前田日明
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基本情報 | |
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本名 | 前田 日明 |
あだ名 | クラッシャー スパーリング・フラッシュ 七色のスープレックス |
階級 | ヘビー級(プロレス) |
国籍 | 日本(帰化) |
誕生日 | 1959年1月24日 |
出身地 | 大阪府大阪市 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | Uスタイル |
プロ総合格闘技戦績 | |
総試合数 | |
勝ち | |
KO勝ち | |
一本勝ち | |
敗け | |
引き分け | |
無効試合 |
前田日明 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 前田日明 前田明 クイックキック・リー |
本名 | 前田日明(民族名・高日明) |
ニックネーム | 格闘王 クラッシャー |
身長 | 192cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1959年1月24日 |
出身地 | 大阪府大阪市大正区 |
所属 | 新日本プロレス UWF リングス HERO'S |
スポーツ歴 | 空手少林寺拳法 |
トレーナー | アントニオ猪木 佐山聡 カール・ゴッチ 藤原喜明 シーザー武志 |
デビュー | 1977年8月25日、山本小鉄戦 |
引退 | 1999年2月21日、アレクサンダー・カレリン戦 |
前田 日明(まえだ あきら、1959年(昭和34年)1月24日 - )は元プロレスラー・元格闘家。空手を皮切りに、新日本プロレス→UWF→リングス総裁。現在はK-1 HERO'Sでスーパーバイザーを努める。かつてのリングネームは「前田明」。大阪府大阪市大正区出身。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 少年時代
少年時代、ウルトラマンがゼットンに倒されたのを見て、打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始める。北陽高校時代は空手の夢想館拳心道とバイクに明け暮れた。当時から経済的に自立し、アルバイトをしながら兄弟も養っていた。元在日韓国人の三世で、民族名は高日明(コ・イルミョン、???)。現在は日本に帰化している。中学生時代、韓国訪問時に在日として理不尽な扱いを受けたことから帰化を決意した。前田自身によれば、先祖は李氏朝鮮期に宮廷で高官の地位にあったとか。日明の名前は祖父が命名したものであり、デビュー当時は「前田明」の名前であったが、祖父への思いから日明の表記に変更したと、『週刊プレイボーイ』のインタビューで発言している。
[編集] 新日本プロレス
1977年に、後にタイガーマスクとして活躍することになる佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。同年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。藤原喜明によると前田はアントニオ猪木に憧れて入団したわけではなく「肉が沢山食べられるから」という理由で佐山の誘いに乗ったと言うことである。実際、猪木が見るに見かねて前田に「何してもいいから来い」とスパーを試みたところ、前田は猪木に急所蹴りと目つぶしをして、怒った猪木にひっくり返されて逆十字を極められ、「なに考えてんだ!」と怒鳴られた事がある。※これは、後に本人が麻生秀孝(サブミッション・アーツ・レスリング)との対談で話している。
その後将来のエース候補として渡英し、クイックキック・リーとして活躍。IWGPトーナメント欧州代表として帰国。新日本プロレスの象徴的存在であったカール・ゴッチコーチの後押しもあり、一躍人気者となる。日本再デビュー戦の相手はポール・オンドーフ。また、藤波とのタッグ名は「フレッシュコンビ」。
[編集] 旧UWF~新日本プロレス
