広開土王
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広開土王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 광개토왕 |
漢字: | 広開土王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
クァンゲトワン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Gwanggaeto-wang |
広開土王(こうかいどおう, 374年 - 412年, 在位391年-412年)は4世紀末から5世紀初めにかけての高句麗第19代国王。諱は談徳。東部鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。広開土王の名は『三国史記』による。正式な廟号は國岡上廣開土境平安好太王で中国や日本では好太王とも呼ぶ。また在位中、永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ぶ。
『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明王(東明聖王(高朱蒙))の12世孫とする。広開土王碑では広開土王は鄒牟王(高朱蒙)の17世孫とする。
目次 |
[編集] 生涯
先代の故国壌王の息子で、386年太子に立てられ、広開土王碑(好太王碑)では辛卯年(391年)、『三国史記』での広開土王元年は壬辰年(392年)に即位した。また広開土王この年を永樂の元年とした。在位中、高句麗の領土を拡張させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから積極的な攻勢を取った。壬辰年(392年)石硯城(開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し関彌城(江華島の喬桐島)を陥落させた。甲午年(394年)には水谷城(今の新渓)を築き、乙未年(395年)には現在の礼成江まで侵攻して来た百済軍を撃破して百済との接境に7城を築き防備を強化し、丙申年(396年)には漢江を越えて進撃し58城700村を攻略し、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。しかし丁酉年(397年)、百済の阿莘王が王子腆支を倭に人質に出して再び通好し、また倭が新羅の王都を攻めたので、庚子年(400年)、歩騎五万を新羅に派遣して倭軍を撃破し、任那加羅まで追撃した。甲辰年(404年)には倭軍の水軍が帯方界に侵入したが、これも撃退した。丁未年(407年)には百済を攻撃して6城を討ち鎧一万領を得た。
このような南方での勢力拡張とともに西側への進出も図っている。当時高句麗西方にあった慕容氏の後燕国に使節を派遣するなど友好関係を維持したが、庚子年(400年)後燕王慕容盛が蘇子河流域にあった高句麗の南蘇城と新城に侵攻して来ると王は後燕に対する反撃を敢行した。この時、遼東城(今の遼陽)を含めた遼河東岸地域を占領した。この外にも壬辰年(392年)北方で契丹を征伐し、男女500人を捕らえて契丹に捕まっていた高句麗人1万人を連れ戻した。庚戌年(410年)には東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡張し、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。
- 以上の治績のうち、外征に関する記年は広開土王碑文に基づくものである。
また内政の整備にも力をつくし、長史・司馬・参軍など中央官職を新設し、歴代王陵保護のために守墓人制度を制定した。癸巳年(393年)には平壌に9寺を創建して仏教を奨励した。412年(広開土王碑では甲寅年)39歳で世を去った後、甲寅年(414年)息子の長寿王が生前の功績を記録するために立てた陵碑(広開土王碑)が現在中華人民共和国吉林省通化集安市(旧、輯安県)に残っている。諡号は国岡上広開土境平安好太王である。
[編集] 好太王碑文
この碑は広開土王碑ともいい甲寅年、好太王の息子長寿王が鴨緑江沿いの丸都城の近くに、父を称える目的で建立されたと言う。この碑には、倭が4世紀末に朝鮮半島南部の百済・新羅を攻撃、勢力下に置いたことから、新羅王の救援要請を受け、好太王は兵を率いて、倭に服属した百済へ侵攻、首都陥落の手前で倭とのつながりを断たせたが、百済は高句麗が撤収すると再び倭と繋がり、これを新羅から伝えられた広開土王は再び百済に侵攻、庚子年には倭が大軍で押し寄せ、好太王はこれを撃退した、と書かれている。
明治時代の日清戦争の際に大日本帝国陸軍の砲兵大尉、酒勾景信が拓本を持ち帰り参謀本部で解読した。第二次世界大戦終結後は大韓民国などの研究者によって調査されたが、一部には「大日本帝国が併合を正当化するために捏造したものだ」という主張もなされている。しかしながら、正当化のためならば日本が勝ったことにしても良いはずで、やはり石碑の内容は本物だという説が唱えられ論争となっていた。しかし、2004年中国社会科学院の徐建新教授が中国国内で、旧日本軍が取った拓本の"改竄されたもの"と言われてきた内容と同じ拓本を発見した。これにより、旧日本軍が碑文の内容を改竄したとする説は、完全に否定された。