高原~柏崎間では新潟色の70系と競演することとなり、スカ色と新潟色のすれ違いや交換が見られるようになった。1974年には長野運転所への381系増備に伴ってローカルの70,80系を松本運転所に転出させたことにより、出入庫の間合い運用に篠ノ井線の松本まで運行区間を拡大した。また、輸送力増強のため1975年には仙石線からモハ70を3両、1976年には新潟地区からモハ70を1両とクハ68を2両転入させている。
[編集] 瀬戸内の山スカ
電化前の呉線の通勤列車は、C59やC62が、10両近く連結されたスハ32系やオハ35系を引っ張る勇壮なものであった。電化時に一部EF58牽引の客車列車は残ったものの、ローカルの主力は80系であり、通勤列車は首都圏から転属の72系10連で運行されるようになった。この72系は長編成でラッシュ運用に当たったことから、うぐいす色ながらも常磐線など首都圏の重通勤線区を連想させる雰囲気があった。しかし、72系は確かにラッシュ時の詰め込みはきくものの、車内のアコモデーションや居住性は従来の客車列車や同時に投入された80系に比べて大きく劣るものであり、利用者から不満の声が出ていた。
一方、115系300番代に置き換えられた「山スカ」であるが、転出先の線区の選定に苦労していた。当初予定していた中部地方の山岳電化路線では最終的な条件が合致せず、投入線区が二転三転した結果、呉線通勤電車の72系置き換えに投入されることとなり、1976年の1月から3月にかけてモハ71全車と三鷹配属のクハ76のうち残留した76045,76071の2両を除く18両の合計39両が「山ゲタ」の一部とともに広島に転入、従来から広島に配属されていたうぐいす色のモハ72の一部と組んで、10両編成3本と8両編成1本を組成、広・呉~広島間の通勤列車を中心に、呉線と山陽本線広島~小郡間で活躍を開始した。それまで甲州の山岳地帯を駆け抜けて、遠くに南アルプスや八ヶ岳の山並みを眺めて走っていた「山スカ」が、穏やかな広島湾の海岸線沿いをうぐいす色のモハ72を挟んで走る姿は思いがけないものであったが、長編成でSL時代の名撮影地の一つである黒瀬川橋梁を渡る姿は、C59,C62牽引の通勤列車とは違う迫力があった。
[編集] 中間車のみ転入
飯田線と仙石線は編成単位での転入はなかったものの、一部の中間車が転入した。
飯田線には1966年にサハ75形が4両転入、流電編成の中間車に起用された。横須賀線のところでも紹介したように、広窓流電編成とは従前から同一の編成を組んでいたかのような編成美を見せた。このサハ75も、1969年に3扉化改造を実施されている。
仙石線には、1971年に最後まで京阪神緩行線に残留していたモハ70が3両転入してきて、うぐいす色に塗り替えられて、先に京阪神緩行線から転入していたクモハ54やクハ68と組んで特別快速や快速運用を中心に従事した。同年に両毛線用のモハ70が1両転入するが、1975年に3両が信越本線長野ローカルに転出、残るは1両のみとなった。
[編集] 終章
70系の本格的な置き換えは1976年から始まった。中央東線から「山スカ」が撤退したのに続き、同年秋には新潟地区に東北・高崎線からの115系が導入されたことによって一部の車両が廃車になったほか、一部は前述のように信越本線長野ローカルに転出した。このときの運用減によって、清水トンネルを抜けて高崎に向かう上越国境越えの運用が消滅している。また、1977年初めには仙石線に残留していたモハ70が廃車されたほか、同年夏には三鷹に残留していたクハ76も「山ゲタ」ともども廃車になっている。
同じ頃、阪和線の70系も最後の活躍を見せていた。1974年以降も阪和線向けの103系、113系の増備は続き、6連で投入されたことから、ホーム長が短く4連分しかない日根野以南には快速以上の列車種別でないと運用することができず、これらの各駅に停車する区間快速及び普通は、70系をはじめとした旧型車の独壇場であった。しかし、山手線・京浜東北線からの103系の転入が進むにつれ6連運用が拡大、1976年11月に日根野以南各駅のホーム延長(4両→6両)を実施して、羽衣支線を除く阪和線全駅のホームを6両対応とした。この時点で旧型車も含めて天王寺~和歌山間の完全6連化を実施、編成替えの中で多くの旧型車が戦列を離れる中、70系は大半の20両が6連組に入り、70系単独編成か、あるいは中間にモハ72を組み込んだ6連を編成し、区間快速運用を中心に活躍した。このとき編成された300番台ばかりの6連は、70系史上空前絶後の統一された編成で、ファンには4M2Tの強力編成であることからいま一度快速運用につくことを期待させた、70系最後の晴れ姿とでも言うべき美しい編成であったが、1977年3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月にモハ72と組んでさよなら運転をした後、余剰廃車となった4両を除く24両が福塩線に転出した。