新日本プロレスの新世代エースとして活躍するも、1984年に第一次UWF旗揚げに参加。同団体の電撃解散を経て、1986年に新日本に復帰。長州力の呼びかけのもと藤波辰爾らと共に新世代軍を結成。アントニオ猪木、坂口征二、マサ斎藤ら旧世代軍と抗争を繰り広げる。旧来のプロレススタイルを根底から否定しかねないUWFのスタイルに危機感を覚えた新日本プロレスは、一番人気の前田潰しを画策。アンドレ・ザ・ジャイアントとのシュート・マッチを強行するも、前田はアンドレを戦意喪失にまで追い込む。また、新日本プロレスは空手家でWKA全米チャンピオンのドン・ナカヤ・ニールセンらをぶつけるも、前田は結果・試合内容共に圧勝。この日以降、新日ファン内での前田人気は頂点を極めることとなる。その後長州が新世代軍の解散を宣言したことを受け、1987年11月19日後楽園ホールでのUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、木戸修にサソリ固めを決めている長州に前田が顔面にキックを食らわせ右前頭洞底骨折、全治1ヶ月の重傷を負わせる。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止の解除の条件として、メキシコ遠征を行うよう指示されたが、UWFのファイトスタイルとメキシコのルチャ・リブレとでは噛み合う筈も無く、拒否した事により1988年2月1日に新日本プロレスから解雇される。
[編集] 第二次(新生)UWF
第二次(新生)UWFは、1988年5月に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ。超満員に膨れ上がった旗揚げ戦には、当時顧問の肩書きだったカール・ゴッチ等、多くのプロレス・格闘技関係者が来場した。当時のメンバーは前田の呼びかけに応じ、新日本プロレスとの契約を結ばず参じた高田延彦(当時、高田伸彦)、山崎一夫。そして同じく若手の中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫。藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるは翌年五月に新日本プロレスより移籍合流し、それに田村潔司、垣原賢人、富宅祐輔等「新人」も加わった。対戦は基本的に同門の日本人対決が多く、「異種格闘技戦」も行われ、後半飛躍的に力を伸ばした船木が所謂「前高山」の三強に迫ったものの、やや閉塞感は拭えなかった。
第二次UWFでは独自の「ルール」が施行された。第一次UWFで佐山が提起したルールを、ランキング制を除き、事実上採用したものではあった。その概要は、場外乱闘、ロープワークを排除。スリーカウントはなし。関節技によるギブアップか、蹴り、投げ、掌底によるテン・カウントのKO、五度のダウン、もしくは、三度のロープ・エスケープで一度のダウンと算定する事による、(ポイントアウトとしての)TKO、というスポーツライクなものであった。俗に言う「UWFスタイル」とは、このルールに則り闘う事であるから、いかにこのルールが彼等UWFの選手達にとって、重きを成したかが窺えよう。事実、後に三派に分裂するUWFは、独立した三派それぞれが先ず真っ先に、このUWFルールに改変を加えた「独自」ルールを作成、発表する事に心血を注いだのであった。
さて、「従来のプロレス」から電撃的に離脱する事となった前田には、時代の寵児として多くの注目が集まっていた。その「イメージ」自体は、旧来のプロレスマスコミに加え、格闘技誌面よる歓呼の声、反論の声も含めた強い関心の元、文字通り爆発的に膨れ上がったのである。そして当時まさに創刊されたばかりの『格闘技通信』は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢し劈頭を飾った。既存のプロレスとの差別化をはかる戦略は、プロレスの社会認知を望むファンから絶大な支持を得る。月一回を原則とした第二次UWFのライブ・チケットは、極めて入手困難という意味で、「プラチナ」化したのであった。
