国鉄C62形蒸気機関車
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C62形蒸気機関車(C62がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。
1948年(昭和23年)から翌年にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両(日立製作所21両・川崎車輛(現・川崎重工業)15両・汽車製造13両)が製造され、東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。日本最大最強の旅客用蒸気機関車であり、シロクニとも呼ばれる。
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[編集] 改造までの経緯
終戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用機関車が大量に在籍していたが、これらは終戦と共に大半が余剰となった。一方で、旅客用機関車はかなり不足していた。これに加えて、買出しによる列車の混雑は激しくなる一方であり、旅客用機関車は更に不足するようになった。
しかし、占領軍(GHQ)のインフレ抑制政策(ドッジ・ライン)により、機関車の新製は厳しく制限されていた。そこで、GHQ側担当将校の助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち、一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用[1]して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった。
これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造された。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車であったのに対し、C62形はC59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に改造されたものである。
なお、D52より転用のボイラーは、戦時製造の為信頼性が低く、少数の早期廃車機をのぞいては後に新製ボイラーに換装されている。
[編集] 構造
機関車全長は、炭水車を含めて21.48m。重量は145.2t。走行装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1750mm。軸配置は、従来の2-C-1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)のパシフィック形では、軸重が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2-C-2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形とし、軸重を16.08tに軽減した。また、この従台車の支点の位置を変え、先台車のバネ定数を変更する事により、軸重を甲線対応の14.9tに引き下げる事が可能で、この軽軸重化は、新製時から軽軸重型として製造されたものと完成後の配置機関区換えの際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工され、白河以南の東北本線や仙台以南の常磐線で使用されたほか、その末期には、電化の進展で余剰を来たした通常型を軽軸重型に改造の上で、軽軸重型の需要があった函館本線に転用している。弁装置は、国鉄制式機の通例通り、ワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。
本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場、川崎車輌兵庫工場、汽車製造大阪工場の3社3工場が担当したが、その設計については試作機としての役割を持つ1~4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、前後同一形状のボイラードームケーシングや、意図的にメインロッドとエキセントリックリンクロッドが平行になるように調整された弁装置など、同社設計陣の美意識によって日立・川崎製とは異なる個性の強い形状となっていた。
ボイラーはD52形からの転用であるため寸法は同一で、煙管長は5000mm、燃焼室付きである。
炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたのと同一の、全溶接構造の船底形車体に石炭10tおよび水22tを搭載する、10-22形が連結されていた。しかし、2~4号機で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー)装備試験を行った結果、5号機以降でこれが制式化(但し初期製作分は完成が遅れ、自動給炭機を非搭載のまま就役している)され、炭水車も10-22S形に変更された。
本形式は大直径動輪の上に破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、ドームも平らなものとなった。また、汽笛は限界に収まるよう、斜めに取り付けられている。
最大出力は1620psで、これは母体となったD52形の1660psに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現しており、実際にも新造開始直後に山陽本線糸崎~八本松間で実施されたC59形(ボイラに燃焼室を持たない戦前型)との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20%以上節約されるという好成績を収めている。
[編集] 運転
1948年に完成したC62形は、当初、東海道本線・山陽本線沿線の各機関区に分散配置され、C59形と共通運用で運転を開始した。また、1949年には、最初から軽軸重型として完成したタイプが東北本線(白河機関区配置。白河以南で使用)・常磐線(尾久機関区配置)に新製投入された。
