船木誠勝
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基本情報 | |
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本名 | 船木 優治 |
あだ名 | ハイブリッド・レスラー |
階級 | ジュニアヘビー級(プロレス) |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1969年3月13日 |
出身地 | 青森県弘前市 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | U-STYLE |
プロ総合格闘技戦績 | |
総試合数 | |
勝ち | |
KO勝ち | |
一本勝ち | |
敗け | |
引き分け | |
無効試合 |
船木 誠勝(ふなき まさかつ、1969年3月13日-)は日本のプロレスラー、俳優。青森県弘前市出身、弘前大学付属中学卒業。本名は船木 優治(ふなき まさはる)で、若手時代は本名でリングに上がっていた。バツイチで再婚、現在の妻は元舞台女優で劇団唖然房所属だった喜山いづみ。
完全実力主義を標榜するプロレス、総合格闘技団体であるパンクラスの設立者。エースとして第一線で活躍する一方、2000年の引退後も運営や方向性の面でも積極的な寄与を行う。現在は俳優業・HERO'S等格闘技番組のコメンテーター等で活動中。パンクラスとの関係を一切断ち、かつて絶縁宣言した前田日明との関係を復活させた。2005年9月には前田の前で、プロレス復帰を匂わせていたが2006年2月で立ち消えとなった。詳しくは後述。
ケン・シャムロックから影響を受け、「ハイブリッド・ボディ」と呼ばれるナチュラルな肉体の鍛錬方法を提唱。これは、レスラーがあるべき食生活とトレーニング方法を述べたもので、後に書籍、ビデオとしてまとめられた。またコロシアム2000の際、対戦相手のヒクソンが練習に取り入れているクンダリーニヨーガ(火の呼吸)を自らも取り入れその後のパンクラスの練習メニューにも行われている。これらのハイブリッド理論は新日本時代にステロイドを使用し後遺症に悩まされた経験を糧にしたものである。
[編集] 沿革
母子家庭出身。生活破綻者であった父親には今でも激しい恨みを抱いているが、度々映画館に連れて行かれており(敬愛するブルース・リーを知ったのもこの時である)、その頃から映画に興味を持ち、後に自主映画の製作を趣味とするようになる。
新日本プロレスは一度不合格になっているが、 高校入学の前日に山本小鉄に気に入られ入団、同期に武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、AKIRA。当時史上最年少記録である15歳でデビュー、26歳で入門した同じヤングライオンの後藤達俊との年齢差が話題になる。デビュー前から女性ファンによるファンクラブが結成されていた。
盟友鈴木みのるとは厚い友情で結ばれていた。新日本の若手時代に鈴木と飲みに行って素人相手に喧嘩をして警視庁麻布警察署に現行犯人逮捕され留置場に入った際は、この事で鈴木だけが解雇になりそうになったので船木は「鈴木を首にするのなら俺も首にしてください」といって二人で謹慎処分を受けた(自分の進退までかけてかばってくれた事に感動した鈴木がお礼を言うと「だって、オレ(のようなスター)を首にできるわけないじゃん」と言われ感動が全くなくなったと鈴木が言っていた)。先輩のライガーとは仲が良く、一緒に骨法を習ったり、新弟子にシャレにならないイタズラをしていたことも有る。一見クールなイメージだが、激情家の一面を持っており、一度火がつくと後先の事を考えずに驚くような言動をする。
第一次UWFとの抗争では野上彰(現AKIRA)とのタッグで前座の名勝負を繰り広げ、新日サイドからは次代のエースとして期待される。しかし前田日明、藤原喜明の誘いに応じヨーロッパ遠征中に第二次UWFに入団。このことに関してアントニオ猪木は「プロレスに移籍は無いが、特例で移籍とした」と話している。UWFでは真剣勝負での興行を直訴するが前田ら上層部に時期尚早としてはねられ、後に理想の団体の設立を盟友鈴木みのると模索するようになる。後に船木は、タクシー運転手に「プロレスって八百長ですね」といわれたことがひどくトラウマになったと告白している(ただし新日本入門前からプロレスは八百長だという自覚はあった)。