然し、順風満帆の季節は短かった。前田は神新二社長の会社乗っ取りが発覚した時点で糾弾。1990年10月、前田は大阪での船木誠勝戦直後に、試合後の荒い息のままフロントを舌鋒激しく非難。これを受けたフロントにより、出場停止処分を受けてしまう。この一連の前田と会社上層部との確執・対立は前田と所属選手間にも波及した。その後、第三次UWFの旗揚げを念頭に、前田は動く。失業状態となっていた後輩達の生活費を捻出するために自身の貯蓄まで取り崩し、「選手達をまとめておきますよ」との高田延彦の言葉を信じて奔走した。WOWOWでの放送も決定した。足場が整ったと思われた1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会を開く。一人でも選手が欠ければ第三次UWFは断念すると決めていた前田は、高田が裏で我策していたクーデーター計画を知らずまんまと乗せられて「新生UWFの解散」を宣言したとされる。ところがその際、高田派のみならずクーデターを知らない藤原派が解散発言から暴発的に独立。結果的に孤立する仕儀となる。この日からしばらくの間、前田は極度の人間不信に陥った。
[編集] リングス
- たった一人での団体旗揚げ
第二次UWF解散後の1991年春、たった一人で総合格闘技団体リングスを旗揚げ、同年5月に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。旗揚げ戦より当時新興のWOWOWの支援・放映を前田は勝ち得、以後長く、リングスの月一回の興行はこのWOWOWで同時生放送される事となる。更には、UWF時代の人脈から、オランダのクリス・ドールマンの全面協力を得る事に成功、リングス・オランダが設立された。UWFインターナショナル(Uインター)から程なく移籍した長井満也以外に、(山本宜久・成瀬昌由等の当時の新弟子は除き)日本人選手が全く所属しなかった初期の段階に於て、月一回の興行を成立させる為に、このリングス・オランダ勢の協力・参戦は切っても切り離せないものであった。また、空手団体の正道会館の石井和義館長はリングスに自団体の空手選手を派遣。佐竹雅昭は貴重な日本人ヘビー級選手として活躍した(石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積し、それが後のK1の飛躍へとつながった。この点について前田は「アイデアを盗まれた。やられた」と述懐している)。
- 前田重傷の影響
当初のエースはもちろん前田であったが、大阪での旗揚げ第二戦を前にした練習に於て、前十字靱帯を断裂する、膝の大怪我を負ってしまう。その後前田はしばらく重々しいニーブレスをつけて強行出場を続けるが、1991年12月に初参戦し、有明コロシアムで対戦した「リングス・ロシア」所属のヴォルク・ハンが登場するのを境に、膝を狙われる機会が増え、敗北を喫する光景が見られるようになった。このこともあり、前田は手術、長期欠場を決意する。エース不在の(興行的にも大きな)「穴」は、当時WOWOWのCMに「サイボーグ」のイメージで抜擢され、人気も高かったリングス・オランダのディック・フライや前出のヴォルク・ハン、成長著しかった長井満也、成瀬昌由、山本宜久等が埋め、そこに高阪剛、坂田亘も加わった。1996年にはUWFインターを脱退した田村潔司が電撃参戦、リングスデビュー戦でディック・フライに鮮やかに勝利する。この頃より、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから、ようやく脱却に成功したといえるだろう。
- 幻のヒクソン戦
一方、格闘技界を巡る時流はグレイシー一族の出現・活躍により、急速にVT(バーリトゥード)方式が隆盛を極めるようになってゆく。当初はそのスタイルを拒絶した前田だったが、時流に抗し得ず、リングスの興行でも特別ルールとしてVTルールの試合を実験的に導入。しかし、リングス内ではVTルールでリングス勢はヘンゾ・グレイシーやモラエスになすすべもなく完敗した。その時点でも前田本人が柔術勢と戦うことはなく、前田ファンの間にさえ不満の声が聞こえ始める。ところが1998年に、かつての盟友・高田延彦が柔術のヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、ついに前田はヒクソンとの対戦を宣言した。だが、当時のヒクソンは破格のギャランティーを望む事でも知られ(六千万円とも一億円を超えるとも言われる)、ヒクソンは資金力に勝るPRIDEでの高田との再戦を選択。前田とヒクソンとの対戦は幻に終わる。
- 前田引退・リングス活動停止