1950年10月改正では、東京-大阪間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の換算両数が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため、東海道・山陽本線で運用されていたC62形の内、調子の良いものが宮原機関区と浜松機関区に集められ、これらを整備の上で、当時非電化であった浜松-大阪間の牽引に充てることとなった。C62形はこの特急運用においてその持てる性能を遺憾なく発揮したが、特に宮原機関区では特急運用において、機構上の制約から投炭時に石炭くずが発生しやすい自動給炭機の使用を制限し、人力投炭によって乗客に不快感を与えるシンダの発生を抑止するという、本形式の火格子面積や関ヶ原越えを含む厳しい線路条件からすると驚く他ない、過酷な運用を実施したと伝えられている。
東海道本線の電化区間が西に伸びるに従って、C62形の運用区間も西に移動していったが、1956年11月19日の東海道本線全線電化完成によりその座をEF58形電気機関車に譲るまで、「つばめ」・「はと」の牽引機を務めた。
以降も、C62形は山陽本線を活躍の場として、京都-博多間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」などの牽引にあたった。東北線・常磐線においても、1958年に新設された特急「はつかり」などを上野-仙台間(の常磐線内)で牽引した。
しかし、幹線電化の進展により活躍の場は狭められていき、1964年10月には山陽本線の全線電化完成とともに特急運用が消滅し、その後は呉線経由で運転されていた急行「安芸」などの呉線内(糸崎-広島間)での列車牽引に充当され続けたものの、1970年9月末日には呉線電化完成により、最後まで残った糸崎機関区への配置が無くなり、新製配置以来の東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた。
一方、東北・常磐線系統では、「はつかり」が運行開始後わずか2年の1960年に、新開発のキハ80系気動車へ置換えられて一旦特急仕業が消滅したが、1965年の東北本線盛岡電化の際に新設された20系寝台特急「ゆうづる」[2]の平(現・いわき)-仙台間の牽引に抜擢され、これが本形式による最後の定期特急列車運用となった(「はつかり」の気動車化後から「ゆうづる」の新設までの間も、常磐線内では、客車急行牽引の主力機として活躍していた)。しかし、この「ゆうづる」も2年後の1967年9月20日には同区間の電化完成で電気機関車牽引となり、同年9月末日には平機関区へのC62形の配置そのものが無くなった。
また、それ以前の1957年には、山陽本線配置のC62形7両(後に15、16号機の2両も)が軽軸重化のうえ、耐寒装備が施工され、北海道へ送られた。
これらは函館本線の要衝であった小樽築港機関区に配置され、函館本線で「大雪」「まりも」「ていね」→「ニセコ」等の急行列車牽引に使用された。特に急勾配と急曲線が連続する長万部-小樽間の通称・山線区間は、補助機関車を連結して重連運転となった(C62形重連、または前部補機D51形と本務機C62形による重連。ただし、急行「大雪」のC62形牽引時代の末期は、通常期は客車が減車されたため、基本的に単機牽引となった)。こうして小樽築港機関区へ転属となったC62形の中には、除煙板につばめマークを取り付けた2号機も含まれ、人気を集めた。
なお、一時期は、間合い運用で、函館-札幌間の夜行準急・急行「たるまえ」→夜行急行「すずらん」(いずれも室蘭本線・千歳線経由)の函館-長万部間や、函館-網走間(函館本線・石北本線経由)の夜行準急・急行「石北」(前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。1968年10月のダイヤ改正以降の札幌-網走間の夜行急行「大雪6・6号」→1978年10月のダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→1980年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→2006年3月のダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急「オホーツク9・10号」の母体となった列車)の小樽-旭川間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の普通列車の一部も牽引した。
最後まで重連運転の残った「ニセコ」も1971年9月15日の三重連運転を最後に、DD51形ディーゼル機関車に置き換えられた。翌1972年秋に2号機は動態保存先の梅小路へ転属となり、3号機が臨時列車用として残ったが、他の同型機は廃車解体となった。その後、一時休車状態にあった3号機が、1973年(昭和48年)の一時期にも函館本線の普通列車を牽引したことがあった。しかし、この3号機も、函館本線の小樽-長万部間の完全無煙化により1973年10月末で休車となった上で間もなく廃車となり(正式な除籍は1976年3月末)、1976年(昭和51年)から1986年(昭和61年)秋まで、小樽市の北海道鉄道記念館(現・小樽交通記念館)で静態保存されていた。
ただし、上記のように優等列車を中心に第一線で華々しく活躍した本形式ではあるが、意外なことにお召列車を牽引したことは一度もないまま終わっている。
[編集] 主要諸元
- 全長 21,475mm
- 全高 3,980mm
- 軸配置 2C2(ハドソン)
- 動輪直径 1750mm
- シリンダー(直径×行程) 520mm×660mm
- ボイラー圧力 16.0kg/cm²
- 火格子面積 3.85m²
- 全伝熱面積 244.5m²
- 過熱伝熱面積 77.4m²
- 全蒸発伝熱面積 167.1m²
- 煙管蒸発伝熱面積 147.4m²
- 火室蒸発伝熱面積 17.5m²
- ボイラー水容量 9.87m³
- 大煙管(直径×長サ×数) 140mm×5000mm×35
- 小煙管(直径×長サ×数) 57mm×5000mm×94
