ワイ
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[編集] 二つの濊
前二世紀の中国東北部にいた「濊」は、後三世紀の夫餘・高句麗・沃沮・穢の四種族の前身であり、三世紀の韓国江原道にいた濊は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔と思われる。
[編集] 文字表記と読み方
濊は「穢」とも書き(草カンムリをつけることもある)「わい」とも「かい」とも読む(「かい」の方がより正しいとの説もある)。「穢(けが)れる、穢(きた)ない」などの意味をもつ文字で書かれたのは、異民族に対する中華王朝の蔑称ともみえるが、音は何らかの自称名を写したものであろう。一説に、前二世紀の中国東北部の「濊」は(かい)、後三世紀の韓国江原道の「濊」は(わい)と読む。
[編集] 前二世紀・中国東北部の濊
濊は、吉林省の東部から北朝鮮北西部、韓国江原道にかけて存在した古代の種族。濊貊(わいはく・かいはく)とも記され、貊は狛とも書く。「濊貊」は二文字で一つの種族の名とする説、濊と貊の二種族を連称したとの説などがあったが、「いろいろな濊族の中の貊という特定の種族」の意と考えるのが有力。古代日本では「狛」を「こま」と呼んでいたが、これは「濊貊(かいまく)」の訛りとする説があったが現在は否定されている。
戦国時代、現在の吉林省長春市の辺りに穢(わい)の名が現れる。秦時代、穢の名が消えて「夫餘」(ふよ)が代わって登場するがこれは遡って呼んだものであろう。
BC134年、前漢の武帝は穢州(遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地か)を取らんとして城邑を築いた。
BC128年冬、穢君南閭ら(穢族の首長の「南閭」たち)が二十八万もの穢人を率いて投降、その地に「蒼海郡」を設置(「滄海郡」と書くのは誤りである)
BC126年春、蒼海郡を廃止。この時、現地の首長(南閭か?)に「穢王之印」を授けて独立を認めたらしい。
BC134ー126の9年間は漢帝国と穢族の戦いが継続していたのではないかとみる説もある。
BC108年、衛氏朝鮮を滅ぼしその跡地に楽浪郡を、周辺に真番・臨屯の二郡を設置。このうち臨屯郡は現在の韓国江原道にあたり、穢族の居住地の一部(最東端)だった。
[編集] 穢族の四分化
[編集] 前漢代
BC107年、玄菟郡を設置。これはかつての蒼海郡を復活させたものであろう。玄菟郡は吉林省の東部から北朝鮮の慈江道・両江道・咸鏡道を通って日本海にぬけるもの。この時「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「夫餘国」を建てた。夫餘とは穢人の言葉で鹿の意味という。 BC82年、真番郡・臨屯郡が廃止。臨屯郡の跡地は穢人の首長たちを多くの「県侯」に任じて治めさせたと思われる。 BC75年、玄菟郡が西へ縮小移転(第二玄菟郡という)され、日本海沿岸部(咸鏡道)は放棄され、「沃沮」として独立。沃沮とは、玄菟郡の最初の郡治「夫租県」の地を中心とした穢族の意味。夫租県の県侯に代表させてよんだ名であろう。(フソだったものがなぜヨクソになったかは不明だが、何らかの原住民の言葉が関係していよう。単なる文字の間違いとする説もある)
BC59年、玄菟郡はさらに西方へ縮小移転を開始し、中国と朝鮮の国境山岳部も放棄され、「高句麗」として独立。玄菟郡の第二の郡治「高句驪県」を中心とした穢族の意味。
ここにおいて穢族は、穢(韓国江原道)・沃沮(北朝鮮咸鏡道)・高句麗(吉林省東部+慈江道)・夫餘(吉林省北部)の四つに分かれることになった。この四種族を「穢系種族」とか「夫餘系種族」とよぶ。
(BC108年(前漢時代)朝鮮半島中部にあった衛氏朝鮮が滅び、BC82年、濊(わい)が再登場するが、これは南下したわけではなくてもともとから広域に分布していたものと推察する)
[編集] 後漢代
AD32年、後漢の光武帝は、高句驪侯を高句麗王に昇格させた。高句麗王国は「絶奴、順奴、潅奴、涓奴、桂婁」の五部族の連合体だったが、これは元は五つの県侯だったのであろう。(後漢書に「王莽が王から侯に格下げしたのを光武帝が戻した」というのは誤りで「この時はじめて王になった」との三国志が正しい)。これにより、穢族は、夫餘国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。穢(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長たちが並立して統一国家は作らなかった。 AD107年、玄菟郡の縮小移転が完了。最終的に遼東郡の北部都尉を廃止してその地を玄菟郡にあてることになった(第三玄菟郡という)
[編集] 後三世紀の江原道の濊
後三世紀の江原道にいた「穢」について後漢書には、次のように記されている。南に辰韓,北に高句麗と沃沮,東は大海(日本海),朝鮮の東は皆、濊の地である。高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。同姓結婚は認められない。前漢のとき、単々(せんせん)大嶺の以西は楽浪郡が監督し、東部の七県は都尉が監督したが、やがて東部の都尉を廃止し、その地の渠帥(きょすい=首領)を諸侯に任じた。漢末には高句麗に属した」※単々大嶺とは、北朝鮮の馬息嶺山脈のこと(ただし狼林山脈とする説等、諸説ある)
[編集] 民族系統
[編集] 朝鮮民族説
三国史記が新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀からなる構成をとっていることから、朝鮮人の祖先としてこの三国を同一民族視し、高句麗=貊を濊貊に遡って朝鮮民族に同定する。韓国では民族の源流を「濊・貊・韓」の三種の合流として語る説もあるが、大抵はすべて「東夷」か「粛慎」か「朝鮮」という同一民族に帰着させることが多い。
[編集] ツングース説
ツングース系とする説は広範に流布しているが、厳密に検討された学説ではなく、蒙昧な「三国史記」史観を踏襲することへの拒否感と新進の民族誌的な近代歴史学の影響から安直に「中国東北部にいたんだから満族だろう」と発想した明治頃の暫定的な仮説がそのまま定着してしまった俗説であろう[要出典]。文献からみるかぎりその言語や習俗はツングース系とは考えにくい[要出典]。(WP:ORの可能性が高い)。
[編集] 倭人同系説
高句麗語の研究から、濊族の言語は倭人に近いのではなかったかとする説。
[編集] 古アジア語族説
ただし古アジア語族というのは系統的にまとまったものではなく、苦し紛れではないかとの批判もある。
[編集] その他
隅田八幡の画像鏡に「開中費直「穢人」今州利二人」とあるが、大和王朝では朝鮮半島からの渡来人をすべて「穢人」(あやひと)と呼んだかのようにいう説は誤りである。
「貊」は隋代以後には単に高句麗をさす言葉になったので、高句麗や百済は俗に「貊族(狛族)の系統である」等と表現される。
「夫餘」は「扶餘」とも書き、どちらも同じであるが、使い分けに多少の傾向があり、中国東北部のフヨ・中国文献でのフヨ・フヨ本家は「夫餘」と書き、朝鮮半島のフヨ・朝鮮文献でのフヨ・フヨ分家は「扶餘」と書かれていることが多い。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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