このように、1977年前半までは、70系運用線区に新性能車両を投入することで70系を捻出し、その70系を他線区の老朽車両取替えや輸送力増強に充当する、「玉突き転配」を実施していた。しかし、1977年後半からは70系運用線区に直接新車を投入して70系を廃車する、「直接置き換え」に方針を変更した。この時期になると、70系も初期の車両を中心に老朽化が進行していたからである。
まず最初に置き換えられたのは、信越本線長野ローカルの70系であった。1976年1~2月にかけての豪雪の際、信越国境の急勾配区間で70系のローカルが雪に耐え切れずにスリップして次々とダウン、多くのローカル電車が遅延や運休を余儀なくされた。この事態を憂慮した当時の長野鉄道管理局は国鉄本社に対して70系の置き換えを要請、国鉄本社も当時推進していた地方線区近代化の一環として、耐寒耐雪形の115系1000番台を松本運転所に投入、1978年1月に一気に70系を置き換えた。1977年から115系への置き換えを開始していた両毛線の70系も、同じ頃に投入された115系1000番台によって1978年3月までに吾妻線内の運用ともども115系化された。
次の置き換え目標は新潟地区だった。このときの置き換えは大規模なもので、1976年に投入した115系も含めて全車115系1000番台化するというものであった(115系は80系置き換えのために広島に転出)。当初は1978年7月までに70系の置き換えを完了するというものであったが、1978年5月に発生した信越本線関山~妙高高原間での地すべりと6月の集中豪雨による柏崎駅の冠水によって、115系の投入計画と70系の置き換え計画が大幅に狂ってしまった。信越本線の直江津側の開通区間の運用のために急遽70系の休車の中から4M2Tの強力6連を編成、関山~直江津間の運用に投入した。このときの編成は以下のとおり。この編成のうちのモハ70102は、1962年の新潟電化当初に京阪神緩行線から転属した10両の中の唯一の生き残りで、38豪雪も新潟地震も経験した古豪であった。
クハ76064―モハ70022―モハ70102―モハ70011―モハ70016―クハ76049
このように最初から最後まで災害に翻弄され続けてきた新潟地区の70系であったが、7月以降は115系の投入も順調に進んだことから、8月23日に上記の強力編成をもってさよなら運転を実施、新潟色ともども70系は姿を消した。
最後の牙城として残った中央西線の70系は、1978年7月から 神領電車区に113系2000番台が配置され、10月からは岡多線にも投入、12月には全車置き換えられた。12月17日に中津川~名古屋間でさよなら運転が実施されている。また、同じ時期に飯田線のサハ75も流電の引退と時を同じくして引退している。
呉線・山陽本線の「山スカ」も1978年9月から広島運転所の115系2000番台をはじめとした115系に置き換えを開始、12月にひっそりと営業運転を終了して広島での短い活躍を終えた。
こうして70系は1978年に勢力を激減させてしまい、最後に残ったのは福塩線だけとなった。福塩線の70系は前述のように阪和線からの転属車だったが、どちらも私鉄買収線区だったのは偶然である。阪和線時代とは打って変わって単線のローカル線を穏やかに走っていたのだが、ここも安住の地ではなく、105系の投入によって同線における運用が1981年3月1日をもって終了、30年にわたる歴史に幕を引いた。
一時期モハ71001が広島工場内において保管されていたが、後に廃車解体されたため、保存車両は存在しない。
[編集] 参考文献
- 浅原信彦『ガイドブック 最盛期の国鉄車両2 戦後型旧性能電車』(ネコ・パブリッシング、2005年) ISBN 4777003485
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2002年2月号 No.713 特集:モハ70系電車
- 交友社『鉄道ファン』各号(1977年11月号 No.199 特集:旧型国電ここに健在、横須賀線ものがたり、1978年12月号 No.212 関西急電ものがたり③)
- 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』各号(1977年8月号 No.126 特集:旧型国電は生きている、1978年5月号 No.135 特集:鉄路の名ワキ役・近郊型車両、1979年4月号 No.146 RAILWAY TOPICS 国電の巨星あいついで堕つ、山スカの終焉、1980年12月号 No.166 特集:最後の旧型国電)
- 関西鉄道研究会『関西の鉄道』No.15 1986年 京阪神国電特集
[編集] 関連項目
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