- 機関車重量(運転整備) 88.83t
- 最大軸重(第3動軸で) 16.08t
- 炭水車重量(運転整備) 56.34t
- 機関車性能:
- シリンダ引張力 13870kg
- 粘着引張力 12058kg
- 動輪周馬力 2163PS
[編集] 保存機
1972年10月に鉄道100年を記念して設立された梅小路蒸気機関車館に、2号機が動態保存されており、西日本旅客鉄道(JR西日本)に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初には京都-姫路間で臨時列車「SL白鷺号」を定期的に何度か牽引しているが、現在同機は、本線走行に必要な法定検査を受けておらず構内展示走行のみ可能な状態である。なお、2号機は蒸気機関車館保存後の1974年(昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場(現長野総合車両センター)で全般検査が実施されたが、その後「SL白鷺号」等の本線自力走行や本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。
トップナンバーである1号機は1967年(昭和42年)7月14日廃車後、保存を見越したためか広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年(昭和51年)3月、広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された。しかし国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、1994年に梅小路蒸気機関車館に移されている。
なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車輌選定において、同一形式が複数残存した場合最若番機を最有力候補としていたようである。C62形は当然ながら1号機が存在し、当初は候補に上がっていたが、2号機の人気には逆らえず変更となった模様である。
また、国鉄分割民営化直前の1987年、小樽市の北海道鉄道記念館(現在の小樽交通記念館)に静態保存されていた3号機が同年秋頃より小樽築港機関区において仮復旧の上、民営化直後の4月より苗穂工場で動態復元され、翌年の1988年から函館本線小樽-倶知安間で、「C62ニセコ号」として復活運転を開始した。後に運転区間は小樽-ニセコ間に拡大され、ニセコ駅には専用の転車台(新得機関区に以前あったものを転用)も設置された。しかし本機の運転を行っていた北海道鉄道文化協議会が全般検査費用の資金が確保出来ず、また走行に必要な費用の確保もままならなくなり、1995年11月3日をもって運転中止に追い込まれた。後に北海道鉄道文化協議会は解散した。現在JR北海道は再び蒸気機関車を復活させているが、小型で汎用性の高いC11形となった。なお、現在の運行はJR北海道自身で行っている。
3号機は、将来の復活の可能性に備えて北海道旅客鉄道(JR北海道)苗穂工場に保存されることとなり、しばらくの間車籍を保持していたが、2000年に除籍された。
他に名古屋市千種区・東山動植物園に日本の蒸気機関車最高速度記録保持機の17号機、大阪市港区・交通科学博物館に26号機が静態保存されている。また、東京駅丸の内側地下コンコース「動輪の広場」には15号機の動輪のみが保存されている。
以上から明らかな通り、特徴的な形状で知られた汽車製造製グループの13両からは1両も保存されていない。この汽車製造製グループのラストナンバーにして、本形式のラストナンバーでもある49号機は1967年秋の廃車後、保存を考慮してしばらく平機関区に保管されていたが、結局保存先が決まらず、そのまま解体処分に付されてしまった。これは時期的にいわゆるSLブームが社会現象となる直前の時期に廃車されたが故の不運であったが、この49号を含め汽車製造製グループは新造時より軽軸重仕様で竣工したものが多く、東海道・山陽本線系統ではなく、東北・常磐線系統に配置されて比較的地味な運用に就いていたため、モニュメント性に欠けていたことが、保存車選定に当たって明暗を分ける原因となったともいえよう。
[編集] 特徴ある車両
- 2号・18号 - 除煙板(デフレクターとも称す)に『つばめマーク』付き。そのため、2号は『スワローエンゼル』という愛称で呼ばれていた。また、18号機のツバメは2号機のツバメに比べて頭部を下げた位置で取り付けられており、両機が東海道線で活躍していたころは『下がりツバメ』と称して区別された。しかし18号機の『つばめマーク』は梅小路蒸気機関区に転出の際、外された。
- 12号 - 除煙板に『つばめマーク』が付けられたという伝説がある車体。ただし映像等は見つかっておらず文字通り幻のマーク。外部リンクを参照のこと。
- 17号 - 1954年4月に東海道本線木曽川橋梁にて129km/hの狭軌蒸気機関車最高速度達成。
- 25号 - お召し列車先導列車用特別整備車(1956年11月2日運転・本務機C59 108号)。
- 29号 - 特別整備機関車(ステンレス装飾など)・『宮原のエース』の愛称。
- 30号 - お召し列車先導列車用特別整備車(1953年2月28日運転・本務機不明)。
- 42号 - 1953年2月に試作集煙装置取り付け、1956年11月北海道の小樽築港機関区へ転出の時に撤去。
[編集] 改番照合表
改造前 | 改造後 | 落成日 |
---|---|---|
D52 74 | C62 1 | 1948年01月17日 |
D52 455 | C62 2 | 1948年05月20日 |
D52 458 | C62 3 | 1948年06月18日 |
D52 399 | C62 4 | 1948年06月30日 |
D52 349 | C62 5 | 1948年07月20日 |
D52 461 | C62 6 | 1948年07月31日 |
D52 464 | C62 7 | 1948年08月25日 |
D52 446 | C62 8 | 1948年08月29日 |
D52 121 | C62 9 | 1948年09月06日 |
D52 119 | C62 10 | 1948年09月23日 |