1999年に前田は引退する。当時、格闘技の流れはVT(バーリトゥード)に傾いており、リングスの対応が注目される中、KoKルールが導入される運びとなる。KoKルールとは、寝技時の顔面殴打不許可以外はきわめてVTに近いもので、ルール的にはVT路線前の修斗ルールに酷似している(なお、初期リングススタッフで現修斗協会理事の若林太郎は、リングスはKoKルール導入によって100%真剣勝負の場となり、それまでのリングスにおいては真剣勝負と作り試合が混在していたと発言している。しかし若林太郎は、業者からの無断のバックマージンや詐欺行為、選手の他興行への無断ブッキング等の背任行為によりリングスから懲戒解雇処分を受けていたことから、その発言にどこまで信憑性があるのかについては疑問の声も上がっている)。
このように時代への対応を行うも、スタッフ・日本人選手・外国人有力選手を次々とPRIDEに引き抜かれていく。前田引退による興行人気低下も重なって、2002年にリングスは11年間に及ぶ活動を停止。ビッグマウス・HERO'S発足まで、前田は表舞台から姿を消す。リングスには現在PRIDEで活躍するエメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらが出場していた。前田が心血を注ぎ築き上げたリングスネットワークの成果である。ちなみにリングスオランダ、リングスロシアは独自活動を行い、2006年現在もそれぞれの国で存続している。
なお、世界的なリングス・ネットワークを越える構想と組織化は、未だどこの団体・興行も実現していない。
[編集] HERO'S
2005年、元新日本プロレスプロデューサー上井文彦が旗揚げしたビッグマウスに、上井に請われる形で参画(ビッグマウスとは方向性の違いなどにより袂を分かつ)。ビッグマウスが初期に提携していたK-1が手がける総合格闘技イベント、HERO'Sの「スーパーバイザー」に就任。以後、しばしば記者会見等、公の場に姿を現している。(HERO'S興行とライバル関係にあると目される)PRIDEから、2006年5月3日に行われたHERO'S代々木第一体育館に於て桜庭和志が電撃移籍。その際、前田氏は桜庭選手と並び、ファイティングポーズをとった。この事からも分る様に、単に実際のスーパーバイザーという肩書きのみならず、HERO'Sの持つ「イメージ」は前田日明の世界観が色濃く投影される場として、ファン・関係者には認識されている。また、そうであればこそ、一部マスコミ・ファンの間では、対峙する一方の雄・PRIDEの「イメージ」を担う高田延彦氏と照らし合わせて、「前田・高田」という新日の寮生時代からの浅からぬ因縁を底流に持つ、(よく考えれば極めてプロレス的な)「ライヴァル・ストーリー」を想起し、今後の両興行の行く末に注目していると思われる。
また、看板としての表の顔だけでなく、オーディション等による選手の発掘、レフェリングやルール適用の徹底化を図る等で活躍。また、所英男選手らのトレーナーも行っている。中でも所選手に対する前田のその献身ぶりは、かつての怖い先輩であった前田氏をよく知る田村潔司をして驚かしめ、「俺がもしその場に居たら(所を)殴っている」と云わしめるほど。前田氏は自らを「あしたのジョー」の名トレーナー丹下段平になぞらえるなど、やる気満々と言ったところである。ともすれば厳しい面のみが蝶々される前田氏であるが、HERO'Sで再起を目指すかつての弟子・山本宣久の事も「直してあげたい」と発言する等、弟子への愛情は深いようである。格闘技への思いは強く、タレントの金子賢がHERO'Sに参戦することに対して厳しく批判。その様子が連日ニュース番組やワイドショー等で取り上げられた結果、HERO'Sに注目が集まり高視聴率をもたらした。
[編集] 主な戦歴
- 1986年4月29日、アンドレ・ザ・ジャイアントとのプロレスでアンドレが試合放棄(津市体育館)。ワールドプロレスリングで放送される予定の試合だったがお蔵入りとなり(最近ようやく封印が解かれた)、この試合の映像は長年プロレス裏ビデオとして知られてきた。シュートマッチの代表とされている(シュートマッチとはプロレスのリングで行われる真剣勝負のことであり、興行主催者・選手合意のもの、偶発的なものなどがある。アンドレ戦は一応双方合意)。後述のニールセン戦等、前田潰しを目的として組まれた試合で、前田によれば画策したのは坂口征二という事である。
