高阪剛
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高阪剛 | |
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基本情報 | |
あだ名 | TK 世界のTK |
階級 | ヘビー級(PRIDE) |
誕生日 | 1970年3月6日 |
出身地 | 日本・滋賀県草津市 |
現在地 | 日本 |
スタイル | 柔道 |
戦績 | |
総試合数 | () 06/12/16現在 |
総勝利数 | |
KO勝ち | |
一本勝ち | |
判定勝ち | |
総敗北数 | |
KO負け | |
一本負け | |
判定負け | |
引き分け | |
無効試合 |
高阪剛(こうさか つよし 1970年3月6日 - )は滋賀県草津市生まれの総合格闘家。マウントポジションからの脱出技「TKシザーズ」が代表的な持ち技である。正強高等学校(現・奈良大学附属高等学校)、専修大学、東レと柔道部に所属する、最終学歴は専修大学卒業。
柔道をバックボーンにリングスで活躍。94年8月、鶴巻伸洋戦でデビュー。95年10月にトーナメント・オブ・Jに出場。見事優勝を飾り、翌年1月にはモーリス・スミスにギブアップ勝ち。98年には渡米、UFC16に参戦。キモに判定勝ちを収め、10月のUFCブラジルではピート・ウイリアムスに勝利、99年1月には空位のUFCヘビー級王座を賭けて元パンクラスのバス・ルッテンと対戦。敗れはしたものの「世界のTK」の名を世界の格闘技ファンに轟かせた。しかしその後はリングスでギルバート・アイブルに2回にも及ぶ敗退、11月のUFC-Jではペドロ・ヒーゾにKO負けと精彩を欠くが、2000年の第2回KOKではエメリヤーエンコ・ヒョードルに唯一の黒星を付けて決勝トーナメント進出。2001年2月の決勝トーナメント1回戦では当時UFCヘビー級王者だったランディ・クートゥアと対戦、敗れはしたものの高い評価を得た。
リングス解散後はUFC、ADCC、DEEP、新日本プロレス(アルティメット・クラッシュ)、パンクラスなどで活躍。リコ・ロドリゲス、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ、ファブリシオ・ヴェウドゥムなどの世界の強豪とも対戦をしている。2003年5月2日には、ドルゴルスレン・スミヤバザル(朝青龍の実兄)にTKOで勝利。パンクラスではロン・ウォーターマンを下してスーパーヘビー級王者に輝く。
2005年にはPRIDE参戦。エメレヤエンコ・ヒョードルと再戦するが、TKO負けを喫する。
新日本プロレスでは総合格闘技ルールの試合だけではなくプロレスも経験しており、2002年10月14日新日本プロレス初参戦。NWFトーナメントで安田忠夫を撃破するも、決勝で高山善廣に敗れる。2005年3月26日の永田裕志戦では胴締めスリーパーで勝利するも、納得のいかない高阪が再戦を要求。しかし5月14日の再戦で、永田にバックドロップホールドを極められ、リベンジを許してしまう。
2005年のエメリヤーエンコ・ヒョードル戦後、港区赤坂にオフィシャルジム『A-SQUARE』を開設。一般生徒のみならず、多くのプロ格闘家も出稽古に訪れる。
2006年2月26日のPRIDE31では、マリオ・スペーヒーを下した。その際同年5月開催の無差別級トーナメントを最後に引退する事を宣言。この日は自身の子供の出産予定日でもあり、試合に懸ける決意の重さがうかがい知れる発言であった。
5月の無差別級トーナメントで行われた現役最後の試合では、マーク・ハントとまっこうから殴り合った末にTKO負けを喫したが、ハントのパンチでフラフラになりながらも前に出続ける高阪の姿は、多くの感動を呼び総合格闘技史上に残る名試合と評される。また、その引退試合後控え室を訪れたジョシュ・バーネットが、TKの引退を想い号泣した。それほど、周りの格闘家に愛された人格者であった。また、多くの格闘家がTKの引退試合に対して「あれを見て思うところがなければ、格闘家ではない」と公言している。
指導者としても名高く、モーリス・スミス、フランク・シャムロック、吉田秀彦などを指導した。