黄巾の乱
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黄巾の乱(こうきんのらん)は、中国後漢末期の184年(中平元年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。当時の王朝に対する反乱であるため、黄巾“賊”と呼ばれる。この農民反乱は後漢が滅亡し三国時代に移る一つの契機となった。
[編集] 事件の経過
張角は『太平清領書』に基づく道教的な悔過による治病を行った。それをもって大衆の信心を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は、184年2月に陰陽五行思想に基づく「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」の旗を掲げ、一斉蜂起した。その範囲は青州・徐州・幽州・冀州・荊州・揚州・兗州(兗=エン)・豫州の八州に及ぶ大規模なものであった。
漢王朝は当時十常侍と呼ばれる宦官が政治を壟断していたため、大規模な討伐軍を組織する事ができなかった。更には黄巾賊の討伐を皇帝(霊帝)に進言した官僚が投獄される始末であった。最初に討伐にあたっていた廬植は途中で罷免され、投獄された。そして皇甫嵩を将軍とし、討伐に当たらせた。董卓も討伐に当たっていたが、戦に敗北し免職になった。
初めは黄巾賊の勢いが優勢であったが、皇甫嵩や朱儁や、地方の諸将(孫堅、劉備等)による奮戦などもあり、また、10月に張角が病死した為、黄巾賊の勢いも衰え、張角の弟、張梁・張宝も殺され、乱は収束した。
[編集] 黄巾の乱の影響
しかしながら、黄巾賊の残党はこののちも広範な地域に跋扈しており、その後も反乱を繰り返したり、山賊行為や盗賊行為を行っていた。192年には、青州の黄巾賊が大規模な反乱を起こしている。黄巾賊が存在しなかった涼州のような地域でも後漢政府の統制が弱まったため、韓遂らが相次いで無軌道な反乱、自立、抗争を繰り返し、異民族も辺境でしばしば略奪行為をおこなった。このような治安の悪化に備えるため、主に豪族を中心にして村落共同体規模で自衛・自警のための武装を行うものが現れた。ちなみに青州の黄巾賊の反乱は曹操により鎮圧され、彼はその残党を中核戦力(青州兵)として再編した。この青州兵は曹操のみに忠誠を尽くし、曹操が亡くなって文帝(曹丕)が即位すると皆故郷に帰ったと言われている。
後漢朝廷は、党錮の禁により官界から追放されていた清流知識人が黄巾賊に合流するのを防ぎ、且つこれを利用する目的から追放を解除した。また治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州や揚州、益州など江南や四川の辺境地域に移住したことは、これらの地域の文化水準の向上と開発を促し、これらの地域が自立する素地をなしたことは三国時代やその後の南北朝時代の要因となった。
黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。