- 1986年6月大阪城ホールにて藤波辰爾と対戦し両者KOの引き分け。前田は通常のプロレスではタブーとされる顔面への蹴り技を連発し、藤波を大量出血させた(但し、試合自体は名勝負として、当時賞を受けるに至っている)。
- 1986年10月9日、新日本プロレス両国国技館でのドン・ナカヤ・ニールセンとの「異種格闘技戦」で勝利、この頃から「格闘王」と通称されるようになった。またそれ以上に、「格闘王」という言葉が持つ象徴的な「イメージ」を、同日の対レオン・スピンクス戦で大凡戦を演じたアントニオ猪木から奪う事に成功したという意味で、この試合が前田の戦歴中で占める意味は決して小さくない。
- 1999年2月21日、引退試合にて、レスリングでオリンピック3連覇のアレクサンドル・カレリンとの対戦を実現させた(結果は前田の判定負け)。
[編集] タイトル歴
- ヨーロッパヘビー級王座
- UWFヘビー級王座
- 元はWWF(現WWE)インターナショナルヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される。
[編集] 得意技
- キャプチュード・・・前田日明の代名詞とも言える変形フロントスープレックス(スロイダー)。入場テーマ曲のタイトルをそのまま技の名前として採用した。膝を痛めてからはほとんど使えなくなった。ゴッチ伝授の12種類のスープレックスの1つであるデアポートスロイダーと同じと言われているが、真相は不明である。
- キック・・・派手なフライング・ニール・キック他、空手出身らしく多彩なキック技を操った。
- 各種スープレックス・・・12種類のスープレックスをカール・ゴッチから伝授されたと言われている。その12種類とは当時のプロレス雑誌で公開された名称によると、ジャーマン・スープレックスホールド、ドラゴン・スープレックスホールド、リバース・アームサルト、ダブルリスト・アームサルト、ウンターグルフ、サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、ダブルアームロック・サルト、デアポート・スロイダーである。だが実際に試合に使ったのは、スロイダー・風車固め(リバース・アームサルト/ダブルアームスープレックスホールド)・フルネルソン(ドラゴン)・ハーフハッチ・ダブルリストアームサルトなど数種類である。
- 各種関節技
- 大車輪キック・・・前田が放つキックの中でも必殺技といえる縦回転のニールキック。1986年の大坂城ホールIWGP予選にて、藤波を大流血に追い込んだ事で有名である。
[編集] 趣味
- 釣り
- 読書。ブレイク前の養老孟司と対談した際に、まるで子供のように次々と質問を浴びせていたこともあり、知識欲が人一倍強い。なお、戦記物、登山物などノンフィクションが好みで、小説は読まないとか。
- 日本刀の収集・研究。テレビ番組オーラの泉出演時、愛蔵の織田信長由来の刀を手放すよう説得されて困った表情に。
- 鉱物の収集。
- 日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好きらしい。
- 矢沢永吉の大ファン。
- 航空機好き。テレビ番組所萬遊記に出演した際、司会の所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘うほど。
- 昔から飛行機物のオンラインゲームにはまっており、今も自ら飛行隊を編成し、毎日のようにプレイしているとかいないとか。雑誌のインタビューで具体的なゲーム名を挙げたこともあり、彼の存在は某ゲームのプレイヤーの間では公然の秘密となっている。
- 大の巨乳好き。あるテレビ番組に出演した際、共演していた巨乳のビキニ女性の乳をマジックペンの先でツンツン。かつては斉藤由貴ファンを自称していた。
[編集] 豆知識
- 夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断する事と語っている。
- 元帝国海軍中尉であり敵機を通算64機を撃墜したエース・パイロットであった坂井三郎のことを心から尊敬しており、坂井本人からも「息子」と呼ばれていた。そのせいか、葬儀の際には人目をはばからず号泣したという。