SWS(藤原組)を経て、1993年に鈴木みのる、高橋義生らとともにパンクラスを組織。「完全実力主義」を標榜するが、団体立ち上げ当初は、選手のコマ不足から、パンクラス所属選手同士の「ぬるい」試合が続出し(船木自身がリング上で「潰し合いは嫌なんだ!」と叫んだこともある)、後に修斗から不正試合を指摘される原因となる。 性格的には熱く燃え上がる一方で熱が冷めると、冷酷に他人と縁を切る傾向があり、シャムロックとはギャラの支払いなどをめぐって絶縁、鈴木みのるに対しても、専門誌で「もう両雄じゃない、鈴木のことはライバルとは思っていない」 近藤有己にタイトルマッチで負けた後専門誌で「負けたからといってあいつに越されたとは思っていない、ファーストエスケープを取ったのは俺だから本当の意味での勝負は俺の勝ち」だと言い放ったことがある。 また、ヒクソン・グレイシーとの対戦前に行った須藤元気とのスパーリングの際、須藤のパンチで船木の左眉の辺りをカットしたことで船木が激高し、須藤に何度も蹴りを入れ、その後バットで殴ろうとしたことがある(お互いがパンクラスを退団した後専門誌で対談するなど深い確執には至らず)。
2度目の王座陥落後に今の妻が所属していた劇団の『旅の途中~oh!マイフレンド~』に主演で出演した(それ以前にも端役で違う劇に出演したこともある)ことがある、また同じ劇に元パンクラスの渋谷修身も出演していた。
ヒクソンとの試合前に、柔術対策として、高橋選手の紹介で、柔術青帯のエンセン井上とスパーを行ったが、グランドでは青帯のエンセンにすら歯が立たず、エンセンから「立ち技勝負でいったほうがいい」とアドバイスを受けていた。 そこで、ヒクソングレイシーと対戦したときに滑らないように足の裏に松やにを塗っていたがそれが原因で倒されそうになったのを踏ん張ったときに膝が外れそうになり、墓穴を掘った。
- 1993年 パンクラス旗揚げ戦メインイベント、ケン・シャムロックにKO負け 真剣勝負風のスタイルがセンセーションをおこし、「秒殺」は流行語になる。
- 1994年 突然、まぶたが二重になる。遺伝上の奇跡か人工的なものか今もって不明とされる。
- 1996年 バス・ルッテンのもつタイトル、キング・オブ・パンクラス(KOP)に挑戦し、失敗。その際発した「明日また、生きるぞ」は流行語となる。
- 同年、新王者決定トーナメントで近藤有己、ジェイソン・デルーシアを破り第4代のキング・オブ・パンクラシストとなる
- 1997年 近藤有己に奪取された KOP に挑戦し、第6代として再戴冠
- 2000年 「コロシアム2000」にてヒクソン・グレイシーと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。試合後のインタビューで引退を表明する
- 2005年9月 前田日明がスーパーバイザーを務めるプロレス団体『ビッグマウス・ラウド』旗揚げ戦で、リング上から挨拶、全面協力を宣言する。一部ファンからは、かつて絶縁宣言をした前田と手を組み、しかも既存のプロレスを全否定した過去との整合性を指摘されている。柴田勝頼を気に入っており、彼と対戦するためにプロレス復帰を匂わせていた。
- 2006年2月26日 新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行でビッグマウスラウドを脱退。今後の去就が注目される。プロレス復帰に関する整合性の指摘に関しては、インタビューなどで総合に戻ることはないと常々断言しており、依然あやふやなままである。撤退後も柴田との関係は続けるとのこと。
著書に「船木誠勝のハイブリッド肉体改造法」「船木誠勝の格斗誠書」「船木誠勝の真実」などがある
[編集] 出演作品
- 五条霊戦記
- シャドー・フューリー
- 新・日本の首領
- 筋肉番付
- Dr.コトー診療所
- 力道山
- ゴジラ FINAL WARS
- デビルマン
- 筋肉番付シリーズ
- ストリートファイターII MOVIE(フェイロン役として)声優
- 高校鉄拳伝タフ(声優)
- 富豪刑事
- 龍が如く桐生一馬(ゲーム1作目の実写版ムービー)