D52 150 | C62 11 | 1948年10月06日 |
D52 445 | C62 12 | 1948年10月23日 |
D52 447 | C62 13 | 1948年11月20日 |
D52 145 | C62 14 | 1948年11月30日 |
D52 112 | C62 15 | 1948年12月15日 |
D52 127 | C62 16 | 1948年12月22日 |
D52 69 | C62 17 | 1948年12月30日 |
D52 375 | C62 18 | 1949年01月26日 |
D52 407 | C62 19 | 1949年03月06日 |
D52 25 | C62 20 | 1949年03月14日 |
D52 77 | C62 21 | 1949年03月20日 |
D52 22 | C62 22 | 1948年08月20日 |
D52 23 | C62 23 | 1948年08月31日 |
D52 106・D52 233 | C62 24※ | 1948年09月24日 |
D52 226 | C62 25 | 1948年09月30日 |
D52 46 | C62 26 | 1948年10月08日 |
D52 49 | C62 27 | 1948年10月16日 |
D52 151 | C62 28 | 1948年10月21日 |
D52 85 | C62 29 | 1948年10月28日 |
D52 152 | C62 30 | 1948年11月11日 |
D52 227 | C62 31 | 1948年11月18日 |
D52 147 | C62 32 | 1948年11月24日 |
D52 82 | C62 33 | 1948年11月30日 |
D52 230 | C62 34 | 1948年12月18日 |
D52 93 | C62 35 | 1948年12月26日 |
D52 231 | C62 36 | 1948年11月12日 |
D52 358 | C62 37 | 1948年09月18日 |
D52 374 | C62 38 | 1948年09月29日 |
D52 141 | C62 39 | 1948年10月06日 |
D52 367 | C62 40 | 1948年10月15日 |
D52 352 | C62 41 | 1948年10月23日 |
D52 357 | C62 42 | 1948年11月12日 |
D52 345 | C62 43 | 1948年11月30日 |
D52 356 | C62 44 | 1948年12月26日 |
D52 353 | C62 45 | 1949年03月08日 |
D52 26 | C62 46 | 1948年03月21日 |
D52 366 | C62 47 | 1948年03月31日 |
D52 380 | C62 48 | 1949年04月08日 |
D52 104 | C62 49 | 1949年04月20日 |
※D52型2台のボイラーを使い新しいボイラーを合成した。乙缶と丙缶の2種類を利用。なお、乙缶、丙缶とも戦時の低規格ボイラーである。後に戦時製造の甲缶を含めて殆どのボイラーが鷹取工場などの国鉄工場で新製された甲缶に取り替えられた。
[編集] こぼれ話
- 松本零士作の漫画「銀河鉄道999」にも、主役の銀河鉄道超特急999号の牽引機としてC62形が登場する。原作の漫画及び映画版では48号機であったが、テレビアニメ版では実物に敬意を表して50号機になっている。
- ゲームソフトメーカー、ハドソンの社名の由来は、C62の動輪配置のハドソン形より取った。また、同社が開発したNECホームエレクトロニクス社製家庭用ゲーム機(PC Engine・PC-FX)向けチップセットには、「HuC62xx」(xxは2桁の数字)という型番が与えられていた。
- アニメ「勇者王ガオガイガー」の第3話「聖なる左腕」にも、敵役のロボットに変形する機械素体として2号機が登場。ちなみに3重連状態で登場しているが、なぜか3両ともC62-2というナンバープレートが付いている。
[編集] 脚注
- ↑ 予算難で発注がキャンセルされたC57・C59形(戦後型)の仕掛り部材救済が目的の一つであり、鋳造台車枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。
- ↑ この「ゆうづる」にはヘッドマーク(黒岩保美デザイン)が掲げられていたが、「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急であることを念頭に置いて、C62形に装着した際にもっとも映えるように配慮してデザインされたという。
[編集] 参考文献
- 庄田秀「C62トップナンバー 9年ぶりに安住の地へ」 交友社『鉄道ファン』1976年8月号 No.184 p80~p83
- 西村勇夫「回想 C62形二羽のつばめ」 交友社『鉄道ファン』2002年10月号 No.498 p104~p111
- 「幻のつばめ」C62 18号機の記録写真と東海道C62形の特急運転
- 西村勇夫「C62 42とある特急機関士」その1 交友社『鉄道ファン』2003年11月号 No.511 p124~p130
- C62 42号機の車歴と試作集煙装置始末、2(2003年12月号)と3(2004年1月号)は萱原登「-つばめ・はと- C62特急に乗務した6年間」前・後編
[編集] 外部リンク
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車 |
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タンク機関車 |
960・1000II・1070・1150・B10・B20/2700II・2900・3500・C10・C11・C12/4100・4110・E10 |
テンダー機関車 |
6700・6750・6760・B50 8620・8700・8800・8850・8900・C50・C51・C52・C53・C54・C55・C56・C57・C58・C59・C60・C61・C62・C63(計画のみ) 9020・9550・9580・9600・9750・9800・9850・D50・D51・D52・D60・D61・D62 |