- 非常に右翼的な言動を行い、戦前の日本の植民地支配(ルーツである朝鮮でのそれも含めて)、太平洋戦争についてもかなり肯定的である。しかしその一方でもし日本と韓国が戦争になったら、在日を守ってくれるほうに立つとユリイカ増刊、プロレス特集号において語ったように、自らの出自から来る割り切れなさも表明している。
- 『ウルトラマン』で怪獣ゴモラが大阪城を壊した翌日、その様子を確認に行ったが特に変化が見られなかったため、近くにいた掃除をしていた男性に訊いたところ「皆が徹夜で修理した」との回答をもらった。子供の夢を壊さないように答えてくれた男性に今でも感謝しているという。
- トラブルに巻き込まれやすい。2000年5月25日ライバル団体パンクラス社長が喫茶店でジェレミー・ホーンと会話をしているのを目撃。これを引き抜き工作としてホテルのロビーで胸倉を掴むなどし、民事・刑事両方で告訴され、敗訴。1994年には、リングス等諸団体が八百長試合も行っていると雑誌に掲載したフルコンタクトKARATE編集長を女子便所に連れ込んでトラブルとなる。元弟子でもある安生洋二とは揉めることが多く、リングスとUWFインターとの対抗戦の交渉決裂後にお互い罵りあい、安生は「200%勝てる」と前田を挑発。インター所属後に1996年6月のFIGHTING TV サムライ開局のパーティーでは安生を裏拳で小突き、1999年11月14日には、会場において、安生に突如として背後から襲撃される(安生は略式裁判で罰金刑)。2001年5月30日には米国でリングスで渉外マネジメントを任されていた女性を殴打し逮捕されるという報道が東京スポーツの誌面を飾ったが、この記事を巡る名誉毀損裁判で2002年9月13日の東京地方裁判所は真実と認められないと判断して東京スポーツ側の敗訴となった。なお、この誤報事件以前から、東京スポーツと前田の仲は不仲を極めている。
- 新日本プロレス時代、道場に入門にやって来た山崎一夫に同伴していた山崎の姉をナンパしたが、木村健吾に止められた。
- 同じく新日本プロレス時代、酔って暴れて手が付けられず、荒川真に手錠を掛けられ、道場のリングのロープに繋がれ寝かされた。
- かつて、石田えりら数人の女優らとの浮名を流した過去がある。現在は「交際するなら普通の人がいい」とか。
- 天龍源一郎と全日本プロレスの武藤敬司の二人は前田がプロレスラーとして認めている。前田は天龍が輪島大士をボコボコにし、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なくボコボコにする天龍の姿に衝撃を受けた。武藤に関しては自らマネージャーとなって武藤がWWEに参戦するというプランを考えていたことを武藤との対談で明かしている。無我ワールド・プロレスリングの西村修に対しても、前田の師であるカール・ゴッチの世話を続けていることに大変感謝している。
- ジャンボ鶴田が引退の時、戦いたかった相手の名前に前田の名をあげた。猪木も引退の時、後継者は前田と思っていたとコメントした。ジャイアント馬場も第一次UWF崩壊の時、前田と高田なら全日本マットに上げてもいいと発言した。前田は、猪木、馬場の二巨頭及び一時期最強と呼ばれた鶴田にも注目される程の逸材であった。
- ジャイアント馬場は、前田の長州顔面蹴り事件に、オレならクビにしないプロレスは何でもありだからとコメントしたという説もある。実際に全日本マットでは、天龍は輪島の顔面を、その数年後には天龍の弟子だった川田も三沢の顔面を容赦なく蹴っていた。
[編集] 入場テーマ曲
- 最も知られる代表的な入場テーマ。キャメルのアルバム「Nude」に収録されている。
- JUST A HERO
[編集] 著書
- 『格闘王への挑戦』講談社、1988年、ISBN 4-06-204081-6
- 『パワー・オブ・ドリーム』角川書店、1988年、ISBN 4-04-173701-X
- 『誰のために生きるか』PHP研究所、1992年、ISBN 4-569-53635-2
- 『最強の自分をつくる』PHP研究所、1994年、ISBN 4-569-54202-6
- 『真格闘技伝説 RINGS』ピンポイント、1994年、ISBN 4-87031-189-5
- 『無冠』集英社、1998年、ISBN 408780285X
その他、関連図書多数。
[編集] 外部リンク
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